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沈黙の天使とリリスの夜街 3(ナイアル×プリマデウス)

ナイアル×プリマデウス
https://nyarseries.sakura.ne.jp/primadeus/

■悪魔崇拝
天使の翼が広がる。

されど、背中から溢れ出たそれは、高貴な純白を携えることなく、薄汚れた成長途中の雛鳥のような、まだらめいた白い翼だった。

しかし、浅黒い少女の肌から相対的に見れば、白さが印象深く残る翼と言えるかもしれない。

「ツクリモノではなく、移植でも無く… 生えているようだな。面白いプリマデウスだ。」

悪魔が天使の羽の付け根に、手を這わせながら言う。

この背中の羽が、今から引き千切られるのかと思うと、襲い来る痛みの恐怖に意識が向かう。

…が、しかし。

この背中に翼が生えた時、私は想像を絶する痛みの中に居た。

それは、背中の痛みだけではなく、全身から血が噴き出る痛み。声を失う痛み。死の恐怖への痛み。自分が何か別のものに変わってしまうのではないかという、変化への恐怖。

「ほう、震えていないか。度胸が据わっている娘だ。」

ズブブブブ…。

その言葉と共に、悪魔の鋭い爪が、私の背中の肉を裂いて、ゆっくり、ゆっくりと深く侵入してくる。

侵入した爪で、血管なのか、神経なのか、何かスジのようなものをコリコリしてくる。

(早く引き千切ったら…?)

その感触が、こそばゆくて、気持ち悪くて、私は悪魔を睨みつける。

「…言われなくても引き抜いてやるさ。そら。」

言うや、いなや。

ピン!と私の背中の翼の付け根に緊張が走り、それが連鎖するかのように、次々と緊張が全身を駆け巡る。

次いで。

ズズッ… ズズズッ… ズズズズズッ……!!

(あ゛ッ!あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ…!!!!)

皮膚が。

全身の皮膚が背中に突っ張る。

全身の皮膚が、ゆっくりと、生皮を剥がされていくかのように。

鋭い痛みが、徐々に徐々に大きくなっていく。

「うぇ…。」

隣で見ているリデさんの、えづく声が聞こえる。

ピリピリとした痛みは、次第にピリピリという音となり、それがパキッ!ミシッ!と鳴り始め、バキバキと耳を塞ぎたくなるような音を出し始めてからは、私の痛みは、既に臨界点を超えていた。

痛みが痛みを超えていた。

痛くても声は出せない。いや、声が出せたとしても、出せなかったかもしれない。

超越した痛みは、もはや痛覚として認識できず、身体が超振動で震えているような感覚に変わっている。

震えているような感覚… と思ったのは、それが最初、痛みが振動に変化したように思えたからだ。

けど違う。

この振動は、私自身が起こしていた。いえ、私の肉体が恐怖によって、恐ろしいほど震えているのを、私が知覚出来ていなかった。

背中の羽の付け根、その骨には亀裂が入り、砕け、肉が裂かれ、血管が千切れ、血が噴き出している。

私の精神も感覚も、その痛みが、知覚を超越しすぎていて、捉えることが出来ないでいた。

けれども、肉体は認識している。

身体は電動マシンのように震え、冷や汗を大量にかき、体温は冷え切り、全身に血が足りず、視界はゆらゆらグニャリとグラつき、崩れかけた身体を伝って、床をビシャビシャにしてるのは、もう汗だか失禁だか涙だか、私が嘔吐したのか、もうわからない。

声も出ないから、身体を押しつぶすように私を襲う、感覚の洪水を吐き出すことも出来ない。

結果、それが私の中にどんどん溜まり、グルグルと渦を巻き、精神と感覚が知覚できないままに、肉体だけが恐怖に打ちひしがれ、それが徐々に崩れていく様を、浮遊霊のような意識の私が見つめて、自分が壊れて無くなっていく猛烈な焦燥感に襲われる。

夢の中で落ちるような感覚。

足元がガラガラと崩れ去って、無限の闇に墜ちていく、終わったという感覚。

その何百倍もの感覚が、ついに私に圧し掛かった時、肉体は自らを支えることが出来なくなり、私は自らが垂れ流した床の液体の中に、顔面から倒れ伏した。

(終わった…?)

背中の羽が片方視界に入ってこない。けれども、感覚として背中にあるような、幻肢のような感覚。

「…これで… どうすんの?羽を引き抜いたところに、アンタの翼を植え付けるの?」

「いや、これで終わりだ。」

「どういうこと?悪魔の羽を植え付けるとか言ってなかっけ?」

「そう急くな。まあ、見ておけ。」

(………?)

二人の会話を聞きながら、私は虚ろに、床に濡れ伏している。

何が起こるのかは分からない。

けれども、今までの痛みが、知覚できるくらいにまで降りてきて、痛みを感じるようになるのが、ちょっと怖い。

でも、それくらい。

「…何も起こらないじゃない。」

「生えるぞ。」

「え?」

(生える?)

「あっ。」

リデさんが、こっちを見て声を上げる。

けれど、私は何も感じない。

目に見える範囲では、何も見えない。

「…ねえアンタ…。何ともないの?」

(どういうこと?そんなこと言われても、どうなってるのか私には見えないし、分からない。)

ふいに、背中に意識を向けると、ジワリと新たな感覚が生まれた。

(これは… なに?こそばゆい… 気持ち良い…。)

先ほどの感覚が恐怖であるなら、今の感覚は… なんだろう…。抱擁?受け入れられているような…。

「っと、見ない方が良い… よ。多分。」

後ろを振り返ろうとして、静止される。そんなことを言われると、よけいに気になる。

「見ても気分の良いものじゃないから…。ええとね… 体の中から、黒光りする蛆虫みたいなのが、ぐじゅぐじゅと湧き出て、それがお互いを喰い合って、喰って弾け出た臓物が、粘土みたいにこねられて、それが形作られて、だんだん黒い翼が生えている… ていうか形成されていくみたいな。」

「伝えるとは、お前もなかなかに悪魔めいているな。」

「あ…。」

ごめんと顔の前で手刀を切る。

…なんだか、気分が悪くなってきた… かもしれない。

「神は苛烈である。悪魔は魅惑である。」

「誰の言葉?」

「俺の言葉だ。つまりはだ。」

悪魔… アントン・ラヴェイが、私の視界に入る位置にやってくる。しかし、しゃがんで私の顔に、高さを合わせて話す気は無いようだ。

不遜気に見下して、ラヴェイは言葉を続ける。

「説明してやろう。先ほど、貴様の翼を引き千切った時に、傷口に俺のスフィアを埋め込んだ。スフィア… そう、悪魔的世界の… 悪魔的世界感覚(クオリア)のスフィアだ。これは禁断の林檎。説明するまでもないな?失楽園で蛇が人間に食べさせたアレだ。」

…何を言いたいのだろう。知恵の林檎を食べた人間が、恥を知って追放されたように、私にも何か似たようなことがあるというのだろうか。

そんなことを考え、彼をじっと見つめていると、その思惑を察したのか。

「林檎はあくまで例えだ。何かを得れば何かを失うということだと思えばいい。この場合、何かというのは…。」

「世界感覚(クオリア)…!」

「え?」

「ふむ。」

「あっ…。」

驚いた。

二人も驚きの表情を見せたが、一番驚いたのは私だ。

声…。

翼を授かって以来、失っていた声が…。

「声が… 喋れる。」

長い間失っていた声。それでも私は、その使い方を忘れてはいなかった。

「喋れる… 喋れる…!」

自分の身体から抜け落ち、欠けていた部品が戻った所ではない。

声は意志であり、言葉は世界だ。人は言葉によって思考し、人はその思考形態を自らの居場所とする。

意志を、そして自分のあるべき居場所という世界を取り戻した私は、嬉しさのあまり、さっきの痛みとは違う涙を、知らずのうちに溢れさせ、その喜びを表現することすら出来なかった。

「…歌えるか?」

「…ぁ! ………え?」

無意識に。条件反射的に、私は悪魔にお礼を言おうとしていたに違いない。

けれども、その脊髄反射的な行動は、彼の質問によって理性を取り戻す。

「歌えるか?」

彼が、今一度問う。

何を?

否、私は知っていた。知っていたが、知らないふりして、考えないようにして、喜びの渦に飲み込まれて、流されていたかった。

けれども、それは叶わない。

残酷な悪魔は、私の足を言葉で掴み、蛇のように絡まって、非情にも引きずり下ろすのは、さも当然というのが彼という存在だった。

「讃美歌を 歌えるか?」

「…ぇ …あ。」

言葉に詰まる。

歌えない。

声が出ない。

歌えない。

思い出せない。

歌えない。

なぜ、なぜ?なぜ?なぜ?

「な… んで?」

「アンタ… やっぱり悪魔なのね。」

「いいや?俺は世界だよ。捻じ曲がった正しさを説く教えに従うことなく、世界の本来の法則に従うだけの人間だよ。」

私は意志を取り戻した?世界を取り戻した?違う、そうじゃない。

「小娘。貴様は声を、意志を世界を失ったことで、神の世界に触れる天使となった。…だが、これで理解できただろう?俺はその表情が見たかった…。」

クックと喉を鳴らし、猫のように目をゆがめ、悪魔は実に愉しそうに笑う。

「私… 私は… 私が取り戻したものは…。」

「取り戻したのではない。与えたのだ。そして貴様は喜んだ。それが、本来の自分の意志であり、居場所であると喜んだのだ…!」

この男は、やはり見た目通り悪魔だった。

いや、善とか悪とか、正しさとか間違っているとかをいうことじゃない。

それは、私も分かっている。世界は秩序などではなく混沌。それこそが、世界の本来の姿であることは分かっている。彼は、その世界を体現する悪魔… つまり世界とは…。私が喜んで取り戻した世界とは。

「私は… 悪魔のクオリアに染まってしまったのね…。」

なんとか、言葉にする。けど、それも違う。悪魔の世界に染まったんじゃない。この世界という居場所を受け入れ、喜んだ私はつまり。

「残念だが、お前は悪魔じゃない。かといって、もちろん天使でもない。いいか?俺はお前を仲間に引き入れたいわけじゃない。俺は悪魔の代行者として、この混沌の世界を体現する存在でありたいだけだ。見ろ。」

彼はそう言って、指をパチンと鳴らす。

すると、どこからか、大きな姿見が二枚、私を挟むように創造される。

鏡に映った私の背中には… くすんだ天使の翼と、活き活きとした悪魔の翼が生えていた。

「…人間?」

私を見ながら、リデさんが訝しげにつぶやく。

「そう、人間だ。神の世界から追放され、かといって地獄に招いてもやらん。」

「それじゃあ私は… 私のクオリアは、私の世界はどこにあるの…?」

「どこにもない。貴様が依存できる世界は、もうどこにもない。それはクルドやユダヤに近いものかもしれない。だが、それは貴様だけではないはずだ。」

「どういうこと?」

「貴様は、信仰だとか真実だとかに縛られた旧世界から解き放たれた。いや、改めてその呪縛から抜け出し、ゼロの大地に降りたった。真実も世界も、どこにも存在しないし、どこにでも存在する。彷徨うか、真に自分の世界を創造するかは、貴様次第ということだ。」

そう言いながら、彼は懐に手を忍ばせ、そして白濁色の液体が入った瓶を二本取り出す。

「精液と愛液だ。受け取れ。」

手渡すでもなく、ほいと投げ渡し、リデさんが危うくキャッチする。

「ちょちょ…!落として割れたらどうすんの!!」

彼はその言葉には答えず、踵を返す。そして私を見ながら…

「墜ちはせんさ。少なくともハリボテの翼、イカロスの翼はもう貴様の背には無い。高く飛ぶもよし、地を這うもよし。次に会う時は、せいぜい俺を楽しませてくれ。」

そう言って、モスク(寺院)の奥に姿を消してしまった。

「…意味わかんない。なんなのアイツ…。まあ… 欲しいもんは手に入ったし、いっか。おつかれ、大丈夫?」

「え、ええ 大丈夫。まだ… 体が大きなショックを受けすぎて、疲れちゃってるみたいですけど…。」

「まあ… あんな目に遭えばね。ちょっと休もう。ココロの方は大丈夫?ショック受けてない?結構… キツイ気がするんだけどさ…。ったく、あの悪魔野郎。」

リデさんは悪態をついて、ツバを吐き捨てる。

「…あの人は、結果的に私の目を覚ましてくれたんだと思います。無論、そんなつもりはなくて、その行い自体が、あの人の存在意義そのものなんでしょうけど。」

この混沌とした世界に対抗する手段の一つとして、神への信仰や秩序への依存を武器や盾として、進んでいくことは出来る。

けれども、武器や盾はあくまで手段であり、それは時間とともに劣化する。

どんなに長き時を耐えられる剣と盾だとしても、人が成した有限の法と、世界のありのままの姿である無限の混沌とでは、結果は目に見えている。

「天使は天の使いでしかない。いつかは崩れる神の規範に従うのが全てではない。良いことも悪いことも、自分で歩いて、自分で判断して… 自分の翼で世界を創造していけ。たぶん、そういうことなんだと思います。」

「真実は無く、許されないことも無い。って感じ?」

「あはは… どうでしょう。でも、やっぱり私は悪魔になったわけじゃないと思います。」

「でも、天使でもないんでしょ?」

「そうですね、私は私になりました。地面に落ちちゃった気はしますが、自分なりの飛び方を覚えて、また羽ばたけば良いだけです。さ、いきましょう。何度落ちるかは分かりませんが、これからは混沌を飛んでいけるプリマデウス…。いえ、"カオス・ルーラー"ゲーニャ・スチグマティとして生きていきます。」

楽しい創作、豊かな想像力を広げられる記事が書けるよう頑張ります!