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痛みが愛だとは言わない

一緒に暮らしているのに、一緒に暮らすほど、相手のことがわかっていないのだなあと思う。
何がきっかけで、心の中のどのあたりにぶつかってしまうのか、ささくれを生んでしまうのか。人の心の中の有り様は宇宙とか海とかに似ていて(どんな人のこころも)、入ってみないとわからないことが多すぎる。

自分が悪いのかもしれないと思うものの、何が悪かったのかわからないとき、何がどうなっているのか、どうしたらいいのかわからなくて途方に暮れてしまって、それで何もできなくなる時がある。
だって、間違えたらもっとまずい展開になるのだろうし、それは避けたいし、でも何がどうなってるのかさっぱりわからないから結果も予想できなくて何も決められない。

かつて、その困惑すらも「関係性を放置している」と怒られたことがあった。
しかしながら、誰だって機嫌の悪いひとには近寄りたくないものだ。特に何が原因かわからないときには。
こっちは何がどうなっているのかわからないのだから対策の立てようがないところへ、怒りやら憎しみやら悪意やらが降りかかってくることを甘んじよというのは、おとなしくサンドバックになれと言っているのと同じだろう。

わかってほしいなら、わかってほしい方が、わかってほしいように伝えてくれと思う。感情は、その人だけのものだから。

でも、悲しんでいるひとからすれば、説明をしたりするのもしんどいだろう。こちらから歩み寄ることが、一つの愛の方法なのだろうなと思う。

痛みが愛だとは言わないが、愛そうとする行為に痛みが付随することはよくある。試されていると思いながら、手のひらに、棘が、刺さる瞬間と刺さる痛みを刻一刻と感じながら、手を伸ばすときがある。
与えられた手だとしても、痛いのは私なんだぞと思いながら、伸ばさなかった手で心を取りこぼしたくないからやっぱり手を伸ばす。

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