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岡崎から視る「どうする家康」#11徳川改姓と三河守叙任

永禄9年(1566年)朝廷から従五位下三河守に叙任され、直前か同時に「徳川」に改姓しています。ここも注目点です。

好き勝手に「『徳川』にしました!」という自称ではなく、朝廷のお墨付きを得ている点が非常に重要で、7年間の岡崎在住時の実績でも非常に特筆すべきことです。

順序としては以下の流れです。
①「元康」から「家康」への改名(松平家康)永禄6年(1562年)
②「三河守」叙任。永禄9年(1566年)
③徳川改姓(徳川家康)三河守叙任とほぼ同時

守護・三河守護


そもそも「守護」についてですが、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官というのが一般的な説明です。

鎌倉幕府でも三河の「守護」が選任されています。「鎌倉殿の13人」では野添義弘さん演じる安達盛長です。

その後、足利氏が三河の守護になり、ここから吉良氏を分家として吉良荘(西尾市吉良町)に入れます。これが吉良氏が名族のモトです。

室町幕府では、仁木氏、一色氏、細川氏などが三河の守護でしたが、応仁の乱で、三河守護が有名無実になっていました。

一方で守護を複数国で兼任するケースや京都在住になるなどして「代行」である守護代が存在感を発揮します。そうすると三河周辺ですと以下のような形になります。

今川は、室町幕府の「守護」としてポジションがある。
美濃では守護:土岐氏、守護代:斎藤氏(本木雅弘さんの「道三」)
尾張では守護:斯波氏、守護代:織田氏(信長の家はその中でも分家筋)

しかし、三河では守護自体がウヤムヤになり守護代は西郷氏になります。この守護代を倒しているのが松平です。しつこいようですが室町時代の松平は家格としては低い方です。

しかし、今さら室町幕府の「お墨付き」の守護代に認められても価値が無いと言うところで、ここが戦国時代の戦国時代なところです。

しかも時期の将軍は足利義輝ですが永禄8年に殺害されています。「麒麟がくる」での向井理さんの殺陣シーンがナカナカです。将軍いないので家康も幕府相手にしてもしょうがないわけです。

「麒麟がくる」将軍足利義輝を演じる向井理さん。殺陣のシーンを上手くこなしたがラストシーン

なお、現職で殺害された将軍は「先日の」源実朝と

室町6代将軍足利義教とこの向井理さん演じる足利義輝です。

「三河守」


「三河守」は奈良時代の律令制以来の「三河国司」です。幕府の職制ではなく、朝廷の官位です。「鎌倉殿の13人」では迫田孝也さんの源範頼も「三河守」です。

これも室町初期には、うやむやになってしまっていました。何も三河だけでなく尾張美濃駿河など大半そうです。この時期は実質的には京都の公家たちにうまく根回しすれば「●●守」は名乗らせてもらえるという面はあります。

「三河守」を叙任するのは朝廷です。最終的には天皇です。

家康には静岡で学んできた大きな知的資産があります。「天皇・朝廷」に関する知識です。この知的資産を稼働させるときが来たのです。

ただ、三河を武力で掌握しても、それは力によって認めさせてるだけですので、いつひっくり返されるかわかりませんそれだけに官職「三河守」の権威の価値は大きいのです。

ここに改めて、家康が「オール三河掌握」の実績で「三河守」として認めてもらうことで、「支配の正統性」を確立することにこだわったと言えます。

しかし、これは実は簡単ではありません

今でもあります。役所の一番得意なセリフ 

「先例がない」

これを正親町天皇から言われるとさすがに辛いものがあります。しかし実際に正親町天皇が三河の松平ごときを知るはずもなく、朝廷の公家たちへの根回しが足りないだけです。

「麒麟がくる」での正親町天皇を坂東玉三郎さんが演じた


これをどうクリアするか。

「有職故実」があるぐらい公家たちは先例を大切にしてきました。悪く言えばそれをネタに食べてきたとも言えますし、先例に合わせるコンサルなどもしてカネを稼いでいます。

根回しの対象・公家


先年、明智光秀を取り上げた「麒麟がくる」では、正親町天皇、近衛前久や比叡山の天台座主など登場し、戦国武将たちだけでなく朝廷や寺院勢力の登場があり、非常によい戦国ドラマになりました。

「麒麟が来る」で本郷奏多さん演じた近衛前久が、この徳川改姓や三河守叙任にあたって関係しています。というか「ぼったくりコンサルタント」とでも言った方が良いのでしょうか。「どんなもん持ってくるんや家康」。

「麒麟がくる」での近衛前久(本郷奏多さん)

まず、邪魔する(に決まっている)のが吉良氏です。申請したところで「三河掌握の実績はない」とか横からささやいてフェイクニュースを流す危険性があります。 

大樹寺の僧侶の知識と浄土宗のネットワークも使って工作を掛けます。

「徳川」

それにしても「徳川」はどこから飛び出してきたのでしょう。

その前に「松平氏」。当時の史料で確認できるのは3代松平信光が初です。

室町幕府の政所執事の伊勢貞親の被官となり、京都で働いていたとの記録が初めて出ます。今で言うと財務副大臣の秘書でアルバイトしたぐらいでしょうか。「松平」が歴史書初なのはこれです。

伊勢貞親は応仁の乱の当事者です。『応仁記』によると「賄賂を横行させ淫蕩にかまけ、幕府の治世を腐敗させた悪吏」とされています。いつの世の中でもそんな話ありますね。その下で信光はナニしてたんでしょうか。岩津に信光明寺もあるだけに岡崎から視ると気になります。

それはともかく「徳川」については説はいろいろありますが、簡単に言うと三河守に任官するにあたって「前例がない」ので、近衛前久に根回しの結果、世良田氏・得川氏と言う話にして、これは本姓(もともとの姓)は藤原氏と言うことにする(近衛前久にそのように「させてもらった」)で落ち着いたというところです。なので、「徳川」の名称そのものはあまり意味ありません。今風に言ったら就職試験でNG出てから履歴書を書き直すのもどうかと思いますが。

ただ「世良田」「得川」の系譜を史料で確認検証するのは生産的でない気がします。なぜかというと、もともと全部ウソです、ウソを一生懸命検証してもウソだからです。「と言うことにした」点がポイントではあります。

近衛前久は「麒麟がくる」で諸国を流浪していましたが新潟県や群馬県や栃木県にもフラフラしていた時期があります。世良田だの得川だのが群馬県の話であるのは、この近衛前久の滞在との関連かなとも想像はします。

ここで本姓を「藤原」にした(させてもらった)ので、将軍宣下の時には「源」にする工作も必要にはなってきます。

将軍は源氏しかなっていないからです。

ここで吉良氏に協力させて系図を作り直す作業でクリアし、無事に将軍になれたというところです。「源復姓」のほうは諸説あり、歴史学的には重要なポイントでもあります。しかし「岡崎から視る」と吉良に協力させた点と、藤原にさせてもらった経緯のほうが興味深いところです。

京都の公家のタカリ

イヤミな京都の公家がどれだけ遠回しにワイロを要求してタカるのか、ドラマで放映できるとは思えませんが、ぜひやって欲しいところです。

「京都ぎらい」でも出てくるこのノリは、500年前の三河の田舎の若者も嫌な思いをしていないはずがありません。

 ただ、このやりとりで公家との交渉に懲りた(としか思えない)ことが、後年の江戸幕府の朝廷への対応に何らかの影響を及ぼしているように勝手に想像しています。

しかし、なぜ「徳川」にしたのかこの動機をドラマでどのように描くのでしょうか。滝田栄の徳川家康ではこの辺りの事情はスルーされていました。

「鎌倉殿の13人」との対比


そのポイントとして今年の鎌倉殿の13人のバトルロワイヤルを思いだしてほしいところです。毎回悲惨な末路になるのが印象的ですが、鎌倉・室町は程度の差こそあってもおおよそそんな感じでしょう。

そんな中での徳川改姓や三河守叙任の動機は十四松平とは宗家として家格の違い、三河における支配の正統性を明確にする必要があったためです。

「鎌倉殿の13人」でも源頼朝(大泉洋さん)の「兄弟」は義経(菅田将暉さん)も範頼(迫田孝也さん)も排除されました。それだけ頼朝の権威も権力基盤も弱かったからです。悪いですが源頼朝とスターリンの権力確立の過程とそっくりです。

「鎌倉殿の13人」で松潤が吾妻鏡を読んでいるサプライズシーンが話題になりました。

松潤が吾妻鏡を読んでいる

ただ、「鎌倉殿」は権力闘争で排除粛正が延々と続きましたが、家康は「排除粛正」の手段もゼロではありませんが、朝廷の力を借りて「権威を作る」ことで、できるだけ血を流さずに政治的に上手く抑え込むのがポイントです。(逆にそれだけに信康事件は注目点でもあります。)

家康の家柄コンプレックスの孤独

しかし、家康が岡崎に帰ってきて思ったことを想像してみましょう。

「オレも今川みたいな名門だったらこんな苦労は無かった。」
「朝廷が軽く見るのは松平なんかに生まれたからだ。」
「静岡では「守護」の言うことみんな聞いてる。システムもできてる。」

必死についてきている祖父以来の岡崎メンバーの前では絶対に口にできない、このような愚痴が無いはずがありません。

この20代の孤独こそ「岡崎から視る」と実にドラマチックに映ります。これが三河守叙任で、私は描いてほしいところではあります。

一方で今川義元の息子の今川氏真は能力が無く、ハッキリ言って馬鹿です。名門のメリットも活かせません。家康も見切りをつけます。溝端淳平さんがどう演じるか。

しかし、私には現代政治の「ある風景」が思い浮かびます。そう。挫折も苦労なく当選してきた世襲政治家の無能に対する、叩き上げ政治家の視線を。岸田を見る菅・高市の視線などは決して想像しないで下さい。

宗教権威に対する上位の権威

話を元に戻しますが、それにしても「朝廷-天皇」の権威にすがるの点は「幕府ダメだから」だけでは説明つきません。前稿で多く説明したように一向一揆に「懲りた」からです。

宗教権威である一向宗に対する上位の権威を持ち出すことでどうにか抑え込めないか。だから、奈良時代・律令以来の朝廷権威にすがることを家康は「見つけた」のです。

宗教権威による武装集団の反抗をどう抑え込むか。」
「宗教権威による家臣団分裂をどう防ぐか。」
「同族にどうしたら言うことを聞かせられるか。」

同じような課題があった信長は長島一向一揆に見られる大量の「出血」があります。比叡山の焼き討ちも有名です。

しかし、家康はそうはしませんでした。

それより「良い方法」を考えるからです。

「平和」機能としての天皇の発見

家康の20代の最大の課題と苦悩の解答は「天皇」(朝廷)の活用であり、「三河守叙任」「徳川改姓」に表れています。

繰り返しますが、その着想は当時最高の教育環境の静岡で得てきたものです。その知的資産を故郷・岡崎で実践したと言えます。

そして、この岡崎での7年間の苦悩の経験が、江戸幕府での朝廷対策、寺社対策、同族管理などの政治制度や運営に反映されていると思います。

これが「250年つづいた「徳川の平和」(Pax Tokugawana)の原点としての岡崎」の視点です。


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