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豚を

 ジムのトレーナーは身体のスペシャリストで、僕がバーベルを持ち上げた際の調子を見て一瞬で体調を判断する。
 「明らかに弱っているので……明日にでも風邪を引くのでまず豚を食べてください」と教えてもらう。ここまではっきりと「これは風邪を引くタイミングだ」「なので対策としてビタミンB豊富な豚を食べて力をつけて」と、問題と対策を提示してくれることに驚きました。もちろん、感謝も多分に含まれるのだけれど、それより先に凄いなとびっくりして数秒止まったのですね。
 ここ数週間の僕は非常にバテており、仕事もほとんどテキストのみでコミュニケーションしているので、若干焦っている。焦ると精神を消耗して余計に体力を使う。結果的に7〜8月の僕はまったく役に立たない。こうも暑いと、ねぇ。
 たっぷり寝てくださいねと言われると、それはそうなのだが不眠症にとっては難しいことでさらに悩んでしまうのですが、「豚を食べる」は解決法として分かりやすく、ビタミンによってパワーが蓄えられる、その上で脂肪の多い豚バラを避ければそこまで問題はないと、筋肉と体調への気遣いが完璧。これが「肉体のスペシャリスト」である一点特化で生活してきたプロなのだ。バーベルの上げ方一つでここまで判断できる。
 で。素直に豚を食べて、寝転がりつつ、やれるところから原稿を進めている。停滞した分、周囲に迷惑をかけてしまったのは申し訳ないけれども、豚のおかげ……というより、「あなたはいま体調と自律神経が著しく悪い=風邪の前触れだ」とズバッと言ってもらえた気持ち良さでだんだんと回復してきた気がします。このままだと余計に倒れるのだから、いったん休ませる許可がもらえた。これを望んでいたのだな。
 「まずは一旦休め」と数年ぶりに言われた気がする。関わる人数、規模が増えていくに連れ、誰もが原稿や監修を少しでも早めに進めたいため、「休め」と責任持って僕へ言えなくなる。僕が止まると別の人たちも止まるから、プロデューサーたちの立場でおいそれと言えないのだ。代わりに飛び出す、遠回しに「無理はして欲しくないけど(周りに迷惑かけない程度に)働いてね」をパワハラにならないような大人語で諭される社会性に辟易してきた。大人は「俺の若い頃も倒れるまで頑張ったよ」など、あらゆる湾曲的表現で「まさかプロジェクトを止めないよな」とプレッシャーをかける。適度に圧をかけつつ、悪者にはならない塩梅の演出力が上手ければ上手いほど社会人として出世していく。
 とはいえ、誰かが圧をかけなければ回らないことも多く、たとえばパーソナルジムなんかもトレーナーがひたすら重りを追加してくるから効率的に成長させる。僕も100キロを越えるバーベルを数セットもスクワットしたあと、「あと5回!」と追い込まれる。この追い込みは一人でのトレーニングでは滅多にできず、逆に言えばここで強制的にまだ続けさせるから効果が上がるのですね。それと同じ役割を選ぶ人たちが存在し、彼らは嫌な上司を引き受ける代わりに権力を得る。恨まれること前提で生きていく選択もなかなかなことだ。
 そんな立場上の葛藤を差し引いても、さすがに僕の仕事量へのプレッシャーの掛け方は単純にミスだろうとずっと訴えてはいる。人間の活動時間から見ておかしい気がしているのだから、それは過失でしかないような……と、不安と悲しみでぐりぐりと、しかし作品の特性上、どうあっても僕が潰れなければ成立しないことも理解しているので、うーん……と今年は特に悩んでいます。大きな疑問として、「米青ネ申禾斗の予約をキャンセルしてでも打ち合わせを入れた」ことがあり、そうまでされて生きていく意味があるのか、は常に悩んでおります。「豚を食べて休み、風邪に備えて!」と真逆。
 スケジュールや体調の管理は己の責任だと突きつけられるとその通りですが、そのようなことができないから、こうした生き方を選んだんだよねぇと原点に帰ったりもする。要するに「学校に行きたくない」わけで、仕事はともかく労働となると、生き様単位で避けざるを得ない。僕にとって自由が何よりの前提条件であり、義務による縛りは僕の存在そのものが否定される。それは朝に起きて学校に通えた人のもの。
 みんな一旦ゆっくり豚を食べると良い。

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