諦めて手放した夢のカケラたち②
にゃんちーです。読書屋さんと星読み屋さんをしています。noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。
キッカケは前回の記事をどうぞ。
ピアノ以外にも、手放して諦めたものなど、山ほどあるのです。
夢のカケラ②ファションデザイナー(パタンナー)
一人で過ごすことが多かったせいか、もともと絵を描くだとか、何か作るだとか、本を読むだとかが好きでした。手先も器用でした。
ファッションデザイナーという職業を知ったのは、小学5年生の頃。
通信講座のチャレンジについていた、職業図鑑のような冊子でした。これを見つけた時、手芸とお絵かきが好きだった私は、「こんな仕事あるのか!私のための職業じゃないかー!」と、思いました。無駄にポジティブ。
しかもこの頃、矢沢あいの「ご近所物語」がアニメでやっていたと思うんですよね。そういう影響もあって、ファッションデザイナーやりたい!って思っていました。
ここからの私の行動は、本当に早かった。子供の熱意って凄いなと、今になると思います。
もともと服が好きだったこともあり、袋を作るくらいならミシンが扱えたこともあって、図書館で借りてくる本は服飾系ばかりになりました。服飾事典を何週にも渡って図書館から借りてきて読みました。いわゆる、ハイブランドとその歴史についてもこの頃の読書によって学びました。
中学に上がってすぐ、専門学校について調べはじめ、学校案内のパンフレットを集めていきました。学校の歴史、場所、学費…。検討すべきことは本当に多く、どこの学校に行きたいんだろうって探していました。高校も進学していないのにです。だいぶ前のめり。
ちょうどその頃、母親が私に1つ新聞記事を見せてくれました。
それはベルギーにある、アントワープ王立芸術学院の卒業制作の記事でした。ここは大学ではないんです。日本でいうと、大学と専門学校を足して2で割ったような学校になります。
この学校がとても面白かったのです。そして調べてるうちに分かったことですが、ファッション界ではおそらく世界TOP3の学校の1つです。日本に比べたら学費も安い。世界でも有名なのだから、日本より質の良い教育であることも想像できる。そしてアントワープという街は、その昔、紡績業が盛んだった。その名残で可愛いテキスタイルが多い。アントワープの公用語はオランダ語、猫のお祭りがある!(可愛い🐈❤️)などなど…相当調べたと思います。
ただ、肝心の学校の実情はかなり厳しいものでした。
私が中学生の頃のことなので、きっと今とは違うかもしれません。ちょっと記憶が定かではありませんが、定員のうち半数が留学生。したがって授業は英語。ストレートで2年に進級できるのは入学時の半数。そしてストレートで卒業できるのはわずか1/4。
課題が恐ろしく多く、バイトはおろか寝る時間もない…というのを卒業生の記事をどこかで読みました。
「きっつー…」というのが、当時の私の素直な感想です。
しかし、中学になって英語はやっているのから、あとは生活に困らないようにオランダ語をやれば良いのか。と、あろうことかオランダ語を独学でやり始めました。行動力”しか”なかったと言っても過言ではないです。今の私からすれば、信じられない突拍子のなさです。
それから調べれば調べるほど、高校卒業して即留学というのは厳しいということがわかり、とりあえず高校進学で頭を悩ませることになりました。
仁義なき戦い、高校進学
正直なところ、親と本当にすごく揉めました。
地元には公立であれ私立であれ高校が多く、選択の幅はかなりあったと思います。だけど、私の夢は決まっていたものだから1択でした。
工業高校のデザイン科。
自分の中では中学に入ってすぐに決めていたことだったので、受験が近くなってあんなにも親と揉めるとは思いませんでした。はっきり言って、喧嘩です、毎日。
悲しきかな、敵は親だけではありませんでした。
学校の成績からして工業高校に行くのは勿体無いと、担任の先生を筆頭に周りの大人達にヤイヤイと言われ続けました。とりわけ優秀だった訳でもありません。普通科に行くよりも、私はさっさと自分の好きなことがやりたかっただけでした。普通科に行ってしまったら、遠回りするような気もしていました。冷静に考えれば、そのあと専門学校に行くのだから同じなのですが。
バトルにも疲れてきた頃、親の決定打を喰らいました。
デザイン科に進学したとして、そこで躓いたらやり直せない。高校の後の進路にも困るでしょ。「普通に」勉強できるのは、高校生までしかないんだよ。高校から先は好きにすれば良いから。
前半部分に対しては、大いに反感を覚えました。なぜ、つまずくことが前提なのだと。
しかし、高校生までしか「普通の勉強はできない」という一言に、妙に納得してしまいました。それもそうか、と。そして、高校より先の進路は自由だと言われたので、それなら仕方ないとも。
ということで、ちょっと手を伸ばせば届く範囲の普通科の高校に進学することになりました。
勿論、その先は自由にさせてもらうぞ!と思ってもいました。
謀反
高校3年間は、大人に目をつけられない程度にそつなくこなしている日々でした。通っていた学校のせいもあって、勉強しないという選択肢はなかったので、やりました。はい。
クラス分けの際にも、専門学校や短大組と一緒になるとメンツ的にキツかったので、自ずと4大進学できるような科目選択となりました。クラスの顔ぶれのためにそうしただけであって、大学受験をするつもりはサラサラありませんでした。行きたい専門学校にも入試はありましたが、大学受験とは比べ物にならないくらいチョロかったです。
高校3年間、なんとなく大学にも行けるように勉強してきてしまった手前、願書を出すタイミングで少し悩みました。勉強してきたからだけではないです。親を一人置いて、家を出ることに対する罪悪感もありました。きっと親の面倒を見るのはお前だ、長男は好きになってはいかん、などと好きな子もできないうちから親戚に口々に言われ続けた結果の思考回路です。
そして願書をだす直前、親と叔母との会話をたまたま聞いてしまった。
専門学校に行ったとしても、本当にその職業につけるとは限らない。つけたとしても契約社員も多い職業。学費は4大ばりにかかるけれど、先が本当に心配で。どうするのかな…云々。
ショックでした。
親だけは、自分の味方なのだと信じて疑いませんでした。私が勝手に信じていただけなのだけれど、裏切られた気持ちでいっぱいでした。だから大人しく普通科に進学したのに、とも思いました。
専門学校には奨学金はありません。あっても有利子ですが、利率は高い。奨学金だけでは生活が成り立たないので、仕送り必須です。いわば親はパトロン。
ただでさえ罪悪感がある中で、親に心配かけて、快く思われてない中で進学することは…
私には、できなかった。
できなかったんです。親のすねなんか、かじり倒せば良いと思いつつ、自分の力でなんとかしなければならないという気持ちが、当時の私はかなり強かった。
結局、大学に行きました。
そうです。また、勝手に諦めたのです。
どこに転んでも好きなことは出来るだろうと思えるような学科をもつ大学が地元にあったことはラッキーでした。そして、入学早々にして大学在学中だけでなく未だに好きでいられる学問に出会えたことは、幸いだったなと思っています。まあ…それもまた、諦めるんですけど。
終わりに
母と叔母の会話を聞いてしまったのだと、母には言っていません。あんなに行きたがっていた専門学校から進路を変え、大学に行くと言い出した時、親にはとかく何も言われませんでした。きっと、安心したのだと思います。大学卒業後に普通に就職した時も、同じ反応でした。
小さいものも含めたら本当に沢山あります、夢のカケラ。
書き出してみると1つの記事が長くなるので、あと1つで終わりにするんだっ!きっと、私の中で成仏仕切っていない、まあいっかとは思えないものは3つだったんだと、この成仏noteを書いていて思いました。
なんだか尻切れとんぼですが、この辺で。
したらばまたにゃーん🐈
最後まで読んでくださってありがとうございます! もしよろしければ、また遊びに来てください🐱❤️ いただいたサポートは精進すべく勉強代・書籍代にあてさせていただきます。noteなどの発信や鑑定を通して還元していく所存です。押忍!