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羨ましいゴミ

相手から同じだけ帰ってくるとは思っては行けないのは分かっているけれど、期待してしまうのは良くないとわかっているけれど、してしまうので、なら最初から何も言わない方が気楽だよなと思ってなんにも言わないようにした結果、楽しい話題を話せなくなってしまった。

少しでも期待を含むような話を聞いて欲しくてしてしまったら最後、自分の得たい言葉が帰ってこなかったら不機嫌になるのなら、なんにも言わない方が気楽だろう。自分の機嫌も相手の機嫌も損ねずに済む。その代わり来るのは巨大な孤独だけ。なんかこう、なんの楽しみもない。

好きな物の話なんてしても、楽しませられないならする価値がない。絶対面白いと思える話でない限り、しても意味が無い。

ぜーーーんぶこう、母親の受け売りなんだろうと思うと反吐が出る。全部否定されると人は楽しいという言葉を発しなくなる。悲しいという言葉も発しなくなる。残るのは人への妬みとか、羨ましいとか、そういうものを持った何かなだけ。

好きになったものを別に手に入れられる訳でもないし、どうせいつか飽きてしまうし、好きだと言っても嫌いだと言われるなら好きだとも嫌いだとも言う必要性を感じない。

本当はいいたくても否定が怖いと思う段階でその程度なのだ。否定されても好きな物をすきと言えないならその程度なんだろ。

どこが好きかなんかわからん。何となく雰囲気で好きだし、なんかわかんないけどよく見てる。映画鑑賞が趣味と聞くと高尚に聞こえるのにYouTube見るのが好きというのが凄まじくチープに聞こえるのはなんでだろう。

好きな動画クリエイターさんがいて、テンポ感やSE、BGM、ナレーション全部いいから見てる、エンタメ。映像美とか、楽しそうだとか。憧れを詰め込んだ作品群。羨ましい。そういう細かいことを言えないと趣味じゃないヲタクじゃないみたいな固定概念が嫌いなのに、それに縛られてる自分がいる。でも、何となく好きなんて1番喋りづらい内容。

こんな家庭で育ちたかった、こんな家系で生きたかった、こんなことしてみたかった、こんな人生を歩んでみたかった。

二次創作もYouTubeも全部そう。アニメもそう。全部羨ましいから見てるだけ。ないものを沢山持ってて羨ましい。自分はなんにも持ってない。誰かが僕の立ち位置を羨んでたとしても僕の目に写ってなかったらないものと同じだからないんだよ。

ちゃんと見てると辛くなってくる。羨ましいが溢れてくるからちゃんと見たくない。

どうせ全部ゴミになるくらいなら、最初からもたない方がいいとか、そういうことを思うのに楽しいこと呟けたらいいなとか思うんだからだるい。

生きてて楽しいことより辛いことの方が50倍位ある。死ぬ前に一花咲かせたいよなぁ。生きてても意味ないもんな。猫死ぬまでは生きてるだけだよ

猫缶代、いつでも待ってます。