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岡崎から視る「どうする家康」#10同族名族との抗争と治水

岡崎の価値・乙川治水


そもそも三河には松平氏始まってから「十四松平」という松平氏一族がいました。後に宗家となる安祥松平家以外に以下の十四の松平がいたのです。
竹谷松平、形原松平、大草松平、五井(御油)松平、深溝松平、能見松平、大給松平、滝脇松平、福釜松平、東条(青野)松平、藤井松平、三木松平

先にも説明しましたが、松平氏の3代目の信光から同族が分かれています。

岡崎城は築城は有力な守護代の西郷氏が築城し、大草松平氏の居城でした。これを安城を拠点にしていた祖父清康が奪取したものです。ここで重要なのは乙川の堤防工事(六名堤)です。

ちょうど殿橋~名鉄本線鉄橋~明神橋付近に相当しますが、室町時代に「六名堤」を作り、開削して矢作川に合流するように治水が行われています。


川(乙川)の右側の森の帯が六名堤
乙川の流路

乙川と旧青木川と矢作川を「堀」として活用する面もあるので岡崎城の防衛機能が高まり軍事的にも優れています。岡崎城直下に船着場も作れたので水運としても利便性が非常に高い。六名堤で乙川旧流路を締切り、水田化もしてもいます。西郷氏大草松平氏が岡崎を軍事的に築城だけでなく経済的にも非常に魅力的な拠点にしたと言えます。これに目を付けて強奪したのが当時安祥(安城)城にいた祖父清康です。なお江戸時代の歴史書では悪くは書かれていません。(蛇足ですが乙川旧流路は地盤緩く液状化リスクあります。)

しかも、矢作川に北野から矢作にわたる堤防を作り、幾筋にも分流していた矢作川を一筋の流れにまとめたのも西郷氏と大草松平氏です。しつこいようですが、清康は岡崎城を強奪しただけです。

一方で、安城は農業や自動車工場が盛んな土地であるように思われるかもしれませんが、それは明治用水ができてからの話です。

ちょうど2022年春に明治用水頭首工の漏水事故で明治用水が使えなくなり、工場も水田も使えなくなりました。その状態です。

明治用水が無かった時代の安城は、当然何もできない貧しい土地なので祖父清康は岡崎城強奪した動機です。現在の岡崎公園での説明の看板はどうなっているのか確認していませんが「清康が入った」等流して書いてる心配はあります。

同族との抗争・大草松平

また、実は家康の「安祥松平家」がもともとの「宗家」という扱いなのかすら疑わしく、同族離反の危機が多くありました。これは何も松平氏だけではなく、織田氏なども同様で同時期に他でも見られた現象です。

ドラマではこの大草松平氏の松平昌久をお笑いタレント「東京03」のボケ担当角田晃広さんが演じて、挑戦の機会をうかがいます。

岡崎城は、もともと大草松平氏の築城・居城と言うことだけでなく、こうした治水事業での投資もしてきただけに、ドラマでの説明の「われこそ宗家」以上に「俺の開発した土地と城を返せや」的な言い分もあります。しかも一向宗でもないのに一揆に同調してチャンスを得ようとするだけに非常に厄介な存在です。

悪役は演じるのが難しいだけに期待されますが、悪役をお笑いタレントとして「どうする演技」。


なお、大草松平氏の地元は岡崎市の南にある幸田町です。角田晃広さんの好演・大ブレイクで人気出たらどうする幸田町役場」。地元の観光協会さんは何も書いてませんね。大丈夫なんでしょうか。

蛇足ですが、十四松平は江戸時代にも続きます。当然ですが将軍になる資格はありません。徳川でなく松平で将軍になれたのは「暴れん坊将軍」だけです。ただ、暴れん坊将軍は豊橋出身ですがこの十四松平とは全く関係ないとのこと。

暴れん坊将軍は松平で将軍になったっ歴史的偉業

名族・吉良氏を屈服させる


十四松平だけではなく、名族の吉良氏もいました。ドラマでは登場しませんが、非常に重要で家康にとって目障りな存在です。ダシャレでなくても「嫌ってた」。

吉良氏は、もともと足利氏の親戚です。室町時代に足利一族中でも名門の地位を占めて幕府要職を歴任しています。「御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と俗に言われ、今川ですら、この吉良の分家筋でもあります。

ちなみに「今川」は現在の西尾市今川町が発祥で、西尾中学校が「今川城」に当たります。今川は「静岡原産」ではありません。

実際に、父の松平広忠の「広」は吉良持の偏諱、祖父の松平清康の「清」も吉良持の偏諱です。西三河での力関係では松平氏の家格はむしろ吉良よりかなり低く、松平は「成り上がり」にしか思われていません。そんなことを幕府の歴史書は絶対に書きません。ついでに江戸時代にやたらに秀吉を身分の低い成り上がりもの扱いで書かれていますが、これは松平も同じく成り上がりだったことが影響しています。

ここで、桶狭間の戦いの直後から吉良氏を屈服させることに家康は執念を燃やします。ここのシーンが今回のドラマには無いなぁ。

吉良氏は、西尾市吉良町の東条城を拠点にしていました。

この攻防戦で善明堤付近で戦いになります。(江戸期に堤防改修で「黄金堤」になります。)

「善明」は地名としても「デンソー善明製作所」に名を残しています。

この戦いで「家忠日記」で有名な深溝松平・松平家忠の父の松平好景が戦死します。続いて西尾市吉良町瀬戸藤波付近の「藤波畷の戦い」に続き、ここで吉良義昭が降伏します。

重要なのは、家康が降伏を認めつつ吉良氏を滅ぼしていないことです。

吉良義昭は降伏した後に再度一向宗でもないのに一向一揆に同調するなど悪あがきして逃亡しますが。静岡にいた時の友達だった吉良義安の吉良氏継続を認めています。

この吉良義安の息子の義定が家康の将軍宣下の時にも朝廷への工作を協力させています。こうして、室町以来の門地の高さもあって「高家」ということで幕府の儀典関係を取り仕切る家として存続します。

矢作新川開削と吉良


この子孫が、吉良義央です。先の善明堤を改修して黄金堤にしています。浅野のテロ事件は勅使接遇の場面で起きています。

吉良義央は浅野に斬られる。


忠臣蔵で悪役とされていますが徳川将軍にとってもまだ吉良が目障りな存在です。逆に吉良から見ると「今は将軍とか偉そうにしてるけど、元はと言えば松平郷のサルだろ?」的な「上から目線」があるからです。

なお、関ケ原の合戦の直後から、家康は矢作新川の開削に取り組みます。それまで吉良の所領を流れていた矢作川を分流させ矢作古川にしました。

矢作新川の開削。ウラの目的が陰険

目的は洪水の回避と干拓です。実際治水には大きく役立っています。吉良の所領も洪水リスクが減ります。

しかし、歴史的な政治背景を考えると、ウラの目的が考えられます。

吉良に矢作川の水運利権を独占させない(=米津開市)ことと、干拓による吉良の収入増阻止という、吉良への嫌がらせにも感じます。しかも将軍宣下でしっかり協力させた直後からやっています。

吉良氏を屈服させた戦いは、時間などの都合で今回のドラマでは出てこないですが、名族を屈服させた上で滅ぼさずに使いこなし、嫌がらせをする家康の「ワル」の素養も岡崎の7年間で培われた重要な点です。

利根川東遷事業への応用

名族・同族との抗争に関連し、治水事業について述べていますが、これが重要なのは、関東での利根川東遷事業に繋がっていくからです。

門井慶喜原作「家康、江戸を建てる」でも出てきます。ドラマにもなりました。

しかし、何もないところから突然「利根川東遷」の超巨大プロジェクトが出てくるはずがありません

岡崎には家康が生まれる前の六名堤や乙川流路変更の実績があります。これを知らないわけがありませんし、家臣団の中に土木のノウハウ持った者もいます。

「岡崎にあった治水に関する測量や土木のノウハウ」を関東で応用していると考えられます。当然、矢作新川開削の経験も利根川東遷事業でも活用されています。

例えば、製造業での製品開発の「試作品→量産試作→量産」のステップを想像してもらえるとわかりやすいかと思います。

家康にとっては、六名堤・乙川流路変更→矢作新川開削分流→利根川東遷で、応用発展をしたことを、岡崎としては考えるべきです。

伊奈忠次の活躍


利根川東遷事業は伊奈忠次です。埼玉県伊奈町は彼の名前です。今回もドラマ終盤の江戸編で登場はあるかどうか。埼玉県からの出演陳情があると面白いですが。

伊奈忠次は西尾市小島の人です。矢作古川の洪水で苦労してます。一向一揆で刃向かった後に、長篠の合戦で出戻りし、信康の下で働きます。信康事件の後に再度やめて大阪・堺をブラブラしています。この時にもともとの土木の知識を高度化させたと考えられます。関東に行った後に土木のプロとして大活躍します。本多正信だけではなく転職再入社組が活躍しています。

伊奈忠次は功績で「備前守」という官位をもらいます。関東各地に残る備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防は、この官位名にちなみます。

では、岡崎には伊奈忠次の顕彰は何もないのでしょうか。

伊奈忠次の屋敷跡の一帯を「備前曲輪」といい、ここに建つのが、岡崎銘菓の「備前屋」さんです。岡山の旧国名の備前ではなく、伊奈忠次にちなむようです。

岡崎観光の際には、お菓子をただおいしい、だけでなく治水との関係に注目して頂けるとありがたいところです。


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