嗅覚検査の結果と退院
人生が苦痛と解放の連続でしかないなら、ようやく解放の時が来た。1週間、僕の鼻から喉奥を貫通し、そればかりか眼球や耳まで圧迫、まともに喋れない上で高熱まで発生させたチューブを外すこととなりました。
こんな長いものが鼻から喉にかけて1週間突き刺さっていた。そりゃ目も充血するし、中耳炎にもなって38℃以上の熱をつねに与えるわ。普通に生きていてこんな長い管が頭部の中心を圧迫しないんだもの。1週間こいつとともに過ごしたうえでの孤独。耐えた。耐えたなあ……。もはや元の目的すら忘れてしまう程の爽快感で今すぐにでも跳ね回りたい。
その前に、管のさらに奥にあったガーゼの詰め物も外してもらう。このガーゼが傷口を塞いでいたおかげで手術跡が痛まない代わりに気道も締め出していた。ので、鼻からの呼吸は肺に送られても、鼻より上側、つまりは嗅覚のある部分へ空気を運ばなかったのですね。それが今や全てを解除してもらえた。ありがたい。
第一の感想として、痛い。
痛すぎる。鼻から風が入り込むたびに鼻奥の腫れを刺激してダメージを受ける。世界ってこんなに空気で溢れていたのかと驚く。痛い。痛いけれども、すごい。未知の感覚。口を閉めてぼけっとしていても勝手に鼻から空気が入って呼吸ができる。しかも、今は手術跡が痛むとは言え風通しの良さ自体は心地いいのです。
みんな、こんなに「空気」の気持ちよさを感じながら生きていたのか。もはや日常すぎて、風が鼻を通る解放感を意識しなくなったのか。とにもかくにも、こうして僕の鼻と喉はつながった。正直、来月には塞がっていてもおかしくはない。けれども少なくともこの瞬間においては(腫れていて痛い以外は)健常なのです。
まだまだ日常では両鼻に綿球を入れて置かねばならない。無理やり開けた穴が塞がらぬよう鼻中の粘膜を壁に使ったため、いま僕の鼻の中はノーガードで何でも傷になる。つねに保湿しておかねばすぐにでも病気へ発展するだろう。なので、しばらくは塩水で掃除後に綿を詰めて保湿する。結局、日常で鼻呼吸はまだできない。とほほ。
それはそれとして、嗅覚があるかを判定してもらいましょう。僕がお世話になった大きな病院には嗅覚検査室なるニッチな施設がある。早速、匂いのついた紙の束を渡され、それぞれが何の香りがしたかを回答することに。
わからない……。
今まで匂いを嗅いだことがないのだから、何かを感じたとて、「これがコーヒーだ!」「こっちは畳だ!」と類推できない。経験がないので比較ができず、推測になる。が、推測するには情報が無すぎる。この紙よりもわかりやすく、いかにも匂いそうな液体で何度も試すこととなった。
きっと、これらが香水と呼ばれるものなのではないだろうか。棒を鼻に近づけていくと、なにやら鼻の奥へ刺激がある。痛い!腫れてるからね。けれども、刺激があったということは何かを認識した証拠である。無臭の空気ではない、鼻を「攻撃」する何かが襲ってくる!あらゆる棒を試していくうちに、恐らく特に匂いの強い棒は僕の鼻中へダメージを与えることがわかった。とりあえず不快であるので「臭いってことですかね」と回答。
つまり、何本かの香りがついた棒、それは桃や木材などの「良い匂い」が多かったらしいが、僕はそのすべての刺激を区別なく「不快」で「臭い」と答えたわけですね。「匂いが強いもの=臭い」。経験が0の状態すぎて、全ての匂いが同じに感じるのだ。正直、こうなるとは思っていたので予想通りの展開に。
その反応に、先生はたいそう喜んでいた。「やったじゃないか!」と肩まで叩いてくれる。本当に嬉しいのでしょう。先生が嬉しいと僕も嬉しい。そう、これは大きな一歩だ。0が1になった。0を1にするのは、1を100にするよりはるかに難しい。僕はまだ嗅覚初心者すぎて「区別」できないだけで、明確に「匂い」を知覚した。29年間嗅覚を使ったことがなくとも、神経は作動するのです。先生はめちゃくちゃ嬉しそうに「退院だ!」と満面の笑み。ああ、嬉しい。立派な医師が自身の手術結果に誇りを感じる瞬間の当事者になれた事実が、嗅覚を手に入れたことよりも嬉しい。人生の恩師となった方へ、心からの感謝を告げ退室する。ありがとうございます。
というわけで、退院です。クオリアの話だ。みんなが「甘い匂い」「刺激的な匂い」とするものが、総じて僕は「臭い」と認識する。が、一歩ずつ、一歩ずつその差異を理解していくのでしょう。いつか「臭い」にも種類があることまでわかって、オタクの、おまえらの匂いがどんなものなのかを長い時間をかけて感じていこう。
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