『推しの子』はなぜ面白いのか?
1.『推しの子』はなぜ面白いのか?
『推しの子』はなぜ面白いのだろう。
絶賛アニメが放映中の漫画『推しの子』は、YOASOBIの主題歌のヒットとも相まって、2023年を代表するコンテンツのひとつになることは確実である。かく言う私も以前から漫画を面白く読んでいて、アニメも完成度が高いなあと思いつつ読んでいる。
アイドルを中心とした現代の芸能界を描いた物語で、ある双子の兄妹が主人公。漫画原作の実写ドラマ、恋愛リアリティーショー、2.5次元舞台、バラエティ番組など、その舞台は主人公たちが活動する場所によって移り変わる。しかしそのどれもにおいて、SNSの炎上や、メディアミックスの葛藤、芸能界の労働環境や、ネット配信の役割など、「今」の芸能界に焦点を当てていることが特徴的だ。
……が、まあそんな舞台設定よりも、漫画として完成度が高すぎてビビる、文句なしに面白い、というのが正直な感想。完結してないので今後どうなるかわからないけれど、続きが楽しみな漫画のひとつではある。
しかし不思議だ。『推しの子』は、どうしてこんなに面白いのだろう。
芸能界の裏側を覗き見ることができるから? 今話題の「推し」の話だから? 扱っている話題が身近だから? ーー私はどれも間違っていないと思うけれど、同時にどれも本質ではないと思っている。
『推しの子』の発明は、日本の大古典文学『源氏物語』と同じ構造を持ってきたところにある。
このキャラクター構造こそが、『推しの子』を支えていて、そしてこの構造を「芸能界モノ」でやったところにこそこの漫画の発明がある。私はそう思っている。
2.ハーレム物語の構造―アイドルと光源氏の空虚
【源氏物語構造】と私が呼ぶのは、簡単に言えば「真ん中に空虚を持ってくることで、周りのキャラクターを立てる」物語構造のことだ。
ご存知の通り、『源氏物語』の主人公は光源氏だ。だが紫式部の描いた光源氏描写を読めばわかる通り、実は光源氏は「ただただイケメン」「とにかく美しい」「ひたすら恵まれた容姿」という描写しか描かれていない。もちろん物語は彼の恋模様によって動いていくので、光源氏の内面は描かれてはいるのだが、実はその筆致は他の女性ヒロインたちーーたとえば紫の上や明石の君や藤壺たちーーの内面描写と比較すると、なんだか精度が落ちる。『源氏物語』を読んでいると、光源氏は空虚な存在として君臨する。でも奇妙なことに、その恵まれたがゆえの空虚さこそが、光源氏を「よくわからないけどなんかやたら最強カードを持つキャラクター」にしてみせ、同時に、光源氏の周りにいるヒロインたちをさらに「よくわかるし自分は誰派かな? と考えさせるほどのキャラ立ちをもった魅力的なキャラクター」にすることを成功させるのだ。
むしろおそらく、光源氏の物語が強すぎると、その周辺にいるヒロインたちの物語が薄れてしまう。ハーレムものの構造はたいていこれなのだが、真ん中にある程度空虚な「最強」を配置することで、逆にその周辺のキャラクターを魅力的に見せる――という日本の物語の構造の元祖は『源氏物語』にある。男1に女多数なら『ぼくは勉強ができない』もバチェラー・ジャパンもこの構造だ。とにかく空虚で最強のキャラクターを真ん中に据えることで、周辺のキャラクターを引き立たせる。
私は『推しの子』は完全にこの構造の系譜を継いでいる、と考えている。
3.手渡される「最強の空虚」という名のアイドル―アイからアクアへのバトン
言うまでもなく光源氏にあたるのは、まずはアイである。YOASOBIの歌詞によれば「完璧で究極のアイドル」であるところのアイは、「とにかく目を奪われる」「なぜかよくわからないが最強のアイドル」「だがその中身はわりと空虚」という、日本のアイドルあるいはハーレム物語の頂点に君臨する。その最強っぷりといえばもはや光源氏である。しかし案外、アイについて語られる言説は、「周辺の人間がどうアイを扱うか」に拠っているのであって、アイ自身の葛藤は(最後の最後を除いて)自分で語ることはない。
『推しの子』という物語は、畢竟「アイという呪い」をいかに子供たちが解いていくか、という話である。
しかしこの話の面白いところは、この物語を「アイの話」にしなかったところだ。つまりは、『推しの子』は、やりようによっては「空虚で最強のアイが、人間の苦悩を抱くに至るまで」を描く話にすることもできたはずなのだ。――たとえば紫の上を喪った悲しみを抱いた、光源氏の死で終わる、『源氏物語』のように。
というか、芸能界モノ、アイドルモノ、といえば普通「アイドル主人公の成長」を描く、というのが普通の発想ではないだろうか。
でも『推しの子』はそうじゃない。『推しの子』は青春群像劇である。芸能界というシビアな世界に入り込んでしまった、才能ある若者たちが主人公だ。それはまるでバレー部やバスケ部に入った学生たちの青春を描くのと同様に、きわめて『ジャンプ』的な、王道の青春群像劇のフォーマットである。
ここで重要なのが、アクアという「アイの息子」のキャラクターである。『推しの子』の二巻以降はアクア視点で展開される。アクアは、あくまで「視点」でありながら、同時にハーレム物語の中心にもなっている。そう、アイから手渡された空虚の中心という機能を担うのは、アクアなのだ。
アクアを中心に、ヒロインたちの物語が展開される。ルビー、有馬かな、黒川あかね、MEMちょ。彼女たちがこんなにもいきいき描かれているのは、アクアという中心がちゃんと機能しているからだ。アクアはひとりだけ精神年齢も違うし、ある役割を物語内で担う探偵役も買っている。つまりは物語の語り手のようなものだ。あくまでゲームメーカーとして機能しようとする。
つまり『推しの子』は青春群像劇でありながら、ハーレム物語でもある。
主人公は皆と一緒に戦おうとする「仲間」のキャラクターではない。あくまで探偵役だ。だからこそ、むしろヒロインたちの青春群像劇はいきいきと躍動する。『源氏物語』構造を用いた青春群像劇――って案外これまでなかったよなあ、新しいなあ、と『推しの子』を読んでいると思う。
たぶん作者のキャラクターへの愛情(主にヒロインたちへの愛情)がこのような形を意図せず取らせているのではないだろうか。有馬かなもMEMちょもあかねちゃんも、作者に大事にされてるなあ、という印象を受けるから。じゃないと章をまたいで登場しないでしょう。
有料部分は、この後の『推しの子』に期待する箇所について書いてます、よければぜひ。
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