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生あるものの、命を貰う

若い人で、魚を捌けない、と言う人がいます。「魚の目が、怖い。」と言うのです。

切り身なら平気。料理されていて、頭がついていなければ、食べることもできる。

その切り身、誰かが頭を取って、切り身にしてくれたんですよ? 

年配の方で、鶏肉が苦手な方がいます。理由を伺うと、子供の頃田舎で鶏が歩いているのを見た。その後、その鶏が食事に出てきて、食べることができなくなった、というのが、一番多いです。

魚を捌けない理由と、似ているようで、大きく違います。

食べ物になるものの命を奪うことへの、罪悪感があるかどうかです。

私達人間が命を繋ぐ為、他の生き物の命を奪っています。肉も魚も野菜も、皆生き物です。生きていく為、食事は必要です。仕方のないことです。その食事となってくれた命への、罪悪感を抱くより、感謝してその命を無駄にしないことの方が、建設的です。

禅宗のお寺で、食前に五観之偈(ごかんのげ)と言うお経を唱えます。自分がその食べ物に値するだけの働きをしたか、その食べ物が何処からきたか、などを戒めるような内容です。

昔、木喰上人(もくじきしょうにん)と言う僧侶がいらっしゃいました。肉や魚を食べず、煮炊きで木の命を奪うのも避け、木の実、草ばかりを食べる修行をなさっていた方々です。煮炊きをするのも、他の生き物の命を奪うことだと、認識していたのですね。

食べ物を粗末にしないのは、食べ物になってくれた生き物の命を無駄にしないためです。

日々の食事、感謝を持っていただきたいですね。




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