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私を救ってくれた警察官の言葉

20代の終わりの夏に、私は犯罪被害者になった。

あの夏、私は、数日間、仕事で1人で離島に行かなくてはならなくなった。
離島への交通手段は、飛行機という選択肢もあったけれど、私は飛行機が苦手なうえに、海に囲まれた田舎で生まれ育ち、ボロ船ながら船を所有していた父の影響からか、子どもの頃から船が好きだったから、私は迷わず船を選択した。
そして、いちおう女性の1人旅ということで、安全性の面から、個室の1番良い部屋を予約した。おかげで職場から出される旅費では全然足りず、かなりの額を自分で出す羽目になったけれど、それでも、ちょっとした旅行気分でワクワクしさえしていた。

しかし、私のこれらの選択の積み重ねが犯罪を招くことになろうとは。

離島での勤務を終え、帰りの船に乗り込んだ。

船は大きく分けて、個室スペースと大部屋スペースとに分かれており、行きの船は、夜に乗船し、朝に下船するため、私のように個室を予約している人も多く、個室スペースにも多くの乗客がいた。
しかし、帰りの船は、朝に乗船し、夜に下船するため、個室を予約していたのは私だけで、私は、個室スペースの1番奥の部屋に案内された。

離島のホテルは、かつてはリゾートホテルだったらしいのだが、随分と廃れてしまっていて、ビビりの私は、夜、ぐっすりと眠ることができず、加えて、せっかく離島まで来たのだからと意気込んで、勤務後には、毎日、1人で観光したりしていて、そのせいで帰る頃にはかなり疲れていた。
だから、船での約10時間は寝ることにして、化粧もけずに船に乗り込み、船の個室に入った途端に、部屋着にも着替えて、私はすぐさまベッドに横になった。

案の定、すぐに眠ってしまった。

寝ついてすぐに、ドアをドンドンと叩く音で目が覚めた。

外からは「開けてください!」と切羽詰まった男の人の声が聞こえる。

明らかに普通ではなかった。
私が寝ぼけた頭で考え出した答えは「何か船に異変が起こって、船員が知らせに来たに違いない。」ということだった。
とにかく「ここから逃げなければ!」と咄嗟に思って、私は文字どおりベッドから飛び起きて、ドアを開けた。

その瞬間に「しまった!」と思った。 

目の前に立っていたのはどう見ても船員ではない、金髪の男。

私は、当時、よく女友達と旅行に行っていて、心配症の母から、「ホテルに泊まっているときに誰か来ても絶対に開けちゃダメだよ。」と、常日頃言われていた。

私は、それを、ハイハイと聞き流していた。

「あー、あれほど言われていたのに。」そんなことも咄嗟に思った。

男は、私を部屋に押し込んで、自分も一緒に入って来ようとした。

必死に抵抗する私に対して、「いいから!中に入ってください!」とかなんとか言っていた。

私は大声で「助けてー!」と何度も叫んだけれど、個室スペースには私しかおらず、その声は誰にも届かなかった。

そうこうしているうちに、一瞬、私は押し込まれてしまい、男も部屋に入ってきた。
でも、かろうじて扉は閉まっておらず、私と男は掴み合って、なんとか私が扉側に移動して、そして、私が扉の少し開いた隙間に入り込んで、扉を無理矢理閉めることで、なんとか私だけが部屋から脱出することができた。

そこからは裸足で全力で走って、船の中にある窓口に駆け込んで、船員に「知らない男が部屋に入って来て…」と泣きそうになりながら告げた。

その後は、船員の男性たちが何人も来てくれて、私は船員がいる部屋の隣の部屋に待機させてもらった。

結局、船員が男を取り押さえてくれて、停船する最寄りの島の警察官に引き渡してくれた。

私は、なんだかものすごく惨めな気持ちになった。

何でこんな目に遭わないといけないんだろう、と。

そして、もし、私が逃げきれなかったらどうなっていたのだろうか、殺されていたのだろうか、性的暴行を受けていたのだろうか、と、そんなことを、考えなければいいのに、ぐるぐると考えてしまって、抑えていた恐怖心も溢れ出してきた。

あー、離島に行くの断れば良かったな。

あー、飛行機で行けば良かったな。

あー、わざわざ個室にしなきゃ良かったな。

私がした選択の1つ1つを後悔した。

船が港に到着するまでの数時間が、ものすごく長いものに感じられた。

そうして、ようやく、港に着いた。

港で連絡を受けて待っていた警察官が乗り込んで来て、現場検証やら何やらしていた。私は警察官を見たときに、心底ホッとした。

男は途中の島で下船させられていたけれど、それでも、港に着いて、警察官を見るまでは、不安や恐怖や惨めさや、これまでに経験したことのない様々な感情が渦巻いていた。

それから、警察官の車に乗って、最寄りの警察署まで行った。

そこでは、被害者として、事情聴取や供述調書の作成をしたりした。

その頃には、私もすっかり落ち着いていた。

それよりも、自分が実際に調書を取られたりしていることに対する好奇心の方が優っていた。警察官は割と職種が近かったこともあって仕事の話をしたりもしていた。

また、男について、どうやら男は精神的な病気を抱えていて、「悪い人に追われている。」という妄想を抱き、船の1番奥の部屋、つまり、私がいた部屋に逃げ込もうとしていたらしい、ということも伝えられた。
それから、私を部屋に押し込もうとしたのは、悪い人から私のことも守ろうとした、ということだった。
私は半信半疑だったけれど、警察官は、「男が嘘ついているかどうかはすぐ分かるよ。だから、間違いないと思う。」と言っていた。

そうして、被害者としてすべきことが終わり、私は帰ることになった。

そのとき、担当してくれていた警察官の1人がエレベーターホールまで送って来てくれた。

エレベーターを待っている間、世間話をしていたように思う。

そして、エレベーターが来る直前に、警察官は私に言った。

「あの男、あなたのことを狙っていたとかじゃなかったみたいだから。もう気にしないようにね。」

このとき、私はこの言葉の意味を全く分かっていなかった。

お礼だけ言って、私はエレベーターに乗り込んだ。

私は、家に着く頃にはもうすっかり落ち着いていたし、「変な経験をしてしまったけれど、実害は何もなかったんだし、不幸中の幸いだな。」くらいにしか思っていなかった。

しかし、次の日、離島から戻って数日ぶりに仕事へ行ったとき、いつもの職場の景色が違って見えた。
なんだかいつものように同僚と冗談を言ったりして笑い合っていても、心だけ置いてけぼりを食らっているかのような、ぎこちなさを感じたのだ。
このときに私は初めて、「もしかしたら、私は自分が思っている以上にショックを受けているのかもしれない。」と、ようやく気が付いた。

さらに、私は、いつもだったら、自分に起こった出来事をネタとして人に話して、そうすることで、恥ずかしい出来事も嫌な出来事も笑い話にして昇華していたのに、この出来事は、ネタとしては誰にも話せなかった。
出張の道中で起こった出来事だったから、職場に報告しなければと思い、上司に話そうとしたけれど、それも人前では話せず、わざわざ上司を別室に呼んで話したほどだった。

それから、駅のホームで最前列に並んで電車を待っているとき、ふと、後ろから誰かに押されたらどうしよう、と恐怖心が出てきて、思わず、後退りをしたり、電車に座って、いつものようにイヤホンで音楽を聴いていたら、急に誰かが襲って来るのではないかと、不安になって周りを見渡したりするようになった。

そんなとき、ふと、あの警察官の言葉を思い出したのだ。

「あの男、あなたのことを狙っていたとかじゃなかったみたいだから。もう気にしないようにね。」

そうだ。あのときも、私は狙われていたわけではない。
たまたま、男が逃げ込もうとした部屋に私がいただけだ。
だから、今だって、誰も私に危害を加えようなんて考えていない。

そう思うことで平常心を取り戻すことができた。

それからも、ふとした瞬間に、また犯罪に巻き込まれるのではないか、と不安になることが幾度となくあった。

でも、その都度、あの警察官の言葉を思い出して、平常心を取り戻した。

きっと、警察官は分かっていたのだろう。
あのとき、明るく振る舞っていて、すっかり落ち着いたようにしていた私が、あとから、トラウマになるかもしれないということを。
だから、気にしている素振りなんて見せなかったはずなのに、あえて、「もう気にしないようにね。」とまで言ってくれたのだろう。

そして、執務室で言うのではなく、わざわざ、エレベーターホームまで送って来てくれて、そして、別れ際にさりげなく、それでいて、神妙な面持ちで、あの言葉をかけてくれたことで、私は、警察官が仕事としてかけてくれた言葉というよりも、1人の人間として、私を心配してかけてくれた言葉のように感じられたからこそ、あの言葉だけがしっかりと心に刻まれていたのだろう。

数年が経った今、私はもう完全に事件を乗り越えている。それどころか、事件については、私の中では、辛い出来事、というよりも、むしろ、警察官との心温まる出来事として記憶されてさえいるのだ。だからこそ、こうやってnoteに文字にして残すことまでできている。

そう、紛れもなく、あのとき、警察官がかけてくれた言葉が、あのときの私と、そして、未来の私まで救ってくれたのだ。

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