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ICUC-093_2022.1.2【内観と外観】

【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee

今週の本
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角田陽一郎93「内観と外観」ICUC知的好奇心向上委員会

2022年の最初の配信です!
今年も自分勝手にしゃべっていこうかなと、気楽に考えいています。
内観と外観の話。

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

ブルーバックス珈琲カップ

 どうも、あけましておめでとうございます。バラエティプロデューサーの角田陽一郎と申します。聴こえてますかね?今日もICUC知的好奇心向上委員会の一発目ということでなんか喋ってみようかなと思っておりますが。あのー…あれです。なんでしょうね?聞こえてるのかな?うふふん、これ本当に、結構あれですね、その確認がなかなかできなくて怖いなぁなんて思いますね。昔ラジオでね、自分であの…困った!言葉が出てこない!渋谷のラジオか。渋谷のラジオで録音とかしてて、で、結構、あれは50分ぐらいあったんで、50分くらいどっかで喋って。さあ喋り終わったぜってなって、iphone 見たら録音がされてなかった。ちゃんと出来てなかったみたいな時とかね。ええ?!もう1回録るの?!みたいな事って都合5、6回あった気がするな。あれがすごいなんか大変ですよね、せっかく喋ったのにみたいな。そんなんなので、何かもし聞こえなかったら言ってください。あと何かせっかくライブでやってますんで、なんかね、──あぁ、あけましておめでとうございます。あの、コメント下さい。そしたらなんか普通に会話できるかなーなんて思います。あ、どうも。こんばんは、ありがとうございまーす。
 今年ね、2022年の1月2日で。明日1月3日で新月なんですよね。そう…あ!ばっちり聞こえてますよ、ありがとうございます。本当にね、聞こえてるかどうか分かんないのってすごい…自分ほら、スタッフだからかも知れないですけど、すごい気になるんですよね。はい。で、あのー、話を戻すとですね。…ちょっと待ってくださいね。さっきから「あのー」ばっかり言ってますね。一番最初なんで、新年一発目の。何か話すこととか、そういうの考えたりして。今年の抱負とかね。なんかそんな風なものでも話そうかなと思ったんですけど。思ってた割には今は結局そんな何も考えずにやろうかなーなんて。だからなんて言うんですかね。一時期ツイキャスちょっとちょこちょこやってましたけど、ツイキャスっぽい感じでやってみようかなーと思っております。
 ちなみにこれ面白くないですか?これ。ブルーバックス・コーヒーカップ。ブルーバックスってね、講談社新書、サイエンスの新書。これがなんかアレなんですよね、スターバックスをパロディって、ちょうどエイプリルフールがなんかの時にブルーバックスのコーヒーカップですって言ってたら、結構なんか評判が良かったんでクラウドファンディングで作ります!みたいなことをやったので、申し込んでたら、年末に送られてきたっていうっふっふ♪感じなんで。ブルーバックス好きなんですよね。自分が文系なんですけど、あの理系のいい新書…だから…いつだったっけなぁ、「タイムマシンの作り方」っていうの確か昔読んだんだよな。そう、「タイムマシンの作り方」ってタイトルってなんかちょっと惚れるじゃないですか。それってつまり相対性理論、アインシュタインの、あれが分かりやすく解説されているっていうので、なんかすごい興奮した記憶があるんですよね。だから自分が基本的にはそんなサイエンスっていうか科学っていうのはそんな得意じゃないんですけど、得意じゃないんだけどその得意じゃない自分の興味みたいなものを喚起させてくれるのがスターバックス…じゃなくて(笑)ブルーバックスだなぁなんて思っております。

『Variety Fiction 宣言』

 はい。で、ほんと何話そうかなーって。いやいや色々、いろいろ考えてたんですけど。あの…ね、インスタとかにはちょっと上げてますけど。昨日、1月1日だったんで、ちょっと自分のまとめたノートのメモみたいなものをね、インスタにわざと上げたりしてますけどね。あのタイトルは『Variety Fiction 宣言』って言う。…なんだ?その『Variety Fiction 宣言』は?みたいなことなんで、本当は『Variety Fiction 宣言』ってタイトルで喋ってみてもいいかなーなんて思ってたんですけど。宣言してもバラエティフィクションが形にならなければそんなに意味がないと言うか、ちょっとカッチョ悪いなぁと思ったので、これをちょっとまず形にしてからちゃんと『Variety Fiction 宣言』というものを、バラエティフィクションというのは何か?っていうことを、なんかね、発表した方がいいから。このICUCで、今ここで喋るにはまだ漠然としすぎているんですけどね。なのに書いたノートとかをそのインスタとかね、SNSに上げているのは一体何なんだ?みたいなことかも知れないんですけど。ちなみそこに書いた文章だけは読まさせて頂きますけど。

Variety Fiction 宣言
2022年なんて、自分の感覚的にはすごい未来だ。
なのでそんな2022年がはじまったので、ボクがやるべきことをまずは根本から概念化してメモしてみる。
設計図を描いてみる。書いて、観る。
するとこれからの人生で、やりたいこと、やれること、やるべきことが少しずつ具体的に見えてくる。
そして、未来のその先に行く。
必ず行く。
自分で、自分に、宣言する。

 っていうね、ことを思ってて。それってなんかボクの中の今年の、2022年のちょっとやりたいことっていうか。バラエティプロデューサーがやるのはバラエティフィクションなんだっていう。…うん?バラエティーフィクションで何なんだ??っていうことは、ちょっと…もうちょっと形になってから、ここでね、随時お伝えできたらいいかなーなんてのは思っています。

内観と外観

 あとはね、今日はタイトルを一応「内観と外観」ってタイトルにしたんですけど。なんかね、自分がこうちょっと迷ってるなーみたいな時って、そんなにボク好きじゃないんですけど、好きじゃない割には読んでるんでけど、自己啓発書みたいなものね、なんかパッとをkindleで買える物とかを、そんなに根拠なくキーワードだけ入れてちょっと読んでみたりしてます。内観てね、内側を観るっていう。内観療法とかね、よく言うんですけど、内観…合宿?内観体験をしてきたね知り合いが Facebook に書いてる人がいたんで。もう1ヶ月前ぐらいですけどね、へえと思ってたんですけど。で、1月1日だから内観ってなんなのかなあーなんてちょっと気になって。で、内観で検索してたらある本が出てきて。で、その本をパラパラ Kindle で…Kindle にパラパラって言うオノマトペが合っているかどうかは置いといてですけど、まぁ Kindle で読んでみたんますよ。そうしたら、なるほどなーと思ったんですね。
 で、それって何かボクの中での今年の考える上での一つの柱だなぁと、柱になるような考え方だなあと思ったんですけど。つまり内側を見る「内観」、外側を見るってのは「外観」ですよね。で、なんか外から、外から見た世界というか、自分の目とか、耳とか、鼻とか、あと肌とかから色々吸収する情報みたいなものっていうのを自分の内側に入れて、内側で多分それを自分の脳がどういう風に検知するというか、把握するというか、理解するというかってことじゃないですか、要はあらゆることって。そうすると例えばある人がいて、その人に対して不快な思いを持ったとか、あるいは何か愛情みたいなものを感じたとかっていうものが仮にあったとしても、不快だとか愛情ってのは結局「自分の中」なわけだから…。つまりそれは仏陀の教えみたいなものにちょっと近いんですけど。ところがまたブッダの教え──そうそう、なんで今日この本のタイトルを言ってないかというと、ブッダの教えを今日はお伝えしますみたくやると、なんかこうお正月からすごいこう…なんか説教じみちゃうなぁなんて思ったりしてて。で、仏陀がこういうふうなことを教えていた、それはそれで結構宗教的な感じじゃなくてっていうことがその本にも書いてあって。そうそう、そういうふうに捉われちゃうと嫌だなーと思って、あえてボクがその本を読んで思った事っていう、その本は何か?ということは言わないっていうことにしようかなーと思ってるんですけど。──えっと、つまり外側にあるその何か嫌な事でもいいことでも、人間関係でも、色んな出来事でも、それと自分が中で思ったことっていうのは本質的には違うもんじゃんか、と。外観にあるものと中にあるも違うものではないかと。だから仮に自分の心の中で…じゃあ例えば不快だなぁと思ったとか、いいなーって思ったっていうのは、それはあくまであなたが思った、つまりボク、個人が内の中で思っただけで。それと外側にあるものを別に考えるのはどうでしょうっていうような提言がされたんですね。

感情こそ論理的でありつつ、内と外は別ける

 あ!なるほど、と。それってボクの中ではよくこのICUCでも言ってるんですけど、でも、ほら、会社とかにいた時にボクよく言われてたんですけど。ある感情が起こった時とかに「まあお前の気持ちは置いといてさあ」とかって、よく会社とかで説得されたりしません?上司とかに。「だからお前の言ってるその怒りは分かるよ。ただちょっとお前の気持ちは置いといてさあ」みたいな。「そこはちょっと冷静になってさ」「ひとつ理性的に」みたいな事ってよく言われるじゃないですか。でもボクは自分がそう思ったって感情こそが実は結構論理的だよなーってずーっと思ってて。だから自分がこう怒りを感じたとか、相手が悲しく感じたとか、そういう事って感じるためには感じる理由がね、…ボクが怒りを感じたとしたら中で怒りを感じたとしたら、その外側に何か怒りを感じるものがあったから感じたわけだし。ボクじゃない他人が悲しいと思ったんだったら、ボクが何か悲しいことをしたからその人が悲しくなっているという風に、極めて論理的なんじゃないかな?感情というのは…と、ずーっとずーっと思ってたんですよ。で、その本っていうか、別にそれは全く否定されてないんですよね。そうなんだけど、だけど、それの外と自分の中にあるものって別個に考えた方がいいのではないか?ということをその本は提唱していて。
 うん。…するとね、まあ簡単に言うと落ち込まないじゃんとか、簡単に怒らないんじゃないかとか、そういう様なことを、なんて言うんでしょうね?苦しくならないじゃないかっていう。だからあなたがその外側に起こったことで悲しいと思ったことと、外側にあるものとは、実は別もんでしょっていう。ほぉぉ、なるほどなーみたいな。
 で、もっと内観ってどんどん禅とかに近くなっていくんですけど、もっと自分の身体的なものを気づきましょうみたいな話になると、なんて言うんでしょうね、自分が目をつぶったら呼吸しているものを捉えましょうとかって、よくね、禅とか瞑想とかマインドフルネスとかってそっちの方に話が行くと思うんですけど。まぁそういう様な考え方にちょっと近いんでしょうね。
 で、なるほどなーんて思いながらそれを昨日の夜中とかに読んでて。で、何かね、まぁこれを色々…嫌な事っていうか大変な事とかあるなぁなんて思ってたんだけど、翌朝起きたらなんかちょっとスッキリしてるんですよね。だからつまり自分の外側にある不安なこととか嫌な事とか、ちょっとネガティブなことと、それを自分がネガティブに思っているということは別じゃないか?って、1回ちょっと理性的になる。それだけで生きやすくなるじゃんっていうことって、朝起きたらちょっと今日は気持ち良くて。なるほど、と。確かにその本を言ってることって一理あるよなーなんて思ったんです。

内の自己承認欲求と外からの承認

 あともう一個は。…という事とかは気持ち的には分かるんですよね。ストレスはない方がいいじゃんかとか、苦しくない方がいいじゃんかと。ところがボクも一応本を書いたりとか、まぁ大したことないですけど色んな映像作品とかを作っている中で、自分の想いを…中にある自分の想いを外側に出してるわけじゃないですか。出してるとすると、その出したものを作る時って、中の悲しいとか、怒りとか、そういう感情をなるべく無いように冷静にしましょうと言うと、気持ち的には安定するような気がするんだけど、なんか作品を生み出せないんじゃないかな?っていう恐怖というか、不安みたいなものって昔からあるんですよね。だからそれって仏陀的には、つまり欲望というのは何なのか?みたいなことね。だからそうすると自分の心の中にある欲望、それって多分あらゆる人間の中で一番強いっていうか、今のこの現在社会でかなり問題…、問題っていう、かかなりやっぱりフューチャリングされるものって自己承認要求。で、その自己承認要求みたいなものっていうのと実際外側で誰かが自分を承認してくれるのか?みたいな話って、それも本当はちょっと別もんなんじゃないか?みたいなことを多分書いてあるんですね。うーん、なるほどな、と。まあそういうことも思うわけです。ボクは別に事後承認要求でこの髪の毛を緑にしたのか?とか、そんなことはよく分かんないんですけど(笑)。このICUCはなぜ喋ってるのかなーっていうのは自己承認 要求なのかなーとか。自分が作っているものは何なのかなーなんて事とかも思うわけです。
 で、そうすると、なんかその自分の気持ちがつとめて冷静になった方がいいなーというのは思うんですけど、一方で、それを心の安寧を求めすぎるとなんか作品が生み出せないなあっていう思いみたいなものがあったんですけど。で、その本をパラパラ見てたら、そういう欲望みたいなものを捨てろと仏陀は言っているわけではないんだよ、と。うーんなるほど、と。あっていいんだよ、と。ただあった上で、その欲望を叶えようとする時に外側に意識が行って、つまり叶わないじゃんみたいな風にならない方がいいんじゃないの?みたいな。もうちょっとね、論理的に書いてありました。論理的に書いてあって、本当はこういうこと喋るんだったらその本を持ってね、こういうこと書いてありますよって、すごい詳しく解説した方がいいんですけど。また話が戻るんですけど、なんかね、そんな感じよりも、それを読んだ感想をボクがこういう感じでダラダラ喋ることでいいかなーなんてちょっと思ったりしたんで。あえてそういう風にしてないんですけど。
 だからその自分の色んなとぐろを巻いているような感情と、それを呼び起こした外側のものっていうのは、…今ね、自分というフィルターを通った時点で別物だということってコメント頂いてますけども。うん、別物なので、ちょっと冷静になってみなよっていうところ。それって感情こそが論理的じゃんって言ってたんだけど、その感情と外側というものは別物なんだって考えることを、また理性的に捉えてみようみたいなところって、ボクの中ではちょっと、なんかね、なるほどなぁって思ったんです。
 今コメント頂きましたね。欲をなくしましょう。だけど、欲がなくなったらそれって人間なのかと思う。そういう作品があったとしたらつまらない作品かも。そうそう、そうなんますよ。ボクもそんな風に思ってて。で、欲をなくしましょうではないんだってことがなんとなく分かったんますね。それって禅のね、大学で禅思想の授業も、東大の授業受けてるんですけど、禅の考え方もそうなんですよね。無になれとかって、どうせ無にならないんだからっていう、一つのことにこだわるなっていうんじゃなくて、一つのことにむしろずーっと冷静に感じてみるみたいな。そういう様なことなんですよね。だから欲はなくさなくていいんだっていう風なことが言われたときに、ちょっとホッとしたんですよね。だから自分の欲って食欲とか、性欲とか、睡眠欲とか、所有欲とか、自己承認要求欲とかね、色々あると思うんですけど、そういうものもあってもいいんだと。ただそれが叶わなかった時に外側との関係において自分の感情が、ある意味変なぐずぐずととぐろを巻くみたいなことは無くても良いのではないかっていうところで、ふと、こう…分けてみようみたいなところ。それってちょっと面白いなあと思ったんですね。

バラエティ視点とドラマ視点

 そうするとボクがねそのバラエティフィクションみたいな話っていうのは、それは年末に思ったことなので、これはまだ…冒頭に言いましたけど、そんなに詳しくここで喋ろうとはまだ思ってないんですけど、バラエティフィクションって、つまりボクはバラエティ番組をずっと作ってきたものですから──バラエティってね、皆さんもテレビ見てると今もありますけど、ワイプ画面ってあるじゃないですか。小さい小窓。だからこう、ある事象があったものをスタジオにいる誰かがリアクションしているっていう、そのリアクションまで小窓で見て…っていうことで言うと、小窓の中にもう1個視点があるんですよね。だからドラマとバラエティの違いて何か?って思った時に、一番の違いってドラマにワイプはないですよね。再現VTRにはワイプあるじゃないですか。だからたぶんドラマってワイプがないって言う意味なんですけど、バラエティってそれを見ている人も見る、みたいなところで目線が2つに、2つというか多重になるっていうところがたぶんバラエティなんだと思うんだけれども。その自分を客観的というか違う視点から見ている自分みたいなものっていうのをメタ視点って言うか、それをボクは『バラエティ視点』って自分の本でも書いて言ってるんだけど、それと内観と外観は別物なんだと考えるというところって、なんかちょっと繋がったんですね。おおーなるほど、そういうことか!と。うん。そう考えるとつまり自分の欲望がなくなってしまうとそんなに面白い作品が生まれなくなるのではないか?というのは、ちょっとその欲望みたいなものと、外側にある物っていうものを一つの視点でしか捉えてなくて。それってドラマ的な考え方なんだなぁと思った時に、ボクが考えているバラエティーフィクションって、「そのもの自体が面白いかどうかと見ている目線までも加えた上での作品」みたいなようなイメージがちょっとあるんですね。あー、もっと色んな視点っていうか考え方みたいなものもあるんですけど。
なんかそんなことを年末思っていたら、昨日、1月1日にその内観と外観を分けて考えるっていうところと、期せずしてね、ボクの頭の中でというか、ちょっと繋がったって言うか。うん、そうするとなんかね、ちょっと、自分が落ち込まないんじゃないかなというか。怒らないんじゃないかなとか。で、怒らないんじゃないか?落ち込まないんじゃないか?っていうのは、人間味がなくなっちゃうんじゃないか?っていう危惧みたいなものも大丈夫なまま、そんなに怒らないんじゃないか?落ち込まないんじゃ無いか?ってちょっと思えるような気がするというか。そんなことをね、ー感じてみたんますね。
 今コメントで視点の自由度かーって頂きましたけど、そうそうそうそう。うん。で、自分というものを違うワイプ目線で見て見なよっていうのは自分の本でも今までも書いてたんですよね。だから自分に悲しいことがあったらもう自殺したくなっちゃうとか、嬉しいことがあったら天まで舞い上がる気持ちみたいなものを、ちょっと違うバラエティ視点で覗いてみる。自分というVTRをスタジオで見てて、それを松本人志さん、今田耕司さんや、明石家さんまさんがリアクションしているその目線みたいなものをちょっと見てみようみたいなことはよく自分の著作でも言っていたんだけど。そうすると自分が悲しいと思ってたことって実はそんなに悲しくないじゃんとか。なんか少なくともちょっとね、落ち込み度合いが減るのではないか?みたいな事はちょっと言ってたんですね。今までボクの著作を読んで頂いている方はご存知かも知れないけども。それをなんかこう、もうちょっと世界観として内観、自分が中で感じている、見ているものと、外で見ているものというのっていうのが、なんかボクの中で繋がった…うん。で、その繋がったというのはボクの中ではいい意味で、ですね。

ボクのキーワード2022

 だからね、これはもうボク、あるいは皆さんも含めて、これから人生には良いことも悪いこともたくさん起こるんだと思うんですね。あるいはどっちでもない事とかもたくさん起こると思うんですけど。で、起こった時になんかそれで自分のこう気持ちみたいなものが悪くなる・良くなるみたいな事とかをちょっと冷静に考えようっていう、ちょっと冷静に…っていうところで一個落ち着けるっていうことって、なんかなるほどって思ったという言うか。俯瞰というか人生を一つの作品として捉えるってコメント頂きましたけど、そうそうそうそう、で、そういう風に思ってやってみると、例えば自分が「うわーこんな悲しいことがあったじゃん」と思ったとしても、それを再現VTRを作るとすると、金スマでね、その悲しさだけだとちょっと視聴率取れないよねーみたいな(笑)。もっともっと悲しい事あったっていいんじゃないの?とかって、やっぱり思えたりすると、ああ自分の悲しいことなんて大したことないじゃんみたいに思えますよっていうのがボクの中で「人生の中にバラエティ目線を持ってみましょう」って言ってたんだと思うんです。
 うん。だから、今日2022年1月2日、2日目までですけど、ボクなんか今年ね、そんなに落ち込まないでいけるような気がちょっとしてます。まだ2日しか経ってないけど(笑)、そう、なんか、なんかね、仮にそういうことがあったとしても、お!なるほどーと。ちょっと…あ、今なるほどーってボクが言ったら、そのことになるほどーってコメント頂きましたけども(^^)。なんかそういうようにちょっと冷静でいられるんじゃないかなーって、なんとなく思える気がしてきました。うん。だからね、このICUCをずーっと見ている方とかはね、もう今日で90何回目だっけ?忘れちゃった…こういうのって覚えてなきゃダメなんだけど、タイトルに書いてある回数ですけど、そんな元気ない時もよく喋ってるよなーとか思うんですけど、その中でもある意味勇気を振り絞って喋ってたような気もするんだけど、なんかそんなことよりも、なんかもうちょっと落ち着いていられるような気がしますね。その落ち着いてっていうのが、なんか波立たないというよりは、波立ってるんだけど、その波立ってるものに執着しないとか、一喜一憂しないという目線で自分を落ち着かせるっていういう方法なのかなーって、その内観っていうのは…と、ボクは理解しました。うん。だからね、もしこれを見ている方でなんかこう悩みが多いなぁとか…悩みが多いなっていうのはなんかな、何かで悩んでるとか…という方は、その内観と外観的なね、ことを考えてみるとはどうでしょう?というのは今日もボクの言いたいことだし、ボクの多分2022年を生きてく上での結構一つのキーワードなのかなぁなんて思ったりもしました、と。はい。そんなのが今日の内観と外観っていうタイトルでの ICUC知的好奇心向上委員会でございました。

初夢

ちなみに今日1月2日ですけど、初夢ってご覧になりました?初夢ってあの1月1日の夜に見る夢って。昔ね31日からの見た夢なのか?みたいなこととかあって。で、ボク本当にね、色んなことを言ってる人がいるんだけど、要は今年最初に見た夢が初夢じゃんって思うと、見なかったっていう時もあるじゃないですか。てことは今日夜見ても、見た夢は初夢なんじゃ…最初にみた夢が初夢じゃんって思うと初夢なんじゃないかなーなんて思っていますが、そんなことはどうでもいいんですが。
 ボク、昨日見ましたね。今日、今朝、初夢。フェリーに乗ろうとしてるんだけど、友達と。車3台ぐらいでも乗ろうとしてるんだけど、友達の車が…なんかフェリーなんだけどパーキングのタワー駐車場みたいな感じなところをぐるーっと登って行くと、友達2人は先に行ったんだけど、ボクのだけなんか係員の人に止められて。「駐められないです」みたいな。「駐められないって、もうチケット買ってるし、フェリーでちゃうじゃん!」みたいな感じなんだけど、なかなか駐められないんですよ。だけどすったもんだで、夢なんでそんなに覚えてないんですけど、係員の人とすったもんだ話してると、係員の人がなんか違うところに電話して。「…なんとかで、なんとかで…」と交渉とかしてくれて。なんか違う船に乗れるようになった、みたいな。「ありがとうございます!」みたいな。で、違う船に乗るためになんか知らないけどタクシーに乗らなきゃいけなくて。タクシー取るんかい?!と思ってタクシーに乗ったところで夢が覚めたんですね。
 その夢はなんなのか?みたいなことはどうでもいいんですけど。で、そんな夢を見たなーなんて思ってたら、占いね、何か見てたら…夢占いってね、大きい船に乗るっていうのは夢が叶うというかね、なんかそういうののメタファーらしいますよ。うん、あのー、どこに書いてあるかな?「大きな船に乗る夢は大きな挑戦が成功する夢だ」と言われて。へぇー!と思ったんだけど。一瞬なるほど!と思ったんだけど、えーっと…ボクその夢の中でタクシーに乗っただけなんですよね。そう、だから結局船に乗ってないんですけどね。
 「楽屋みたいなところで周りにいじめられる嫌〜な夢見ました」ああ、なるほど。何かのメタファーでございますかね。分かんないけど。ね、このコウキシャウトさんのは。そういうのを見たと。書いていただいてありがとうございます。そ。で、そんな風な夢を見たんですけど、だから自分は乗ってないんですけど、でもそういう風な夢を見たって、なんか寝る前に外観と内観の仏陀の教えみたいな本を読んでいたこととかも影響しているのかなーなんて、ちょっと思いました。だからそういう風に考えていくと、ボクは大きい船に乗れるのではないか?なんかそんなことを思ったと。つまりちょっと新しい概念、バライティフィクションっていうね、ことをちょっと思いつき。年末に。で、内観と外観というのを知り。大きい船に乗ろうと思ってる夢を見た。そうそう、胡蝶の夢ってね、ありますよね。故事、自分が夢…あのー、ちょうちょ!ちょうちょになった夢を見たのか?ちょうちょが自分になった夢をみたのか?ってのはよくわからないですよね、みたいな話がありますけど。なんかそんな夢の話をして今日のICUC知的好奇心向上委員会は終わりにしたいと思います。ま、こんな感じで大した話じゃないかもしれませんがまた今年も続けていこうと思いますのでよろしくお願い申し上げます。失礼いたします。

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文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

2021年8月30日のInstagramより。

何にも解決していないのに、ふとホッとする瞬間ってのがある(勿論、逆もある)。
結局、この世界のあらゆる事象は、良くも悪くも気の持ちようなのかな。
それを良しと捉えるか、悪しと捉えるか
勝ちと捉えるか、価値と捉えるか
愛か、哀か
どう感じても、結局今やれることは限られているのだ。

 文字起こしするのにインスタはよく見るけど、ときどきザーッとスクロールしてみる。で、この電球がすごく気になって見てみるとこんな内容だった。これは不意に生まれた別視点なんだろう。2022年は不意にではなくデフォルトで別視点を持つ。ますます「著者は自分に言い聞かせたいことを書いている」がその通りなんだと思えてくる。頓服のように使うバラエティ視点から、常用になるような。

 外側の環境、状態を自分が分析する=内側に取り込む。そこから感情が生まれる。感情を土台とし、方向を持つことで論理が生まれる。私の物事は感情から始まるんだ。感情から作業が始まる。感情の前にある外側の状況は私の内でない、私がコントロールできないもの。心頭滅却すれば火もまた涼しいかも知れないけど、寒いなら暑さを感じたいし、暑いなら滅却して涼しく思えばいい的な。どちらにしても火の温度は変わらない。

 感情こそ論理的で検索してみると、感情と論理どっちが優先?というハフポストの記事タイトルが。内容を掻い摘むと──論理的思考をしない人が多いと言うけど、そもそもそれほど論理より感情が優先されてるか?という疑問から始まる。自分が論理的だと考える人は世の中を感情的で愚かだと言い、自分が情緒豊かだと思う人は世の中は理屈っぽくて冷たいと言うのではないか?大昔は武力/体力がものを言うフィジカルの時代。それが文武両道になると武力と論理の両方が大事となり、産業革命以降になると農作業などの体力より機械を操れる倫理が大事なロジカルの時代に。そしてこの先は機械の自動化が進むことにより「何がしたいか?」という感情が大事なアートの時代になる。そもそも論理=機械を動かすための前提条件が「こうしたいという感情」であり、そこが分からないとか無かったりすれば論理はなす術がない。しかし自身の感情を捉えることは難しいのであり、さらに他人の感情を捉えることはもっと難しい。──
 どうしたら強くなれるか?どう勉強すれば良いか?フィジカルとロジカルは論理的に状況を整理できるけど、最後に残った感情は一番難しいぞ、と。しかもその感情が基礎にないと論理は働けない。今までは仕事という目的で論理を動かせたけど、今後はその部分が自動化される。感情を観る能力、内観力と外観力とでも言えばいいか?ここが大事になってくるぞ、ということだと理解した。(この記事の下にあるおすすめ記事が「「はい、論破。」はディベートではない」というのが可笑しかった。そうか、「はい、論破。」は論理破綻や論理矛盾というバグ探しゲームなだけなんだ。私にはディベートの意味が捉えきれないのでそれ以上はよく分からないけども。)

 角田さんは一歩二歩早いというのはよく言われることだと思うけど、感情こそ論理は五歩も六歩早かったのかも知れない。風の時代の先取り?いよいよ世間が追いついてくる。そうするとボクも話しやすくなるなーと思うのか?角田さんも人間だから、ああ追いつかれちゃう、どうしよう?なんて思うのか。私だったら、私だったら専売特許じゃないけど、なにか失う気がして心穏やかじゃない様な気がする。気も心も小さい一生。

 角田さんはおそらくずーっと前から内観と外観は耳にしていたはず。分かっていた。でも感情は結果論理的だということとうまく馴染まなかったのか。馴染ませるのではなく、”感情と論理の話”と”内観と外観の話”を重ねて透かして見るような。平面パズルじゃなく立体パズルだったんだーみたいな、なにか今までと違う角度で解釈できる状態になったから、今回納得できたし、朝は気持ち良く起きられたということか。2020年、21年、なんだかずーんと重暗い経験があってこその22年の気持ちよさ。

 欲が無いと作品ができないのでは?から、外へ求めた自己承認欲求が外から満たされるかは別という話になったところで思う。私は欲がないと人は人ではなくなるんじゃないか?と思う。猫を見ててもそう思う。私の内の何かを外で形にしたものが作品だと思うけど、作品とは自己承認欲求なのか?そこがあんまり繋がって来ない。角田さんは作品とは自己承認欲求の形だと認識しているように受け取れたけど、私的には承認されるかどうかは、売れるかどうか?という意味では承認されて欲しいけど、ただ心の内を描きましたということなら、内のものを外で形にしたというところで終わってしまう。繋がらない。──いや、自分で自分の承認、セルフハグではあるかも知れない。承認欲求を満たされなかった場合、つまり作品の評価が散々だった場合の自己防衛として”繋がってこない”だけかも知れない。修行不足。

 ドラマにワイプがない、バラエティにはワイプがある。ワイプという”視点+α”。視点の自由度という意味ではドラマが不自由な気もするけど、ドラマや映画は視点の特等席かも知れない。豊津徳で豊津さんが仰ったこと、先日見たNHK日曜美術館で柳宗悦の解説でも聞いた。
 「ものを見極めるのは瞬時でよい。早い方が寧ろ確かだと言える。まず見ることが肝心である。見る前に知る働きを加えると見る働きは曇ってしまう。そうすると美しさはなかなかその姿を表してくれぬ。」
 ワイプで広く浅く多視点。ワイプなしで狭く深く単視点。やっぱりワイプを使う使わない、どっちにしたいか?の感情が先にあるんだな。ものを見るというのは外からの情報入力、そこで感じるものを内観するのは一瞬。インプットの次がアウトプットだけど、2インプットしても1アウトプットしか出来ないんだ。よく知りたいが為にネタバレ状態でインプットすると、大事な瞬間を逃してるのかも。

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