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ICUC-068_2021.7.11【マクトゥーブとエピファニー】

【ICUC知的好奇心向上委員会】の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee

参考図書
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角田陽一郎68「マクトゥーブとエピファニー」ICUC知的好奇心向上委員会

マクトゥーブとエピファニーという言葉があります。

僕はこの2つの言葉を、ちょうど同じ日の2015年3月22日に知りました。

実は、僕はこの日の朝、ある小説を読み終えたところでした。ブラジルの小説家パウロ・コエーリョの『アルケミストー夢を旅した少年—』。

Maktub:マクトゥーブとはアラビア語で、直訳では「それは書かれている」という意味で、つまり起こりうる物事は既に前兆が起こっていて、それは最初からそうなるべき運命であるらしいのです。そしてあとは、その前兆にその人自身が気づくか気づかないだけの話なのです。

そしてその日の夜に食事をした友人から、たまたま勧められたある雑誌を手にしたら、その中で"エピファニー"という言葉に出会ったのです。

Epiphany:「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してしまう」という感じ。

 僕はこの言葉をその雑誌『MONKEY Vol.5』で村上春樹さんが連載している文章で知ったのでした。(その後、村上春樹著『職業としての小説家』:所収)

僕はその瞬間確信しました。僕にもマクトゥーブは以前から現れていて、そのマクトゥーブに気付いたちょうどその日に、エピファニーという言葉と出会ったのだと。 そしてそのエピファニーという言葉を知った瞬間、僕にもエピファニーが起こりました。 「僕のやるべきことは、バラエティプロデューサーなのだ」と。 多分、誰しもの人生の中で、マクトゥーブが現れていて、もしその前兆を逃さなければ、いつかエピファニーが訪れるんだと思います。そしてそのエピファニーをキャッチすることが、人生の“きっかけ”なんだと僕には思えるのです。

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

全部梅雨のせい

 おはようございまーす。バラエティプロデューサー角田陽一郎でございまーす。今日はちょっとね、梅雨で先週はすごい大雨でしたけども、今週はね…今週というか、今週も雨なのかな?天気予報みたら雨なんだけど、今なんかちょっと晴れててね、私ちょっとお出かけしてるんですけど。なので、今日はちょっと夏の陽光が眩しいのでサングラスでお送りする知的好奇心向上委員会「移動編」でございます。よろしくお願いいたします。
 えーとね、本当に、熱海もね。すごいことありましたし、なんて言うんでしょうね、ずーっと雨が続くと、今もね、今なう今も九州の方では大雨だっていう報道がありますしね。すごくあれですよね?生活に影響するし、その生活にって言うのは物理的な意味で言うと、暑いのに…なんて言うんですか?傘さして移動して、また傘さしてみたいなのがすごい面倒臭かったりしてりして。なんかこういちいちイライラが募りますよね。
 で、そんな中でね、オリンピックやるのか?やらないのか?もうやるみたいな感じの空気でございますが。そんな中でコロナの、東京で言うと緊急事態宣言がまた、もう…今年は緊急事態宣言の日の方が圧倒的に多いですよね?みたいな感じになっちゃったりして。
 で、それでたぶん仕事とかもね、やろうと思ってたこととかがまた止まったりする方とかもいらっしゃったりすると益々鬱々な気分になったりもしますよね。だから雨が降ってるということでの災害みたいな直接的なビハインドもあるんだけど、なんかこうちょっとイライラみたなものが重なるとそれは全く直接関係ないコロナのイライラとかね、仕事の…分かんないですよ?単純にこの仕事が上手く行かないみたいなちょっとしたストレスみたいなものがすごくすごく…あれですよね、雨だと増幅されるよなーなんて思いますね。
 だからなんか先週もボクも何となくあれです。なんかね、上手く行かない。別に上手く行かないことじゃないんだけど、上手く行かないこととかも結構あったりすると、なんかこう…なんて言うんでしょうね?周りのコミュニケーションとかもちょっと上手く行かないというか。という事とかあると、なんかボクはもう全部梅雨のせいなんじゃないかなー(笑) なんて思ったりもします。

開催されなければいけない会議

 で、例えばで言うとですね…でもそれってだから別にその日が雨だからな訳じゃないんだけど、例えば先日あるアポイントを取ってたんですよ。そのアポイントを取ってたって言うのはボクの長年の知り合いのAさんって人がいて。Aさんとちょうど1年前くらいにコロナで…コロナ前で、こういうお仕事しましょうよって話があって、いいですね〜って言ったままコロナになっちゃったんで、まぁ止まってたというか。止まってるなーなんて思ったんで、ちょうど2〜3週間前に「ご無沙汰してます。あの件ってなんか進みそうなら進めますか?」みたいな感じのことをボクからメールしたところ、実はもう僕は担当を移動してるんですよ、と。まぁそう言うのはよくある話ですよね…担当を移動してると。ああ、なるほど、なるほど、と。なので後任の誰々ってのが居るので、もし宜しかったら紹介しましょうか?みたいな感じのメールを頂く訳ですよね。で、頂いて。ぅぅ───ん…まぁ紹介してもらわなくてもいいんだけどなって、ちょっと思った訳ですよ。思うんだけども。紹介しましょうか?って言われてるのに紹介してもらわなくて結構ですとは言えないじゃないですか?なので、じゃあお願いします。ぜひ会わせて下さいみたいな感じになって。
 その方だってすごい厚意を持ってやってるから、ある意味わざわざ合わせて下さってるわけですよね。そうすると、じゃあ今度Bさんになりますよね、Aさんが紹介してくれた後任のBさんに会いましょうってなって、で、先日まさにBさんとの約束になったわけですよ。で、Bさんに会いに行くじゃないですか?で、Bさんはつまりボクのことをそんなに知らない訳だから、まあ…すごい丁寧に接して頂けるけど、その案件をやろうと思ってたことみたいなことは自分にはそんなに…悪く言えば関係ないわけで。でもこの人が会いたいって言うから来たんですよね?みたいな感じになるから…。全然普通にいい感じで対応はして下さるんだけど、全然こう…未来に繋がるような話じゃない訳ですよ。
 でね、そのBさんってのがまたね、これ…なかなかあるあるなんですけど、仕事出来るタイプの方なんですよ。で、仕事出来るタイプの方って…良いんですよ基本、良いんですけど。例えばボクがこういことをAさんとは話してました、と。ああ、なるほど、なるほど。例えばじゃあ今度Bさんとそういうことをやる感じのことってあるんですかね?みたいなことでアイデアをどんどん出すじゃないですか?そうすると…あーでもそれもうやってるんですよね。…もうやってるんですよね、それもう自分たちでやってまーす、みたいな感じでボクが出したアイデアを全部跳ね返されちゃうわけですよね。で、跳ね返されちゃうのもね、その方にとっては…だからたぶんその方本当にいい人だし、仕事が出来る方だから、それぐらい気づいてやってるんですって意味で言うと、すごく的を得た、的を射た返しをされてる訳です。
 だから結局会わなきゃよかったじゃんって話になる訳ですよ(笑) でも紹介して下さる…紹介して下さるAさんも厚意を持ってやってくれてるし、それに厚意を持って対応してくれてるBさん。で、Bさんが仕事出来るから別にボク、角田の手など煩わせずも自分たちでやれてますから。うん。じゃあ会わなきゃいいんだけどなって話になるんだけど。でも紹介しましょうか?って言われたから紹介して下さいってボクも言うし、BさんもAさんから角田というのがお会いしたいって言ってるんでって言ったら、まあ、良い方なんで断らないんですよね。
 うん、だからその会合ってのはすごく…なんて言うんでしょうね、上手く行かないというか、別にそんなに意味がないってことが何となく見えてるのにも関わらず、開催されなければいけない会議みたいなものってのがやっぱりあるんですよねぇ〜。これはねぇ。まあ薄々、薄々そんなことは予想しておりました、ボクも。その先日ね、ほんと数日前なんですけどお会いしたときに。そうなるだろうな、と。そうしたら案の定そうなったって言う。

良いことだけだとモノトーン

 で、そうなった時がまたこう何日も雨が続いてる中でのね、雨の中わざわざと言うとあれですけど、その方のところまで行って。その方も雨なのにわざわざボクのために時間を空けてくれて。だけど徒労みたいな感じで終わるとですね…これ、雨じゃなければてへへへへ〜(^^)って。まあこんなこともあるよね〜って言ってる気がするんだけど。雨でわざわざ行ったとなると、なんか無駄足だったねぇー感がこう…すごく出ませんか?出るんですよねぇ、この無駄足感ね。これはぁ…お互い不幸だなーなんて思いながら。
 で、そういうようなボクの考え方だと更に言えば、…と言う様なミーティングがその日に設定されてるのってのは、もうなんか…。まあ逆に言うと、だから…本当に雨が続いた1週間の本当に最後の週末の夕方の打ち合わせがそれだったってのは、もうその1週間がなんかそんなに調子よく無かったんだなーみたいなことの代表選手みたいな(笑) うん、メルクマークになっちゃってるみたいな、なんかそんなところがあるんですよね。
 でもこれと別に梅雨ってのは全然関係ないし、コロナの緊急事態宣言発令ってのも本当は、本質的には全然関係ないんだけど、なんかそういうものがパシャッ、パシャッ、パシャッ、パシャッと繋がる感覚って言うのはなんかすごくあるなーなんてのを思いますよね。
 うん…そうですよね、でもどうなんだろうなぁ?そういうものが立て続けに起こった中でたまたま良いものが重なるってことと、たまたま悪いことが重なるってことって、まあ…まぁまぁあるじゃないですか。でもその良いことが重なった事とか悪いことが重なることっていうのはすごい覚えてますよね。で、それが、その記憶が覚えてるってことがその人の人生で何年も生きてると、そういう記憶が溜まって行くわけじゃないですか?その記憶が溜まってくって言うのが実は人格を形成して行くんだよなーってちょっと思ったりする訳ですよね。
 で、そう考えた時に、良いことが連続で起こることとかが…起こり過ぎてることって、その人の人格形成において本当に良いことなのかな?ともちょっと思ったりもするわけですよ。いや、そりゃ悪いことがあるのは嫌なんですけど、なんか最近ちょっとそんな事を思える様になった、大人になればじゃないですけどね。オザケンに大人になればって歌があって、ボクいつもおはようございますTwitter・Instagram…おはようございますSNSか…を、やってますけど。ね、先日もオザケンの大人になればを載っけてしまいましたが。

note     Instagram

 うん、だから大人になればちょっとそういう良い事と悪い事が混じり合うカラフルな感じの、むしろ良いことだけだとモノトーンじゃんみたいな感じで面白くないなーみたいな事とかはちょっとだけ思える様になったなーなんて。…思える様になったというか、諦念?諦めなのかも知れないですけどね。なんかそんなことを思う様になったなーって思う訳です。

人を信頼するということ。

 でね、それでそんなことを思ってる時にまたある別の人と話してて。信頼ってのは何なんだ?みたいなね。信頼ってのは何なんだろうなーみたいなこととかを話してたわけです。信用というかね。で、それとかは結局そこに信頼がなければ同じ事象が起こっても、同じ対応をされても、全然180度見え方が変わるんだよなっていうこととかをまさに話してたんですよね。だから仮にね、自分の人生や、周りや、その自分の周辺に降りかかることがあるじゃないですか。降ってくることが、雨のように。で、降ってくることが良い事なのか悪い事なのかってのは、それ自体が良い事か悪い事かって言うより、それに対する信頼というか信用みたいなものがあるか?ないか?で、また全然変わるよなーてって言う様なことかなーなんて思うんですね。
 とするとね、それをもたらしたモノが、ボクは今信用って意味だと人みたいなことかも知れないし、でも人だけじゃなくて事件とかもそうだし、情報みたいなこともあると思うけど、それに対して自分が信用してるかどうか?って事で実はその物事、ひと・もの・ことの自分に対する影響みたいなものは全然変わるんだよなーと思った時に、少なくともそれが良いか悪いかは置いといて、信用出来る人たちと、人と、なんか信用を持っていないとなんか全てが悪いことになってしまうんじゃないかなーなんて思ったりするんですね。
 で、そんなことはね、自分が note と自分のブログにね、書いたんで。もしよろしければ読んで頂ければと。大した文章じゃないんですけどね。書いてあります。
 で、そう思った時にね、そこにボクは何年か前に、それこそ2015年かな?「成功の神はネガティブな狩人に降臨する」って本を書いて。そこでこうマクトゥーブとエピファニーっていう言葉を書いてるんです。で、マクトゥーブとエピファニーって何だ?みたいなことをその本にも書いて。その本の一節を…一章をね、自分のブログに上げてるんで、それをもしよろしければマクトゥーブとエピファニーってのは何だ?ってのを読んで頂ければあれなんですけど。

あらゆることはマクトゥーブ

 今日あえて解説すると。マクトゥーブってあれですよね、パウロ・コエーリョの星の旅人たちって言う本、小説を読んでたらね、巡礼の本で。ああ、えーと、アルケミストか。ごめんなさい、タイトルを間違えましたね。アルケミストですね。という本に出てたちょっとイスラム圏的な考え方らしいんですけど。もう予兆というか前兆みたなものがこの世界には起こってるんだと。その予兆とか前兆みたいなものを、予兆とか前兆だと思うか、何にもただの偶然だと思うかはその人次第なんだけど。それが全部、全ての世界で起こることはもう在って、それを予兆として捉えられる人が預言者だみたいなね。こととかがある訳です。
 で、ボクちょうどね、そのアルケミストを読み終わった日にああ、そんなマクトゥーブってあるんだーと思って、その後、夕方夜に…その日の夜にある友人とね、ご飯を食べに行ってたんですよ。で、ご飯を食べに言ってる時にその友人が村上春樹さんの連載、後に小説になるんですけどね…小説じゃないや、単行本になる本の一節がちょうど連載されてた…MONKEYかな?に、連載されてた。で、その連載のところにもうこの連載素晴らしいからちょっとって言って読ませて貰えたんですよ。で、読んでたらエピファニーって言葉が書いてあったんですね。で、エピファニーって何か?って言うと、だからその時に恩寵って言うか、その時ふとなんの根拠もなくやってくる幸福の顕現、現れることみたいなことをエピファニーって言うらしいんですけど。それはだから英語になるんですね、Epiphanyってね。
 で、それって村上春樹さんで言うと、神宮球場で…あの方はすごい野球好きじゃないですか。で、ヤクルト・広島戦を見てたのかな?で、そのあるピッチャーがボールを投げて、ある打者がボールを打った瞬間に、そのボールを見てたら「あ、僕は作家になるんだ!」って思ったんですって。というのが急にふとその感じが…それとそのボールを追ってる自分とはなんら関係はないのかも知れないけども、急にエピファニーが来たんですって。
 で、そういうのあるよねって言う様な事があって。でね、ボク。ボク的な話しで言えば、マクトゥーブっていく言葉を知った日にエピファニーという言葉を知った事実みたいな。たぶん2015年の3月の、たぶん22とかだと思うんだけど。ああ、だからこれはボクが…ボクの中でエピファニーを貰えた日なんだなーなんて思ったんですよね。うん。なんかその聞いた瞬間にボクはバラエティプロデューサーとして生きていこうとちょっと思ったって、思ったんです。
 で、そこから2016年12月31日でTBSテレビを辞めるんですけど、それはつまり自分がサラリーマンというよりは自分個人の名前で生きていこうと思ったきっかけってのは実はそのエピファニーがきた時でもあるし、実はそれはマクトゥーブとして現れてたんじゃないかなーと思うと、なんか自分がその時に、その時までに、それ以降も、出会った人・もの・こと、みたいなものって、あらゆることはマクトゥーブなんじゃないかなーなんて思えるようになったんですよね。

連綿と繋がったものが次の前兆になる

 それってね、ただ、今そういう風に言うとなんかすごい神秘的な話に聞こえるんだけど、実は自分がテレビ番組を作ってた時に何かを…ネタというかね、何かを題材にしてこれをこう取材して、番組の企画にしようみたいなことがあった時に、それってたまたま雑誌をパラパラめくってたりとか、たまたまこんな人に話しを聞いたとか、いや、なんだったら映画観たとか、そんなネタをその順番通りに…Aというネタに出会い、Bというネタに出会い、Cというネタに出会ったから、「あ!思いついた!」みたいなものってすごくあったりして。それってね、その後マクトゥーブとエピファニーの経験をしてからボクは毎年の様に本を出すようになるんですよね。
 今だから14冊。今年これから15冊目、16冊目が間もなく出るんですけど。なんかそういうのって…今だから頭がそうなってるからかも知れないですけど、今ちょうど赤入れ、校正をやってるんですけど、その時に取材を受けたから。で、受けたのがじゃあ仮に、取材を、文章を書くね、編集者さんと取材をしてた時に、その取材の喋ってることってボクが喋ってる、つまりそれが記事に、文章になってるのって、その数時間前に出会ったクライアントの話しとかしてるんですよ。あるいはその数時間前に東大の大学院で授業を受けた授業の内容について語ってるのとかが異様にあるんですよ。ってことはさっきのABCDの順番で言うと、Aが起こってBが起こってCが起こってが、仮にAが起こってBが起こってCが起こらなければ…、Dの本、その本はもうすでに本の中身はそういうない様になってないんだよなーって思う訳です。
 仮にね、起こってもABが逆でBが起こってAが起こって…ってなってたとしたら、なんかもうまたボクの中でのインタビューの取材を受けてる時に、その話しの、話してる内容もどう思ったかみたいな思考も全然違うものになってるんじゃないかなーなんて思ったりもする訳です。それってだから、そのマクトゥーブって話しで言うと、全部マクトゥーブじゃないですか?って事なんです。Aということが起こり、CであhなくてBが起こり、でCが起こった。そのABCというのが起こったことがDという、その本を作る時の編集者との会議、取材になってるから、今赤入れしてる原稿にはそのことが書いてあるんですよね。
 で、もしかしたらね、その本が…本だからお手元に、皆さんのところに届く訳ですよね?で、届いた時にそれを読んだ人も…それをね、ボクが2015年の3月22日にアルケミストを読み終わって、村上春樹さんのエピファニーの記事を知ったのと同じような感じで、ボクの書いたその本をその人の人生の、2021年の何月何日の何時に読んだ、その感銘を受けたみたなことって、もうその人の人生にとってのマクトゥーブであり、もしかしたらエピファニーかも知れないですよね。それを思ったことでじゃあ自分も、自分のエピファニーは何かな?と思ったら、この職業に就こうと思ったとか、この人と結婚しようと思ったとか、何でもいいんですけど。っていう風になったとすると、なんかもうあらゆることがすごい連綿として繋がっていて。良いも悪いも含めて。で、その連綿として繋がったものとかが結果次のプロセスの前兆になっている。うん、これってなんか改めてすごいなーなんて思ったりする訳です。

レールの上の自由の領域

 だからそうすると…これやっぱり自分が歳取っただけかも知れないんですけど、20代30代の頃はやっぱり自分でレールを作ろうと思ってた、自分で…どこかに行き先があって、その行き先を目指すようにレールの上を行く。今の車で言うなら高速道路を、東名高速を乗りながら上りに向かっているみたいなね。なんかそう言う様なことって、レールって言ったら電車だったり、新幹線だったり、なんだったら汽車という意味ではある意味自分のコントロールがちょっと出来ない要素もあるし、それが高速道路の例えであるならば、車という意味ではパーキングに寄ることも出来るし、なんなら高速道路を降りちゃうことも出来るし、なんなら右車線走るか左車線走るか真ん中走るかみたいなところも違うじゃんみたいなことを考えれば、なんかフリーハンドというか、自分のところの自由の領域ってのはレールの上に乗ってたってあると思うんですよね。でもそれが…それだとやっぱりちょっと嫌だ、もっと自分として行くべき方向に行くんだ、みたいなことってのはやっぱり20代30代の頃は思ってましたね。
 ところが40超えた辺りから結果…面白いんですよね、そういう気持ちはなくなるわけですよ。で、そういう気持ちが無くなってるのにも関わらず、結果、自分のやりたい方向に行く様になったって言うか。つまり今のレールの比喩で言うと、レールから降りたのに結果自分の行きたい方向に行ってる。で、レール降りたと言うのは別に会社を辞めたって意味ではなくて、そういう風に自分がある道を作って、ある線路を作って、ある目標に向かって進むみたいなことはもうなくて、むしろ日々、なう、今、ここで…今ここで運転してるように、何となく…うぅ〜ん、ただ、ただ生きている。ただ生きていると言うとすごいネガティブに聞こえるかも知れないけども、全然ネガティブな意味ではなくて。ただやっている、ただ生きているというのを繰り返してるだけなのに、結果、20代30代で何かに向かって進もうと思ってた、もがいてた事みたいなことがないのに、結果、マクトゥーブというか、今まで積み重なって来たものの前兆みたいなものを感じながら、時々エピファニーを感じながら生き続けてるんだよなーって思うわけですよね。これって…面白くないですか?っていうことでございます(^^)
 皆さんにとってね、マクトゥーブってなんかあります?って言うか。そう考えるとそのマクトゥーブって言葉を知ってからはどなたと出会っても、なんか悪いことがあっても、何かの前兆なんだなっていう風に思ってくると、なんかね、結果、感が鋭くなりましたね、ちょっと。うん。だからその経験を積んだだけじゃんって言う、自分の中でのフィードバックがやり易くなったからだとも思うんだけど、そんなに自分の経験が活かされない様な全く違うジャンルの話しとかでも、なんかこう……未来が見えるって言うとあれなんだけど、でも預言者ってそう言うことじゃんって意味で言うと、そのマクトゥーブを感じられる人が預言者ってさっき言いましたけど、預言者にはなってないけど、自分の行く末みたいなものがなんかこう自分のやりたい事とすごい繋がって見えるというかね。まさに預言できるっていうかね、自分の人生がみたいな。
 預言ができるって言うと、預言ってあれですよ?神の方の預言であって、予知の予言ではないですけどね。そう、だからミッション・フロム・ゴッドというか、神からの使命みたいなものって言うのがあって、それをこうただ、日々、やっていますみたいな風に変わるというか。20代30代の時はそのミッション・フロム・ゴッドみたいな、もっと高い目標みたいなものがあって、それに向かって自分がステップアップして…みたいな。あるいは切磋琢磨してみたいな。あるいはどう近づけるか?みたいな…ことを考えてた気がするんだけど。

変わるタイミング

 まあそんな目標みたいなことを考えてると、ここでは何回か言ってるかも知れないですけど、そんな人生の目標って究極的にはどう死ぬか?みたいな。ねぇ、最後の死、ゴール=死みたいな話しになっちゃうから、なんかボクはゴールを見ない様にしてるんですって言ったことがあると思うんですけど、なんかその感覚みたいなものがすごい研ぎ澄まされてきたのかなーなんて思います。それが2015年だったとすると、うん、あのー、もう5年6年経ってるってことですもんね。うん。で、そのエピファニー的なものってのは、むしろ何かすごい感じることが多くなりましたね。それって、ね、一期一会ってね、千利休じゃないですけど、一期一会って言葉があるけども、その一期一会ってのはその人と出会ったことを大事にしようみたいな意味以上にマクトゥーブを感じることなのかな?とか。その一期一会をエピファニーと捉えられるかどうか?みたいなことを言ってるのかなーなんてちょっと思ったりもしますね。うん…言ってるんじゃないですかね?たぶん。
 そうするとね、このICUC知的好奇心向上委員会の動画をご覧になってる方がいて、今日のボクの話しを何か自分のこれからの人生のマクトゥーブと捉えるか?いや、でも…エピファニーとまでは言えない(笑) 言えるほど大した話じゃないんでスイマセン(笑) なんだけど、うん、この角田の動画を見た瞬間に私はこれをやろうと思ったとか、あれを…やろうと思ったというプラスだけじゃないと思うんですよね。私はこれを諦めようと思ったとかね。ムーンライダーズを聴いて辞表を書きましたみたいな。ムンライダーズの歌にありますけども。なんかそんなきっかけだってそれはエピファニーかも知れないですよね?辞表を書くことが…みたいなね。うん、なんかそう言う様なことかなーなんて思うんです。
 だからボク本当に何か最近色んな心境…今年の2月に結構大きな心境の変化があったんですよね。で、2月に大きな心境の変化があって。で、この6月7月になって自分の中でそう思おうとしてるのかも知れないけど、2021年が、上半期が終わり下半期になり、そして今日はまさに満月…じゃなくて新月。7月10日は新月。ああ、でもこれアップするのは7月11日だからね、うん。かも知れないですけど、7月10日土曜日は新月で。だから何かこう自分が変わるタイミングなんだなってことは新月の時はいつも言ってるんだけども。何かこう思考の捉え方が違うような出来事がまた自分の周りでぽつぽつと起こるんですよ。それってだから、ああ、もう、ボクの中では変われ変われという前兆が、予兆が来てるんだなーって思ったりもします。
 で、それをね、変わると言うことを実際どうやろうかなと思うと、これからね、本当に8月に2冊本が出るんですけど、その本が出るって事とかとやっぱり自分の変わることをリンクさせたいなーって。リンクさせたいなーって言うか、どうせリンクして行くんだと思うんですけど。と言う事をしようかなーと思ってると、実はその変わった事…どれか一つ上げればっていうと、実はあります(^^) あるけどそれは内緒です。内緒ですけど、その…一つというか二つくらいあったかな変わるタイミング。で、その二つのタイミングが7月の5日くらいにゴーンッと来てとか。なんかね、二つくらいまた同時に起こってるんですね。それってすごいエピファニーだなーなんて思いながら。はい。そんな感じで知的好奇心向上委員会7月11日版を終わりにしたいと思います。皆さんもね、梅雨で鬱屈…鬱ぷ ン …いやでも鬱憤と言いましたけど、梅雨が終わったら終わったでまた暑くて鬱憤が溜まるのかも知れませんが。まあ、そんな感じでございます。角田陽一郎でございました。

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文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 先週同様、文字起こし前にメモの書き出し。

 マブトゥーブの直訳が「それは書かれている」で連想されるのはボルヘスの「バベルの図書館」(伝奇集積読中)。お国が同じだったか?と見てみると、パウロはボルヘスに会いに行ってるし、多く影響を受けているらしい。ボルヘスはマクトゥーブという言葉を知っててバベルの図書館を書いたんだろうか?
 「書かれている」ということは、いわゆる運命で決まってることだとすると、じゃあ変えられないと悲観的に思うと努力することも馬鹿馬鹿しい。ただ、未来は今ここにしかないと豊津さんが仰った通り、今をどう思う(捉える)かが未来そのものということなんだろうか?書かれている事を悲観ではなくポジティブに捉えられるか?捉えよう!ではなく、ただそう捉えられる時は正しいレールに乗れていると言う事だろう。
 そもそもレールは敷かれているもの、自由が効かない変えられないものというイメージだけど、電車のレールだってこっちへ引きたいと思って敷いた人がいて、同じ方へ行きたい人が利用してるだけの話かも知れない。

── ↓ 文字起こし後 ↓ ──

 確かにレールより道路の方が自由度がある。最近近道とはなんだろう?とよく思う。レールは目的地がずれない。途中で降りることができる。鈍行でしかいけない場所もあるけど新幹線もある。例えばなんちゃら講師は直線で早くゴールできるように目的地は何か?を明確にさせる。目標達成前に飽きたり諦めたりしないように早く成功することは大事だけど、離脱を許さないというか、本を手に取ったら速読で一気読みみたいな、この目標は好きとか楽しんで達成するものじゃないならいいけども。
 目的を定めてレールを突っ走るのはさんまさんの言う「寄り道したい」とも、読書をプロデュース的読書とも真逆。道路の自由度はそれらの真ん中辺り。寄り道しながらマクトゥーブを拾いつつ組み上げる気がする。

 私が幼稚なのか馬鹿なのか欲張りなのか。そちらでその話が進んでるなら進んでいますと言ってくれたら良いのに。もしくはBさんに話す時に A:こう言う話をしてたんだけど B:それもうやってますよ という会話をしてから返事してくれたらいいのに。それとも、もう話の片が付いてるならそれでいいんですと角田さんが付け加えれば良かった??
 最近、人を紹介するというのは結構リスキーで、逆に紹介して頂けるというのはありがたいお話だということも半分実感くらいのリアリティで分かったけど、そう考えると会うだけでラッキーなことだったのか?あの時は無駄足だったけどという未来が…それは無理矢理マクトゥーブに添いすぎか。

 30代、自分はもう若くないと思っても40代以上の方からは十分若いだろ!と言われた気がする。「若いんだから」という言葉はある意味枷だと思う。それが40代になると年上から”私よりは若い”という言い方をされるようになった気がする。少し寂しかったり後悔したりする気持ちを持つ様になり、でも枷が外され良い感じに肩の力が抜けるのかも知れない。初老って上手い言い方だ。
 昔聞いた話で、起業する人は40代が多く、やり遂げる率が高いとのこと。社会人としての経験もそこそこ積んであり、子供の手が離れて自由があり、気力体力ともにこれ以上歳を取ると流石に難しい、これが最後のチャンスだという思いがあるからだとか。
 時々怖くなって止めたくなる。普段そんな迷惑な人に会わないけど、師匠のように遭うなら…。遭うのは動いた証拠とも言う。ならば遭遇必至なのか?と。でもやっぱり今止めたら後悔するから、慎重過ぎるとか遅いとか言われても、みんなの様に上手く出来なくても、自分のペースでやろうと何度も言い直してる気がする。日付を目標にしてレールを突っ走るのは一番苦手だろうから止めておこう。でもダメならその時はやり直そう。はじまりは何回はじめたっていいって書いてあったし。

 エピファニーの見間違いもしたけどマクトゥーブは2017年からたくさんあった。その中で角田陽一郎という人を見つけたことはかなり大きかった。今まで付き合ったことがないタイプの友人もできた。そのせいで今まで付き合いがあった人が軒並み合わなくなるという弊害もあったけど。
 最初の最初を辿れば2017年、Amazonのおすすめに出たアフガン編みという編み物の本がきっかけだった。編み物のことなど何も調べてはいなかったのにどうして出てきたのか?その時もかなり不思議に思った。今も本は買ってないし、アフガン編みもしていない。本当に何のために出てきたのか?
 何回か前に書いた気がするけど、文字起こしを始めたのもアフガン編み越しのきっかけから1年越しのこと。2019年8月28日、代官山蔦谷書店、ひろのぶさんと角田さん出版イベント「イベント内容の文字起こし募集」「ICUC募集」→ICUC参加→発展途上人学参加、講義内容をnoteにUPして良いんだという衝撃→「渋谷で角田陽一郎と」終了のお知らせ、角田さんが西本さんにアーカイブが残るか?聞いた後、いつか文字にしたいと話す→篭ってICUC→メモ書きをUP→どれも全部メモしたい→(やって怒られないと言う予想のもと)文字起こし。
 さらっと書いたけどエピファニーの見間違いがあると思う。私の場合かも知れないけど、雷に打たれた様に「あ!」とは来ない。気づいた時にはレールに乗っていて、後々気付く。あれがエピファニーだったんだと思いつつ、重くゆっくり変わって行く様な、地面が勝手に滑って行くような、そんな感覚を数ヶ月間ずっと味わう。…それはエピファニーではなくマクトゥーブの連続なのかも知れないけど。

 一期一会の変換に【一五一会】が出てきて。なんでこんなものが出るんだろう?と検索したら驚いた。一五一会は楽器だったんだ?!

Wikipedia     みんなの一五一会

★最近の悩み事は文字寝かしが長すぎることです★

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