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中学受験でこぼれ落ちる学びとは?完璧な教育は存在しない

現在12歳の長男は、来年の中学受験に向け、勉強漬けの日々を送っています。

小中高と地方の公立出身で、公教育に正直、物足りなさを感じていた自分としては、自分の努力で環境を自由に選ぶことのできる中学受験に対して、これまで一貫してポジティブに捉えていました。

実際に、努力をした子だけが入ることを許される私立学校は、教育理念、カリキュラム、授業内容、設備、キャリア教育、、
どれをとっても、私が知る公立校とは比べものにならないほど恵まれています。
学校見学に行くたびに、有料と無料の教育の差を見せつけられる思いをしています。

一方で、受験が激しさを増すにつれ、偏差値によって子どもを輪切りにしていく中学受験のシステムの危うさも感じるようになりました。

なぜなら、中学受験は上位20%の子どもたちが受ける試験と言われており、その中で偏差値を上げようとすれば、受験科目全てにおいて、満遍なく、かつ効率的に点数を取る必要があるからです。

それがどういうことかというと、科目の偏りなく限界まで処理スピードを上げるということになります。

誤解を恐れずにいえば、大なり小なり中学受験では、目の前に出されたものを疑問に思わず高速で飲み込む力が必要になるのです。



例えば先日、こんなことがありました。

よく近所の公園にある沼でザリガニを捕って遊んでいる次男が、長男にこんな質問をしました。

「ザリガニの雌雄の見分け方を知ってる?」

すると長男はこう答えました。
「知らなくていい。だってテストに出ないから」

そう。
ザリガニは身近な生き物ですが、中学受験ではあまり出題されないので、参考書などでも雌雄の見分け方までは載っていないのです。

もちろん、これは弟に教わりたくない長男としてのプライドもあるので、中学受験生の傾向とするつもりは全くありません。

ですが、中学受験で結果を出そうともがけばもがくほど、よりコスパの良い学びを求めていく必要があり、本来大切にするべき学びの本質から離れていくようなもどかしさを感じるのも事実なのです。

中学受験に関する書籍などを見ると、必ずと言っていいほど、低学年のうちは植物や生物の観察、身近なものを使った実験や、旅行やその土地の特産物など、さまざまな体験を通して、知識の種を撒くことを推奨しています。

実際、そうした実体験があればあるほど、その後の勉強の中で理解しやすくなるのは事実ですが、高学年になるとそうもいっていられない場面がたくさん出てきます。


例えば、理科や社会の語呂合わせ。


語呂合わせはあくまでも子どもが覚えにくいものを子どもが苦肉の策で組み合わせるものかと思っていましたが、今では塾でもさまざまな語呂合わせを先生から教わります。そもそも中学受験は、あまりにも範囲が広すぎて覚えるものが膨大にあるので、そうでもしないと覚えきれないのです。


長男においても、そうして数多くの問題に最短距離で対処しているうちに、疑問に思う力、本質をとらえる力そのものが弱まっているように感じることも多いのです。


とはいえおそらくそれは、私立中学校では想定内であり、入学後に伸びる部分と考えているのかもしれません。


ただ長男を見ていると、一度ついてしまった効率の良さを求めようとする学びの型を取り払うことや、
同時にこれまで常に課題を与えられていた状況から、自分で答えのない課題を見つけて取り組んでいくことにシフトしていくのは少し時間がかかるだろうなと感じます。




そんなわけで、地方から出てきた私にとっては羨ましく思えて仕方のなかった中学受験ですが、
何でもそうであるように、教育においても完璧な教育というのは存在しないのだなと思うようになりました。


もちろん探究心はそのままに中学受験を成功させる子もいるでしょうが、なまじ探究心があるばかりに、中学受験では結果を出しにくい子もいると思いますし、目の前の問題を機械的にこなすことに終始しがちになる子もいると思います。


社会の急速な変化に伴い、中学受験で求められる内容も変化せざるを得ないと思うので、今はちょうど過渡期と言えるかもしれません。


ただ、中学受験の問題にも、良問がたくさんあるのも事実です。
親としては今しか出来ないことをやり切るために、受験までの残された日々を後悔のないように走り切ってくれることを願っています。









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