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指導者としての成功

今日は4月23日です。つまり、ニート生活23日目。

最近の悩みが1日がすぐに終わってしまうということ。

先週からスポーツクラブに入会して、平日1キロ泳ごうかなぁってのが、6日連続で達成できました。意外です。なんかよくわからない毎日だけど、多分充実しているってことだと思います。

自分何してるんだ?っていうのは、1日5回以上頭の中をかすめるけど、かすめるだけで、まぁまぁこれでいいのだ。だから、この間に休んで勉強して成長するのだと自分に言い聞かせて、友達に喋って、母の世間話に付き合って、猫とお散歩しながら本読んでレビューを書いて、夜はいろんなこと考えながら泳いで、プロテイン飲んで。そんな日々です。


さて本題。「指導者としての成功」今回の指導者はバスケのコーチです。

今日のnoteはめちゃくちゃ長いし、自分のために書いたので、悪しからず!

読み返すのも面倒になったので、誤字脱字もありそーう。悪しからず!

わたしは、保育園の時から姉兄のバスケについていき、小学2年生からちゃんとバスケを始めて曲がりなりにも今でも続けています。

昨日、引き取ってもらえるクラブチームが決まったので、現役も続行です。

膝も肩も古傷たくさんなので思いっきりはできないけれども楽しむ程度でがんばります。といっても、やり始めたらガチになっちゃうかもしれないけど。


この間のnoteでも書いた通り、教員という仕事とともに、バスケのコーチというライフワークもわたしのアイデンティティとなっています。そのアイデンティティを失ったから全てを捨てて帰ってきたんでしょうね!

地元では、ミニバスも中学校も高校も社会人になってもずっとバスケをしていたからその界隈の知り合いはたくさんいるわけで、みんな心配し続けてくれたわけで。

帰ってきて暇なら挨拶がてら練習においでよと声をかけてくれる人もいました。

暇だし、尊敬する人たちからのお誘いなので、挨拶しに行きました。「暇な時いつでもまたおいで」って言ってくれてとっても嬉しかったです。教員目線から言うと、「もうちょっと、こう、ねぇ・・・・」ってところはあるけれど、指導術を勉強させて欲しいなぁとも思います。

んで、

少年団や部活動の指導者としてのゴールはなんだろう。「勝つこと」なのか「育てる」ことなのか。バスケが上手になるように指導するってことは当たり前だよなぁ。

何年も前から言っている自分の理想論では、

「バスケを好きになって、長くバスケに関わっていくバスケットマンを育てること」

でも実際に自分がメインでチームを持つとそんなことは言ってられず、

「少年団活動や練習を成り立たせること」「試合で勝つ喜びを味わってもらうこと」「親や選手、相方コーチとうまくやっていくこと」

に終始してしまって、練習メニューを覚えていない選手たちに「揃いも揃ってバカばっかだなぁ」って言っちゃったり、試合後のミーティングでペットボトルを床にぶん投げたことあったなぁって恥ずかしくなったりします。

最初の1年は強い男子のチームのアシスタントコーチとして、いい景色を見させてもらいましたが、それ以降は弱小チームのヘッドコーチでした。最初の1年もまだ始めたばかりの子達に基礎を教える立場だったので、俗に言う指導者としての満足感を得ることがないままここまできたのかもしれません。

選手としては、ずっとそこそこのレベルにいて修羅場もくぐってきたし、ちびっ子頭脳派ガードなので、経験や戦術としてはたくさん持ってるんですけどねぇ・・・・

審判も人並みにできるようになったし、コーチングライセンスだってD・・・

まぁそんなモヤモヤを抱えながらも、与えられた環境でがむしゃらに、楽しく過ごしてきたわけです。でも、いつも終わり方が良くなくて不完全燃焼。いつだってそう。

そんな日々を過ごす中で、期限付きの2年間で関わった子どもや保護者の話が耳に入ってくることがいくつかありました。

私が深く関わった子は脳と体がなかなかつながらない「ド下手」だった子達が今でもバスケを続けているらしい。

「ことコーチとの1年間のおかげで高校でもバスケを続けています。」

「下手だったけど、楽しかったですよね。」

「めちゃくちゃだったけど、楽しかったなぁ。今は活躍してるけど、あの頃はひどかったですもんね。よくコーチ明るく頑張ってたと思う。あの楽しい思い出があったから今も頑張れているんだと思う」

それを聞いた感想は、「あー、そうなの?笑ならよかったー私は結構辛かったけどね笑まぁ楽しかったっちゃあ楽しかったかぁ」

ここから考えられるのは、指導者としての成功は

・「楽しかった」という思い出

・バスケに関わり続けているということ

綺麗事だけど、今の自分からすると、こんなところなのかなぁ。

これからも指導者としていろんな経験を積んでアップデートしていきたいですにゃ。

一旦終わり。ここから余計な話が2つ。

1つ目。学校の教員が課外活動に関わりにくい時代になっているということ。

「バスケのコーチをしながらの教員」と「教員の仕事に集中できる環境」の両方を経験してみて、後者の方が教員としての満足感や教育の楽しみを得ることができた。ちゃんとやろうと思ったら、教員の仕事だけでも本当に時間は足りないしヘトヘトであーる。

しかも、学校の中で、課外活動を応援してくれる人はほとんどいない。

初任で赴任した1日目に「まずは先生の仕事してくれ」という校長の方針を聞き、それでもミニバスに関わり、苦しい立場に追い込まれて地獄を見たにょ。

応援してくれるのは少年団の保護者やコーチ仲間ぐらいであーる。

応援してくれると同時に最大の敵にもなるのであーる。もうトラウマであーる。笑

だから今も「チームには所属しないし、試合のベンチにも入らない」という条件でお手伝いをしている。

でも私の性格上、教員のバスケのコーチのどちらも捨てたくないので、この4ヶ月でなるべく勤務時間の中で一定基準を超えられる教員のお仕事システムを考えだしたいなぁって思っておりにゃす。


2つ目。ただ書き残しておきたい思い出話。

自分のミニバス時代の始まり、4人の男性ベテランコーチにお世話になった。

田中コーチ(女子メイン)、鈴木コーチ(ちびっ子)、松浦コーチ(男子メイン)、石倉コーチ(土日に基礎をみっちり教えてくれるアシスタントコーチ)

どのコーチにも本当にお世話になった。この時代は可もなく不可もなくななかに結果の出せないチームだったなぁ。すっごい育ててもらった。

これから勝ち時代が始まるって時に転勤と外部から来た新しいコーチ関連のゴタゴタが発生し、みんないなくなり、石倉コーチだけが残った。夏の大会で地区優勝もしたし、冬の全道大会で日本代表の町田るいちゃん達とも戦った。その、石倉コーチとのお話。

私は控えめな性格の石倉コーチのことをコーチとして尊敬してるとか、恩師だとかはあんまり思ったことがあんまりない(めっちゃ失礼)

石倉コーチは私が卒業した後もずっと私の出身のミニバスにいた。そして、私が大学を卒業したタイミングでやめたらしい。私はその石倉コーチがいなくなった穴埋めで出身少年団に戻った。

アシスタントコーチとして全道大会も夏冬行かせてもらったし、さっき言った初心者の指導もできた。でも、キャプテンの姉っていう立場や世間知らずで自信があった私の怖いもの知らずな言動で、大人の圧力がすごくてもう大変だった。家族を巻き込んで、巻き込まれて嫌な思いをたくさんさせただろうし、私も嫌な思いをたくさんした。


そんな一年の終わりに「うちの孫のチームでヘッドコーチとして一緒に指導しないか?」と石倉コーチが引っ張り出してくれた。定年直後の石倉コーチは生き生きしまくってた。「いきます」とすぐに返事をして、お世話になった?少年団をぶん投げて石倉コーチとの弱小女子チーム『帯小ホワイトハスキーズ』(マスコットはスヌーピー笑)のヘッドコーチになった。

もともと選手とコーチだった関係から、ヘッドコーチと監督という立場になったけれども、相変わらず、石倉コーチは何かを教えてくれるっていうよりかは環境を作って私に好き勝手やらせてくれるっていう感じだった。

仕事を終わらせて途中から練習に行くと、スポドリをくれたりおやつをくれたり、審判の前に「ストレッチしたか?」と声をかけてくれたり、電子ホイッスルをくれたり。私が騒ぎまくってるのを後ろで見ていた。でも、石倉コーチの性格は頑固で怒ると直情的になる。小学生の時に高学年にキレて電子ホイッスルを叩き割ったことがあったし、孫のお姉ちゃんの方にめちゃくちゃ厳しい。笑

そんないいコンビで楽しくやっていたわけですが、石倉コーチが体調を崩す。

かなり進行の早いがんが見つかって、そこからは、手術と入退院、調子の上げ下げを繰り返しながらも少年団活動を続けてくれていた。

身辺整理を進める石倉コーチは私にいろんなものをくれた。私が6年生の時の新聞の切り抜きとか。雑誌の付録についていたBEAMSのポーチとか。笑

10月私は教員採用試験に受かって、勤務先は十中八九当時の少年団が指導できる場所になると聞いていた。でも、3月に電話がかかってきたのは、170キロ先のオホーツク。いろんな人とたくさん相談をしたけれども、チームを畳むことになった。

※ここから先は「ですます調」です。

3月11日に教育局から電話がきて、修了式が終わった3月26日の練習で子ども達にお別れの話をしなきゃなりませんでした。

「今日も練習お疲れ様。コーチは遠くで先生をすることになったので、今週でこのチームは解散です。今、地区のバスケット協会と相談をして、みんながこれからもバスケを続けられるように近くの少年団に移籍できるよう、お願いをしているところです。」

なんじゃこりゃって感じじゃありません?笑

麒麟田村のホームレス中学生みたい。

私が小学生の時に知り合いの先生が立ち上げたチームをたった1年しか指導していない私が潰さなきゃならないなんて。そしてすぐに引っ越ししなきゃならなくて事後処理も出来なさそう。事後処理は石倉コーチに引き受けてもらいました。最後の日、名前の入ったタオルを記念品でもらいました。4月からは、引き取ってもらった先の監督として子ども達を見守ってくれていました。

怒涛すぎて記憶が曖昧だけど、転勤までの間に石倉コーチの最後のわがままで、最初に話した4人のコーチを母が集めて私も含めて飲みにいきました。またこれも記憶が曖昧だけど、夏に帯小ホワイトハスキーズのもう一人のママさんコーチと3人でも飲みにいきました。

そんなこんなでしたが、転勤1年目の11月末に亡くなったと報告をもらい、学校を休んでお通夜にいきました。自分のことを無条件で応援してくれる身近な人の死は結構きついものでしたが、当時の生活が精一杯すぎてそこまで考えられていなかったなぁと思ったり。(石倉コーチごめん)長期休みに1回線香を上げにいきました。

これが石倉コーチとの思い出。そんでここからは、自分が地元に固執して帰ってくるまでの話。


「7年頑張ろうと思ったけど、2年でもう頑張れませんでした。辞めてでも4年で帰ることにします。」

初任先で一生を過ごすのもアリかもなって思ってましたが、自分にとって故郷はあまりに存在が大きく、結局仕事を辞めてでも帰ってきたわけです。毎日必死で生きているわけだから、もう最後はなんで辞めてでも帰るのか全然よくわからず、とにかく後悔しないようにやり切ることしか考えてませんでした。

帰ってきた後も、「何してんだかなー」「そこまでして帰ってきたかったんかなー」と自分のことなのに20日間くらいぐーるぐーるしてました。

4月19日、小学生の時の大会での思い出の場所「音更ドーム」におめろたんと運動しに行く最中、ミニバスの思い出と重ね合わせて気付きました。


石倉コーチみたいな、愚直に私を応援して支えてくれた場所がここにあったんだなぁ。

そんな場所から離れられなかったんだなぁ。

でも今は、石倉コーチもいないし、帯小ホワイトハスキーズもないんだなぁ。

だからこんなにモヤモヤするんだなぁ。


なんの解決にもならないかもしれないけれども、心の中の引っ掛かりが一つ取れました。って話でした。


ちなみに、私はバスケット人生の中で幸運にもよくいる「管理的で威圧できな指導者」に指導されることがありませんでした。その人も理性的な人でした。(だからこそ、爆発的な成長はしてないし、粒は揃っていたはずなのに結果は出せていない。カリスマ指導者だったら、私のバスケ人生はもう少し変わっていたのかな。いや、潰されてバスケ期待になって辞めていたかもしれない。)

なので、私が直接指導してもらったコーチの中に理想のロールモデルはいませんでした(本当に失礼)が、本当に伸び伸びとバスケの楽しさを味わわせてもらえました。

その結果、私は今でもバスケットに関わり続けているんだなぁと思います。

つまり、私の指導者たちは、指導者としての成功を収めていたのだと思います。

たくさんいる同級生は、誰も続けていないけどね笑。


今は、自分がどのようにバスケットに関わっていくか悩んでおります。だからこそ、自分のバスケの歴史をコーチ目線で振り返ることが必要だなぁって思って、こんなに長いnoteを書いてしまいました。


自分のために書く。ができている証拠だと思います。

石倉コーチ、本当にありがとう!私も子ども達や後輩を支えていけるようにこれからも頑張ります。

あー、息子さんに連絡して線香あげに行こーっと。

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