「真の弱者は助けたくなるような姿をしていない」言説の危うさ



最近、noteや旧Twitter (X)などで、「真の弱者は助けたくなるような姿をしていない」という言説が流行している。
これは、「真の弱者」は醜悪で社会にとって危険な存在であるため「矯正」する必要がある、「矯正」を受け入れた方が当人のためでもある、といった意味合いで使われる言説だ。「ケア」と呼ばれることもあるが、この文脈であるなら「矯正」の言い換えに過ぎない。

今後、このような言説が流行し続けたらどうなるだろうか。
まず、「真の弱者」と認定された当人の意思はこれまで以上に無視されるようになる。そして、「強者」を自任する人たちは、なるべく「最適な」手段を用いて「矯正」するようになる。その「最適な」手段にはおそらく暴力が含まれるだろうし、あるいは「最適な」手段が「強者」の望む結果につながらなかった場合も、やはり「真の弱者」への暴力に帰結するだろう。

私はあらゆる暴力に反対する。私は暴力につながるあらゆる言説に反対する。だから私は、「真の弱者は助けたくなるような姿をしていない」という言説に反対する。

弱者性と思想との間には、直接的には関係がない。一般的に広まっている思想でも、少数の人が支持する思想でも、社会に対して有害な行動を引き起こす思想でも、有害な行動を抑制し有益な行動を引き起こす思想でも、弱者性と直接的には関係がない。
あくまで他者や社会に対する危害となる言動が問題なのであって、その原因である(と「強者」が勝手に思い込んでいる)「弱者」本人の弱者性は問題ではない。他者や社会に対する危害となる言動をしない弱者もいるし、他者や社会に対する危害となる言動をする強者もいる。

貧困に苦しむ人が生活保護を受け取るのは権利だ。しかし、困窮者を犯罪者予備軍呼ばわりして強制的に生活費を渡すのは差別行為だ。
知的・精神・発達障害者には健常者より手厚い福祉を受ける権利がある。しかし知的・精神・発達障害者を犯罪者予備軍呼ばわりして病院などの施設に強制的に隔離することは差別だ。
人は誰しも子どもを作らない権利を有する。子無しを犯罪者予備軍呼ばわりすることは差別だ。
社会から「容姿が悪い」とジャッジされた人を犯罪者予備軍呼ばわりすることは差別であるし、そもそも容姿をジャッジすること自体が差別だ。

犯罪者予備軍がいるなら、実際に他者や社会に対する危害となる言動を行ったその瞬間に逮捕して償わせれば済む話だ(刑事的にも民事的にも)。
他人を属性で区切って犯罪者・犯罪者予備軍呼ばわりして恐怖を扇動するべきでない。「真の弱者は助けたくなるような姿をしていない」という言説による「真の弱者」への恐怖の扇動の問題は、外国にルーツのある人々や性的マイノリティへの恐怖の扇動と構造が酷似している。
最も嘆かわしいのは、ひろゆき(西村博之)が「無敵の人」という言葉を使ったときにこの発言を批判していた人たちの中ですら、「真の弱者は助けたくなるような姿をしていない」というような差別言説に賛同する人間がいることだ。

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