数字を祝えるVtuberが羨ましかった話
僕はバーチャルYouTuber(Vtuber)をしているのだが、この界隈に2年いて思うこと「兎に角祝い事が多い」という事だ。キリの良い登録者のお祝いやTwitterの数等様々な事でキリをつけて祝う。
「おめでとうやで!」と素直に祝うものの、割とよく負の感情に飲まれて「はーーん!自慢か!」みたいな気持ちになる為、自分の羨ましい妬ましいと向き合う時間を今から作って話していく。御付き合いください。
自分と較べてしまい数字の話を素直に喜べない
Vtuberのお祝い事は人それぞれあるが1番目について拡散されやすく頻度の高いお祝いはやはりチャンネル登録者数やTwitterフォロワー数の話だ。勿論それを機に色んな人に知ってもらえたり、みんなでお祝いできる日を増やすのはとても良い事だと思う。
しかしその反面、所謂SNSの闇でもある「全員が輝いて見える」現象が定期的に起こることに気づいた。基本的にSNSに上がることは大抵の場合誰かに話したい!と思ったことを話すのであって別に呟くに取るに足らないということを呟かない人は沢山いる。だから世界はみんな幸せそうにしているように見え、それに比べて自分はなんて惨めなんだという劣等感を抱いてしまったのだ。
そもそもの短命さから来る刹那的な急ぎ足
Vtuberは短命なことが多く、ジャンル自体がまだ3、4年目という状態である。そして個人1人で運営をしている人が大半だ。仕事や学業の合間に行なう趣味や業務であることが大半な為自分の基盤たる仕事や学業が多忙になったり、私生活に影響が出る程Vtuber関連で病んでしまうと続けることが困難になり、辞めてしまうことは珍しい話ではない。趣味なのだから楽しくない、忙しい等で辞めるのは当然の話なのだ。
その為、誰もが何時居なくなるかわからない。昔の人がか弱く死んでしまう子供の多さから歳を越えられたことに対する祝い事を沢山作った様に、Vtuberにもハーフアニバーサリーよりも細かなマンスリーアニバーサリーが存在する。1ヶ月記念配信!などが本当に珍しくない。
それ故に登録者のキリが良いお祝いは視聴者への感謝とここまで生き残ってきたVtuberへの誉として1000人までの間は100人刻みや50人刻みで行われ、本人のモチベーションや視聴者を飽きさせないコンテンツの一環として文化となっている。
勿論自分が推しているVtuberが祝い事となるのは大変喜ばしいことであるし、共に祝い喜びを分かち合いたいと思うだろう。
しかし、それはあくまでも"好意のある人間"に対してなのだ。
興味のない知らない人間の祝い事は邪魔でしかない
彼らにとってはとても素晴らしい祭り事だろうと思う。しかし、その祭りごとは別に自分に利益になりそうなものでも無ければ好きなものでもない。
お祝い回数がそこまで多くなければ「そういう人も居るんだなぁ」で済む話でも周りの人間は全員Vtuber、一般フォロワーさんも大半がVtuberが好きなんて状態であればVtuberの活動の場の一つでもあるTwitterのTLは毎日が祭りごとになる訳で。
ましてや自分が努力しても中々達成出来ずやきもきしがちで共感出来ない"数"の話であれば尚のことである。
そうなるとその数字に関する祭りごとは興味のない知らない人間の知らない自慢話が今日も流れてくる!というマイナスのイメージに僕の中でなってしまったようで、好きな人のお祝い以外が非常に苦痛に感じる様になっていた。
余裕が無くプライドの高い自分
毎日の様に流れてくる人の楽しそうな様子。勿論暗い学級会や病みツイートを見るよりかは心の衛生上良いものなのだが、どうしても目に付いてしまう。
しかし目についた理由は"伸び悩む自分との違いや劣等感、嫉妬心"というだけで、そう思うならもっと違う事で自分もお祝いを沢山すればいいと言うだけなのだ。
楽しい事をする人には楽しいことが好きな人が集まるようになる為、別に数字に固執しなくても「今日食べたご飯が美味かった」「今日の風呂が気持ちよかった」ということを楽しそうにお祝いすると皆良かったね!と言ってくれる人が集まってくる。
けれどマイナス思考に陥っている時はそんなことを考えられる余裕はない。あったらそんな事でそもそも悩んでいないのだ。へけ。
自分と向き合う努力
その頃の僕は完全にTwitterに病んでいた。他人を追いかけ他人の動向を見て需要とは何かと考えキャラデザの良い男性ウケする女性Vが爆伸びしていたり、女性ウケしそうな男性Vのモテはやされている様を見ては僻んでいた気がする。自分には無いものを持っている人間はやはり羨ましいし隣の芝生は青く見えた。
けれど彼、彼女らはただその立ち絵や声の力だけで伸びた訳では無い。彼らは需要と供給を理解したり、自分の財力を使って理想の身体を作り上げたり時間の無い現代社会人の日常へ自分をいかに魅せられるかを考えた人間たちなだけだ。あぁでも羨ましい!ちゃんと行動出来ることが羨ましい!!
そういう分析力や人に頼る力がある人達に憧れるからこそ羨み妬むのだろうなと思ってからは我武者羅に頑張っていたこともある。まぁ我武者羅にただ数をこなしても意味は無いのだが、一つ一つの自分と向き合って、ひたすら1つずつ少しずつ歩いている。これは現在進行形だ。
そして色々思った結果、あることにたどり着いた。
「僕3ヶ月位90人台を行き来してて辛かったんだ」と。
もうちょっとだと期待する心と人を数で見てしまう汚い自分
100人のうちの50人までは単純に増えることが嬉しい。しかし50人を超えた辺りから「早く100人にならないかな?」という四捨五入の気持ちが生まれ始める。そして90人まで行けば「あと10人!」と逸る気持ちは更に高まっていた。しかし現実問題仕事場に慣れるためにあれやこれやとしていた時期でもあり、世の中が暗く重いニュースしか無かったりなどして創作意欲を高められる程のメンタルがなく。そもそも自分と向き合うのがしんどく。あまりYouTubeへ動画をあげることも出来ておらず、Twitterもだらだらと単調な日常をあげることも多く。そんな状態で達成出来ることなどそうそうない訳で。
そんなこんなをしていて1度自分の中の棚卸しをしないとしんどいわ、となって上げたのが前回のnoteだ。
赤裸々に今の現状やつらさを書き連ねてとりあえず落ちる所まで落ちてみた。向き合える部分まで全部向き合った。その結果、冒頭にもあるように「羨ましさ」が原因であることに気づいた為、今はとりあえず羨ましいことをしてみることにしたのだ。
その結果、この前やっと自分も400人のお祝いができたのである。
羨ましいならやったら良いんだなと思った
実際僕が何をやったかといえば
・羨ましかったからついにキャプチャーボードを買う
・「お願い登録して!」とTwitterで慈悲を募るのがプライド的にもそれで貰える登録になんの意味がとか思ってたけど実際羨ましかったし登録しそびれてることって本当に良くある!!と自分に言い聞かせて呟いてみた
・完璧な動画だけを上げることはやめた
・ノリと勢いで動くことを自分に許した
・伸びたいと思うことを許した
・やりたいことをノートに書きまくった
・叫んだりして頭の中にあるものを全部出した
・自分の考えをTwitterに垂れ流さず絵や文にすることにした
・他人を妬んでる様な他人のツイや病みツイが自分と重なって果てしなく嫌だったのにミュートしたらこいつに負けた気がするとか思っていつも見て耐えていたの大変宜しくなかったため辞めてミュートにした。
こんなものだろうと思う。
これで分かったことは10割自分のプライドとの戦いであって
他人は実際そんな関係がないという事だ。
自分がどう見られているか、他人がどうだからとかでは無く
自分がやりたいからやるし自分がどうなりたいかなのだ。
だから憧れの先があるのであれば進んでみたらいいし、やってみたら良いのだ。僕には手があり足があり、頭があるのだから。
性格はすぐには変えられないからこそ、自分と向き合い続ける
昔今よりもさらに病んで働けないレベルまでメンタルか死んでいた頃、カウンセラーさんと何度も同じ思考回路になってしまうしすぐ直せないという話していたが
「生きてきた年数やってきた性格はすぐには変えられない だからこそゆっくり向き合って今から少しづつ。焦らなくていいんです」と言われた。
やりたいと思った事だけをやったらいい、やりたくないなぁが勝ったらやらなきゃいい。でもやらなきゃならない事は沢山ある。
そういう時は頭がパンパンに詰まって容量不足になっていることが大半なので、またこうして文章にしたり、形を変えながら吐き出したりしてひとつずつ消化していこうと思う。
ひとつずつやることしか僕には出来ないので。ひとつずつをやっていこうと思う。そしたら多分何もしないよりは良くなってると思うから。
とりあえず僕は今から風呂に入るのが死ぬほどめんどくさいけどさっさと入った方が楽、あと眠いに向き合ってくるので今回のことはこれにて失礼する。ではまた。
◇関連記事◇
気が向いたらスキ押してもらえるとモチベになりますぞ♡
猫缶代、いつでも待ってます。