見出し画像

トラウマとコンプレックスの昇華

 昨日の日記で創作の熱量について聞かれた際、「飢え」を原動力にあげましたが、「自分(の作品)を見て欲しい」という渇きに並んで「怒り」と「悲しみ」があります。


 米青ネ申禾斗の治療法に、時間をかけてトラウマと向き合わせ、「自身のショッキングな出来事をゆっくりと話せる/書けるようにする」方法があります。いつまでも心の傷を封印していると、むしろそれを意識して囚われる。いっそ誰にでも話せるようになることでトラウマやコンプレックスを乗り越えていく。
 「話せてスッキリした」という感覚は上記と同じ原理でしょう。相手がなにか悩んでいる、苦しんでいる際に、解決法を提示しなくともただ聞いてあげるだけで救われるのは、向こうがトラウマや愚痴を吐き出せた事実で心が軽くなるから。いついかなる状況であれ、まずは黙って相手の話を聞くことが人間を救う。
 ネット上に溢れる自虐や不幸自慢のパターンにも、「ショッキングな出来事と向き合う」ことで傷を癒す手法を無意識に取り入れている部分もあるのではないか。自身の苦しみを笑ってもらうことで「なんだもう大したことじゃないんだ」と、ひと笑いとれた承認も合わさり一石二鳥。
 僕も自身の中で大きな岩のように心につっかえていた出来事を、笑い話としてさらっとブログに混ぜ込むことをずっと行ってきた。トラウマへの克服に最も適した手段を「作品(文章)への昇華」と悟ったから。
 悲しいことや怒りは脳内の大部分を占有し思考能力を奪う。そうなると、もちろん感情をそのまま出力したくなるものですが、それは余計に拗らせる。「自虐や怒りは良くない」といった道徳的な話でなく、もっとシンプルにネット上へ弱みを晒すと優しい人よりも圧倒的に変な人が寄ってくる確率が高いからです。世界には、メサイアコンプレックス……「劣っている人間を助けてあげることで自身の劣等感を隠そうとする」人が少なくない。感情を利用されるのは勿体無い。せっかくの悲しみや怒りが他人の自己肯定感になるのは癪じゃないか。相手の思い通りにならなければ劣等感の裏返しを喰らうし。
 そうなると、やはり創作がいい。
 物語の中で、特定されないよう抽象的にした怒りや悲しみは誰にも咎めることはできない。正しくは批判や非難はあるでしょうが、創作は自由だ。「これはそういう作品だ」と胸を張っていればいい。優れた作品が他人を傷つけないわけないでしょう。
 ムカつく、苛つく、間違っているアレコレを物語内で殺しまくってもいい。主人公が許してやることで矮小化させてもいい。またはトラウマを乗り越えさせてやることで自身を救ってもいい。物語を自己の救済として利用することに罪なんてない。
 ブログやツイートでの笑える、またはテキストとして読み応えある形での、自虐や不幸自慢はミニマムな「トラウマの昇華」ではないか。
 僕は今でも怒りや悲しみの火は消えておらず、今は「自分は他人とは違うんだ」とあらゆるものを見下してきたアニメアイコンが30へ近づき遂に創作者を目指す素振りすら見せず、作品の話もしないまま社会に馴染んでいる様子に、とても裏切られた気持ちを覚えている。そしてちょっぴり悲しくなる。
 僕はまだまだ怒りも悲しみも忘れてはいない。

サポートされるとうれしい。