実在の出来事をフィクションにすること

最近自分の中で気づいたことなのだが、私はある事件や事故、災害やだれかの死に対しても、すべてにおいて「忘れないこと、思い出すこと」がなにより善だと思っているらしい。

ものすごく大雑把に言ってしまえば、忘れていることが悪で、思い出すことが善。そう考えている。

だからたとえば自分や自分の作品が死んだあとも、とにかく思い出してほしいし、忘れられなければなんでもいい。自分について語ってほしい。そりゃたとえば私が死んだ後にものすごくいい人だったと語られたり誰かのお涙ちょうだい話のネタにされたらイラッとはくるだろうが、しかしそれでも、思い出されないよりは全然いい。話題に挙がらないのが一番よくない。冥福なんか祈らなくていいから、思い出してね、忘れないでね、って思う(まあ、それが一番難しいから言ってるんだけど)。

「人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死」というのは『トーマの心臓』の冒頭の台詞だが、これを真に受けているのかもしれない。だから、自分だけじゃなくて、誰かが亡くなったときも、なにか忘れ去られてはいけない事件があったときも、事故や災害があったときも、とにかくそれを定期的に思い出すこと、それに思いを馳せることが大切だと思っている。できれば話題に出すし、まあ、出さなくても自分のなかで思い出せる限りそれを思い出そうと思うし、忘れていたら「あ、この事件があった日か」って思う。

だから、たとえば十年前に起こった東日本大震災のことを扱った朝のドラマや、二年前に起こったなにかしらの事件を彷彿とさせる漫画も、それを世に発表することそのものがまずすごい仕事なんだと思っている。だってそれはいろんな人に思い出させるから。「あ、今日はあの日か」って。

人間は忙しいからすぐ忘れる。Twitterで流れてきてはじめて、その日であることを思い出したりする。もちろん友人たちの間で話題に挙がれば忘れないのかもしれないけれど、それが話題に挙がらない交友関係を築いてたら、話題を出すタイミングもないまま、語らないままに1日が終わってしまう。そしていつか忘れてしまう。

だから、何だって、思い出させるタイミングがあることが大切なのだ。忘れるな、今からでもいいからそれを見ろ、学べることがあるなら学べ、そう突き付けてくる物語があることが、言葉があることが、重要なのだ。私はたぶん完全にそう考えている。

もちろんその手つきが乱暴であったり、誰かを冒涜するような内容であったら批判を受けるべきだと思う。しかし私は、その手つきがたとえ乱暴でも、なにも思い出させないよりは善に一歩近いと思っているのだ。その内容がたとえどんなに批判されるようなものであっても。

それにまだ触れたくない、思い出したくない人がいるのもものすごくわかる。まだだよ、はやいよ、と言いたくなることも。その手つきに慎重になるべきなのもわかる。

それでも、みんな忘れていくのに。当事者じゃなければあまりにあっさりと、忘れていくのに。

それを思い出させる、思いを馳せさせるフィクションを発表することは、そんなにも、責められることなんだろうか。「事件を消費してる」と言われるんだろうか。「まだ早すぎる」と。こんなに流れのはやい時代に、みんなに事件を目にとめさせたのに。それはそんなに批判されるべきことだろうか。私にはわからない。

いつもありがとうございます。たくさん本を読んでたくさんいい文章をお届けできるよう精進します!