同時刻とみんなで、マンガを読むあそび

tweetをこうやって日記に貼り付けるのあこがれでした。

松村潔さんが、地上領域とエーテル領域の大きな違いとして、前者は有限があって、後者には有限がないから無限と動画でおっしゃっていて、それを地上に生きてる自分に教えてあげるのが気に入っています。

ちょっとしたじぶん内謎やひっかかるじぶんの感情など、原因は「これは有限である」という思い込み(幻想)があるからでは?と思ってきて、そこでもしかしたら無限なのかも?とか解釈するとわりと気持ちが解決することが多いです。それが正しいかまちがってるかはあまり問題ではなく。

じぶん内で生まれた思考は無限的なイメージなんだけど、いざその考えを外の社会と共有するとなるとき、こういうバッティングが生じることが多いです。有限であるから社会と共有しやすいんだよな。そりゃそうだ。地上社会では時間も物質も有限なのだから。

なので社会と同時刻で何かを共有するとき、いやー時間ってすごいですね!時間軸って便利ですね!となります。ライブとか同じ時間に同じ場所に集まるなんて、なんて貴重な体験なんだろうとひしひしと感じています。

でもわたしはすごく時間の概念が甘すぎて、これをクリアするのにすごくエネルギーを使うのでこまります。

こどものころ、漫画を読むためにともだちの家に集まってそれぞれ漫画を読むっていう遊び?があったんですけど、それってみんなそれぞれの感覚で漫画を読んでて、でも一応その漫画はみんな読んだり知ったタイトルだったりなので、同時刻な感覚からそれててもわりと思考を共有できて良かったんだなと思い出しました。

読みながら自分が読んでるストーリーについて話したいことあったら、声かけて、するとみんながそのページに戻るか進むかしてあーだこーだ言う、で何も無くなったら自分の手もとの漫画に戻るみたいな。子供ながらにネタバレとか気を使いながら、中にはキャラクターの行動について急に嫌悪感をあらわにする子とかもいて、この子はこういうキャラクターが嫌いなんだな…など、そうやって見えないコミュニケーションが成り立っていました(少なくとも私の中では)、今思うとなかなか興味深いです。

漫画ってコマと吹き出しと絵でリズムを提供しながらも、読むスピードは読者に委ねていて、脳内には読者と作者の共同作業したイメージとしての作品があるという感じで好きです。なので一時期漫画を読んだり描いたりに狂いました。

話はちょっと戻りますが、私はこどものころ、コロコロとか王家の紋章とか読んでいて、ナチュラルな恋物語とかに相当うとく、その時にめちゃくちゃ流行っていた「星の瞳のシルエット」のストーリーがとても新鮮でした。さわやかな、恋愛群像劇です。みんなに大人気だったのは久住くんでしたが、私はシリウスの星のかけら(本物)のへの憧れが強く、あれから何十年も経ったというのに、いまだシリウスに謎のあこがれがあります。

あと、その集まりが自分の家だったりすると、つい私一人でゲーム(ファミコン)しだしたりしてみんなの漫画の輪をみだして、よく注意されてました。