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息子が歩いた
毎晩、寝かしつけの後に息子の写真を見返している。
ゲームしたいと普段から言ってるにも関わらず、いざ余暇になると息子の一年と少しを振り返ってしまう。
疲れているのであまりゲームをする気が起きない、というのもある。が、それ以上に大変だったけれど尊い息子の成長過程を振り返りたくなるのである。
ほんの一年と少し前は、まだ宇宙人のような見た目の、たまにもにょもにょと動き、腹が減ると大声で泣き始めるだけの小動物であった。
病院での初対面は、コロナ警戒態勢下だったため、ガラス越しの面会だった。抱っこもできないから、何の実感もなく。正直、この生き物をかわいいと思えるのか不安だった。
看護師さんに「写真もどんどん撮ってくださいね」と声を掛けていただいたので、とりあえず撮った。本当にとりあえずだった。それくらいの実感のなさであった。
むしろ、ただただ不安が募るばかりで。自分におむつ替えはできるのか。夜泣きで自分が爆発したりしないか。かみさんに育児全て自分は何もしないなんてことにならないか。何より、この生き物を愛せるのか。
退院の日、タクシーでの帰路も、正直憂鬱な気持ちが脳裏をめぐっていたのを覚えている。
そんな不安は早々に消えていった。実際に始まった息子との生活は、ただただ愛おしいものであった。写真を見返してみると、息子が来た翌日には、デレデレの笑顔で息子の寝顔を眺める自分が、かみさんに撮られていた。
大変だという予想は一部的中した。メンタルやられたり、かみさんと喧嘩になったりもした。一方的な迷惑をかけたこともあった。
けれど、息子がかわいいというただそれだけで、自分もかみさんも乗り越えることができた気がする。
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そんな息子は、あれよあれよという間に成長していく。
寝返りを打ち、ニコニコ笑うようになり、ずりばいで動けるようになり、ハイハイができるようになり、ごはんを食べるようになり、つかまり立ちができるようになり、パパ・ママと言うようになり……。
ただ泣いて乳を飲むしかできなかった生き物が、ものすごいスピードで成長していく。1歳の誕生日までに、息子の中で0が1になったことは、いったいいくつあっただろう。
えっ、と驚くこともあった。気がついたら当たり前にしてるなー、なんてこともあった。
これが子どもの成長か、と、毎晩写真を振り返りながらしみじみ想う。
そんな息子だが、夏になる頃くらいに、とうとう自力で歩行できるようになった。
つかまり歩きから、一歩二歩歩けるようになり、どんどん歩数を増やしていき、気がつけば常に歩くようになっていた。
お出かけの時も、歩行練習をかねて時々歩かせるようにしている。
親になるまで知らなかったけれど、1歳でちゃんと歩くんだなあ。
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常に歩く、ということは、すなわちハイハイ姿はもう見られなくなったということでもある。
息子の0から1を見られる喜びは、もう0の頃をみることは叶わない、という寂しさでもあると気付かされた。
今後も息子はどんどん成長していく。出来ることもどんどん増えて行くだろう。けれど、息子にとっての0から1になることって、もうそんなに多くない気がする。
彼が生まれてから、日々が尊いものなのだと教えられっぱなしである。
歩く、はその中でも極めつけだったように思う。もう、彼は歩けるのだ。ただただそう噛み締めてしまう。
もうこれ以上の0から1は少ないかもしれない。もしかするとないのかもしれない。
けれど、日々は尊いものだ、と教えてくれた息子を、これからも大切に愛で、見守っていきたいと思う。
君のパパにさせてくれてありがとうな。
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