見出し画像

輪るピングドラムという列車は環状線だったのかもしれない。

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」
テレビの前でそう告げられたのは今から約11年前のことだった。
「ピングドラムを手に入れるのだ」
そして11年の月日を経て、彼女はその場所をスクリーンに変えて再び私にそう言い放った。

「輪るピングドラム」が映画化される。
そのことを知ったのは何気なくtwitterを眺めているときだった。

水面に光が揺らぐ電車の中で、こちら側を見つめるように佇む少年少女たちの姿――。
そのキービジュアルを一目見た時に私は妙な懐かしさを感じた。
本来なら映画化されたことへの嬉しさだとか、10年以上の時を経ての事に驚愕する次第なのだろうけど、それは電車が通り過ぎた後に感じるそよ風程度のものに過ぎなかった。

「輪るピングドラム」は2011年7月から12月まで放送していたTVアニメだ。
2011年は「魔法少女まどか☆マギカ」「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」などの近年稀に見る深夜アニメのヒット作が多数登場した年であり、本作もその一つとして名前を連ねている。

当時高校生だった私はこの作品に心底熱を上げていた。
デフォルメされたペンギンと少年少女という一見かわいらしいビジュアルでありながら、誰かを愛すること、それによる人間の存在理由といったセンシティブな内容に当時高校生だった私の感性は虜となった。

点と点が繋がり輪になっていく展開に私は釘付けになり、あの頃は毎週水曜日の放送日が楽しみだった。
放送を終了して幾分かの月日が経ち、今日に至るまでの間にも何本かアニメを見てきたけど、それでもやっぱり「ピングドラム」は私の中では蠍の火のように燃える特別な作品として残り続けている。

何故「ピングドラム」がそう成り得たのかと訊かれたら答えに詰まることは無い。
「ピングドラム」という作品自体が当時の私の感性にひどく刺さり、抜けない棘となって存在し続けていることもあるが、それに加えてやはりあの当時、本放送をリアルタイムでずっと追いかけ続けていた事が起因しているのだろう。
2011年7月から12月の放送終了に至るまで、その熱を失うことなくずっと毎週楽しみにしていたあの感覚は忘れようがなく、他に見ていたアニメ作品にそれを求めても類する作品は私の中では数少ない。
故に「ピングドラム」は私の中では特別な物として残り続けているのだ。

その「輪るピングドラム」が11年の時を経て映画化する。

キービュアルの中で私を見つめる冠葉、晶馬、陽毬、苹果、真砂子……。
彼ら彼女らの顔を見た時、まるで懐かしい友人に会ったような感覚がこみ上げてきた。
また、彼らに会える。
それがなんだか嬉しくて、劇場版発表の報を聞いたときはそれしか浮かばなかった。

そして2022年4月29日

その日は生憎の雨だった。
いつもなら車で出かけるけど、なんだか電車に乗りたい気分だったので車の鍵を置いて、一時間に数本しか列車がやってこない過疎地帯の最寄り駅へと向かった。
あの頃は高校生だったから、移動手段は徒歩か自転車しかなかったのに今は車を運転をすることができる。11年という月日はあっという間だったけど、それは確かな質量を持った年月であることを改めて感じた。
それでも変わらないのは未だに「ピングドラム」の曲を聴き続けている事だろうか。
「DEAR FUTURE」「ノルニル」「少年よ我に帰れ」
あと何十分も待たないと来ない列車を待ち続ける中、私はあの曲を聴き続けた。
音楽はタイムマシンであると誰かが言っていたけどそれは案外本当のことなのかもしれない。「DEAR FUTURE」は未だ全貌が見えない物語に一旦幕を下ろすED主題歌であり、輪に至る点が見えてくるであろう次週まで停車駅で待たされたあの日々が思い出される。

正直言うと本当に「ピングドラム」の映画が上映されるのか未だ信じられなかった。
いや、プロジェクトが発表されて久しいし幾原監督自ら告知もされているのだから、私個人が見ている幻な訳がないのだ。現にtwitterでは「ピンドラ」のワードがトレンドに上がる程の盛り上がりを見せていた。
誰もが集団幻覚に陥っている?そんな馬鹿なこともふと思ったけど、そんなハズはない。
それなのに、本当に上映されるのかと内心半信半疑のままだった。
11年という月日が経ってからの劇場版。その事実は私の中ではまるで夢のような出来事であり、まだその夢から醒めていないだけなのかもしれない……。

けれどその夢は現実であり決して虚構などではなかった。
劇場に着くと「ピングドラム」を見るために集まった人たちが列をなしていて、そこでようやく私は本当に劇場版が上映される事実を受け止めたのだった。

予約していた鑑賞券はすんなりと発券されて、兄妹が描かれた入場特典を店員が慣れた手つきで渡してくれた。

冠葉、晶馬、陽毬……。
まるで懐かしい友人に会ったような感覚。今日に至るまで彼らを思い出すことは何度かあったけど、こうやって再会する日が来るとは夢にも思わなかった。

RE:cycle of the PENGUINDRUM

「輪るピングドラム」は私の中では特別な作品である理由の一つにこの作品を今日に至るまで誰ともその愛を共有しなかった事が挙げられる。
放送当時も周りの人間は他の作品を愛していて「ピングドラム」に愛を捧げていたのは私だけだった。
それから幾ばくかの月日の間に何人かの人間と知り合ったが、本作に触れていた人間は数少なく、まるで私だけが透明な存在のように思えた。

故に劇場に集まった人達の数に驚いた。
用意された座席は上映時間が近づくにつれて埋まっていき、逆に空席を探す方が難しいまでになり、その静謐でいて確かな熱量を持つ劇場全体の熱気に圧倒された。
ここに集まった人たちは皆、自分と同じく「ピングドラム」を見るために映画館に足を運んだのか――。
その時、改めて「輪るピングドラム」の人気を知るとともにこの作品を愛し続けた人間は私以外にも大勢いることに深い感心の念を抱いた。
TVシリーズ放送から11年。当時生まれた子供が小学五年生になるまで成長するその月日において本作は数多もの人間を列車に乗せてここにたどり着いたのだ。
私みたいな当時見ていた人、TVシリーズ放送終了後に見た人、劇場版公開に合わせて最近見た人。
あの劇場にいた人たちそれぞれが「ピングドラム」という列車に乗ったタイミングはバラバラだったと思うけど、今この時は同じ列車に乗っているのは間違いない。
始発駅から乗った人もいれば、途中の駅で乗った人もいる。けれど最終的にはここに辿り着くのだ。

もしかしたらあの列車は環状線だったのかもしれない。
自分はあの列車の終着駅に一度降りた。名残惜しかったけど、車掌がこの列車はここまでだと言うので仕方ない。乗った時は暑かったのに、いつしか寒くなってたのを思い出す。
そして再び、あの列車が走り出すというので一度降りたあの終着駅で列車を待った。
環状線というのは終着駅が始発駅でもある。山手線が東京駅を出てまた東京駅に帰ってるように、私が終着駅だと思っていた場所は始発駅だったのかもしれない。
輪のようして、また戻ってきたのかな。
そんなことを、上映が近づいて暗くなる劇場でふと思った。


あの時は冠葉達と同じ1995年生まれの高校二年生だった。だから95の数字も個人的にはとりわけ特別な数字に思えたし、同じ2011年という時代を生きている同世代の人間って感じで彼たちを見ていた。
そんな彼ら彼女らの「ピングドラム」を巡る物語を最初の見届けたのは実家の32インチのテレビだった。
そして今日。日々年を重ねていく自分とは対照的に老けることなく、あの頃の面影を残したまま彼らはスクリーンにその姿を映した。

RE:cycle of the PENGUINDRUMとはよく出来たタイトルだと思った。
TVシリーズの総集編でありながら新しい視点で再び物語を辿る手法はまさにリサイクルであり、新しい物語として成立させている。
私たちは運命を乗り換えた先に辿り着いた冠葉達とかつての物語をリサイクルしているのだ。

1995年3月20日から始まった物語(輪るピングドラム)が2022年4月29日に返された。

総集編であるため、かつてのTVシリーズの映像が再利用されている。
不思議な感覚だった。
あの頃好きだった作品がこうして時を経てスクリーンで見ることになるとは思わなかった。

「生存戦略ーーーーーーっ!!!!」

あの日、物静かな彼女が突如発したあのセリフに度肝を抜かれて11年。
まさかあのセリフをこうして劇場で聴くことになるとは――!
しかも(おそらく)新録されたプリンセス・オブ・ザ・クリスタルの声。
見ている画は懐かしいのに、確かな真新しさが私の感情を狂わせる。
あぁ、そうか。
やはりRE:cycle of the PENGUINDRUMなのだ。
懐かしき物ではあるが確実に真新しくなっている「輪るピングドラム」であることをその瞬間に理解した。

馴染んだ列車ではあるけれど、確かに新しくなったその列車に乗り込んだ私はまた「運命の至る場所」へと向かうのだろう。

11年前と、変わらない気持ちで。













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?