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ICUC-041(週間035)2020.11.22【見えている景色は窓か、鏡か】

I see, You see! Intellectual Curiosity Update Committee【知的好奇心向上委員会 ICUC】今週もゆったり知的好奇心のアップデート&趣味の動画文字起こしメインのメモ。

今日の推薦図書
『窓あるいは鏡 ネオTV的日常生活批判』 水島久光×西兼志(慶應義塾大学出版会刊)

ICUC#35「見えている景色は窓か、鏡か」
テレビは世界の窓か、あるいは世界の鏡か? そして自分の見えている景色は、窓か、鏡か?
そんなことを喋っています。 もしよかったら、まあ見てみてください!

[CAMPFIRE] ICUC 知的好奇心向上委員会

ICUC note「ICUC知的好奇心向上委員会とは?」

ICUC主宰:角田陽一郎webサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

今日は知的好奇心向上というより気分転換

 おはようございまーす。バラエティプロデューサーの角田陽一郎と申します。知的好奇心向上委員会、Intellectual Curiosity Update Committee の動画でございます。11月22日でございますね。三連休の中日でございますが。私はですね、12月、あと本当に1週間ぐらいになってしまった論文提出期限まで。この(笑) 三連休が最後の、最後の頑張りを見せないといけないなーということで、ずーっと執筆しております。角田陽一郎です。よろしくお願いします。
 なので。本当はね、この動画も今日は無理だと。この前から緊急事態宣言を、コロナの方もそんな感じになっておりますが、コロナじゃなくても自分的には緊急事態宣言を発令してですね、最優先でこの論文をやっておるんですけれども。流石に煮詰まりましてですね。「はぁぁぁ、疲れた…」みたいになりまして。
 どうしようかなーと思ったんだけど。これまた寝ちゃったりとかすると、せっかくこんな良い天気のお昼なんですけどね。こんな良い天気のお昼に寝ちゃったりするとですね、これまた夜になっちゃったりすると、本当に終わらなくなるなーなんて思ったりして。そっか、じゃあ気分転換に動画でも撮ってみるか!みたいな感じで、今喋べっております。
 なので(笑) 今日の動画はですね、知的好奇心向上…というよりは、うふふ、気分転換。これ気分転換になるのか分からないですけどね。喋ることが。喋ることが気分転換になるかどうかは分からないけど、まあ喋ってみようかなーなんて感じなんで、いつもにも増して何の戦略的YouTube動画ではないというか。ただ、だらだらと自分の思ってることを喋ってみようかなーなんて思っておりますと。

論文のことばかり考えてるのが面白くもあり悔しくもあり

 ところがですね。思ってることと言っても、それこそ論文のことばっかりやってるんで、思ってることは論文のことなんですよね。うん、そうか。だから学者ってそのことばっかずっと考えてる生き物なんですね。そうなんじゃないかなーなんて思ってましたけど、自分はほら、プロデューサーという意味で言うと、そう思ってる対象というのを、当然いつも対象のことを考えてるんだけども、対象以外のことも考えなきゃいけないというのがプロデューサーなもので。むしろ対象じゃないものをふらふら考えて、その対象とどうくっつけるか?みたいなことを普段やってるものですから。1つのことをずーっと考えてるというのが面白くもあり、退屈でもあり…。
 退屈じゃないな。悔しい?うん、悔しいってのに近いかな。つまりもっと1つのこと考え続けてれば、もっといい論考が出る、もっと論文が良いものになるんだろうなーなんて思いながらですね、本当に歯軋りしてる感じですね。
 もっと早くからやっておきゃいいんですよね。まあいつも言ってますけど。まあやんないんですよね、ギリギリまでね。テレビマンの性というか。テレビマンでもやる人はやるだろうから、僕的なキャラクターなのかも知れませんけど。まあやらないんですよね、その時が来るまで。まあその時がもう来てるということなんで、やり続けてると言えばやり続けてるんですけど。
 ここに(印刷物を見せながら)自分がこんな感じでやってますみたいな。裏はあれですね(笑) 自分の今度出る日本史の原稿のゲラですね。第一稿なんで(笑) 自分の論考の印刷に使っちゃってますけど。

論文で人生の振り返り/バラエティの矛盾

 「バラエティ番組の制作システムから検証するテレビの演出効果」というタイトルでですね、やってるんですよ。バラエティ番組の制作システムから検証するテレビの演出効果ということなので、研究とも言えるんだけど、僕が25年ぐらいやり続けてきたバラエティ番組のことを検証してるという意味で言うと、すごい仕事の振り返りでもあり、人生の振り返りでもあるんですよね。
 さっきも言いましたけど、1つのことに絞ってという意味で言うと、バラエティ番組という意味では1つのことに絞ってるんだけど。ただバラエティって色々って意味じゃないですか。だから色々のことを1つに絞るって超矛盾したことをやってるんだなーなんてことが、あぁ自分の仕事は矛盾してたんだなーなんてことも分かりつつ、そんなバラエティ番組はこうだ!っていうっことを今あらゆる観点から書いてると言う意味で言うと、あらゆる観点と言う意味ではバラエティなんですよね。ただそれを1つのところにぎゅーっと絞らなきゃいけないっていう、焦点をね。
 これが絞り切れてないと悔しいなーと思うし、時間があれば絞れる気もするんですよね。なんかこう絞れるきっかけというか、方向みたいなものは見えてて。
 ただこれをあと1週間ちょっとで仕上げられるのか?みたいな。仕上げてもほら、誤字脱字とかね(笑) それこそ参考文献作るとかもあるし、図とかも作んなきゃいけないんですけど。図ってパワポとかで作るんですけど。はぁ〜、大変だ(笑) ね。

憧れる細やかな作業/自分でなんでもやるのが研究/研究って楽しい

 テレビプロデューサーって、そういうのってディレクターに任せたりしてたとこがある(笑) ね、ADさんにちょっとやって下さいみたいな風にお願いしてみたいなところがあったりすると、コンセプトだけ提示して、それをぐぐぐっと細かく焦点を合わせて作り物を作るっていうのは、すーごい細やかな作業ですよね。そいういう細やかな作業というものにはすごーく昔から憧れがあって、自分でやりたいなーなんて思いながらも、それを自分でやってると終わらなくなっちゃうのがテレビ。放送日来ちゃうんでね。だからそれを役割を分担して、分担した先でその人々に作ってもらったものを最後ガッチャンコして1つの番組にするみたいなことを、それこそ四半世紀やってたものですから。
 自分で何もかもをやらなきゃいけないっていう研究というのは、面白くもあり、大変でもあり。早くやっておけばよかったな。20代のうちにとかって、今思いますね。だって体力ないですもんね。眠くなっちゃう…、でも20代の時も眠くなってたか(笑) うん、そうそう、これってまた僕がこの歳で言ってる嘆きであるんですけど、これって30年前だって言ってたんだろうなー。大学の受験の時とかね。眠い、どうしよう、終わらない、とか。
 だからそういうことを言いながら死んでいくというか、そういう人生なんでしょうね。すべての人が多かれ少なかれそうなんだろうなーなんて思うんですけど。だから僕この前呟いたんですけどね。えーっと、どこだ?すいませんね、今日はそんなパキパキしてなくて。えーっと、、、

うー、時間が無い。時間が足りない。でも昔から時間など有ったためしが無いのだ。なぜならギリギリにならないとやらない(やれない)から。てことは自分がギリギリやれることはそんな有限なギリギリの時間の中でどこまで行けるか?ってことだけだ。きっと人生なんてのもそんな感じで終わるんだろうな。

 って。今の気持ちの、昨日か?一昨日か?呟いてんのは。そんな気持ちだったってことですかね〜って感じでございます。
 でもね。研究って楽しいっすね。今回の研究は修士論文なんで、やっぱり僕は研究者の端くれになるための論文なんだなってことが、修士論文書けばもう大丈夫なのかなと思ったけど。いや、書いてて分かりましたね。研究の端緒。この歳で端緒に就くっていうのも悪くないかなって一方で思いますね。だからこの論文書いて、この論文の中に様々な深堀りしたい論点はなんとなく見えたので、それを来年とか矢継ぎ早に論文発表したいなとか、むしろ思っちゃいますね。
 またそんな夢みたいなこと言ってますけど。そんなことをやってる時間があるのか?みたいなのはさておき。なんかそんな野望が見える論文には少なくともしたいなーなんて思っておりますね。
 実際、今書いてるわけだから、中身みたいなものはね、論文なんでこの動画で言ってもしょうがないだけど。まあ強いて言うなら動画で動画について。だってテレビ番組だって動画なわけですからね。動画について検証しているということを動画でこんなことを検証してますよって動画で喋ってるっていうのは、なかなか面白い行為だなーなんて思いますね。メタ視点というか。どんどん視点がたくさん乗っていくみたいなものは、なんか面白いなーとは思いますね。

海街と東京の世間話/価値観が変わる/喋るって大事

 あとはね。本当に先週からこの場所で撮影してますけども。この場所に来て1週間くらい経ったのか?10日間か、経って。海の街にいるんですけども。良い場所ですね。
 昨日もずっと煮詰まっちゃうとあれなんで夕方、海まで散歩しに行ってきたんですけどね。夕日が綺麗で、富士山が見えて、なんか素晴らしかったなーなんて思いながら。ぶらぶらいつもと違う道を歩いてたら、焙煎珈琲、珈琲豆のお店を発見して。そうそう、珈琲豆が欲しいなーなんて思ってたんですよね。そうしたら珈琲豆のお店を発見して嬉しいなーなんて思いつつ。
 東京だったら普通に買ってただけなんですけど「今度こちらに引っ越してきたんですよ」みたいな世間話をしちゃったりして。なんかそういう人との交流みたいなものが、東京では意図的にしてなかったなーみたいなものが出来てる。しようかな?という自分の気構え自体が変わるのが面白いですね。
 昨日は資源ゴミの日だったんですけど、資源ゴミ出してて、近所の方にどうもどうもみたいな。移動してきたので引越し祝いみたいなものをその方のご家族に渡してて。そしたらその方が「わざわざご丁寧に」みたいなことを喋っていただいて。ちょっとこう世間話するみたいな。「あれ?東京じゃ世間話してなかったぞ!」みたいな。
 それこそね、本に囲まれてた、以前まで撮ってたあそこは西麻布だったんですけど、そのマンションは比較的セレブ的な人がたくさんいたんですよね。僕はセレブじゃないんですけどね。だからゴミ捨て場とか駐車場とかで結構「はぁ〜、金持ってるだろうな〜。」みたいな人と出会うんですけど。僕は一応、それこそ業界人で、おはようございますみたいなこは、会ったらおはようございますと言っとけみたいなことを習ったものですから、どんな人と会っても「どうも〜」ってこうやる(会釈する)んですけど。なんかね、リアクションが返ってこない人が結構いて。あぁそっか、金持ちってのは挨拶しないんだなって。嫌味的に言ってますけど、本当にそうなんだ、社会との接点みたいなものをうざがってる感じの「オハヨウゴザイマス」なんですよね。もし(挨拶)したとしてもね。あるいは(挨拶)しない。自分たちはセレブなんで下々の者とは交流したくないんですよみたいな空気がすごい出てる感じがあって。ちょっと気持ち悪いなーなんて思ったんですけどね。だって別に、だから醤油の貸し借りしようって言ってるわけじゃないじゃないですか。でもそんなもんなんだなーなんて思ったんですけどね。
 この前、普通に散歩してて、すごい坂で僕もうはぁはぁ言ってたら、向こうからはぁはぁ言ってるお婆ちゃんが来て(笑) つい、すれ違う時に「いやぁ、この坂つらいですね〜。」って声かけちゃうみたいなね。そんなこと東京じゃしたことないよな〜と思うと、ちょっと自分の中での価値観みたいなものが違ってくるのが面白いなーなんて思いつつ。
 これ今PCで撮ってて、自分の顔を見てるんですけど、さっきまでどよ〜んとしてましたけど、こうやって喋ってたらだんだん喋りのキレも良くなってきたし、顔もちょっと…良い感じって、自分で良い感じって言うのもなんですけど、自分的に良い感じになってきたなーなんて思いながらね。あ〜、やっぱり喋るっていうのは結構大事なんだななんてことを思ったりもします。

窓あるいは鏡

 あとね。そうそう、だから紹介する本なんてないんですよ。だって別に論文で使ってる、論文に検討してる本とかたくさんあるんですけどね。マクルーハンのメディア論とか。そういうのも読んだりとか。ボードリヤールのシュミラークルとシミュレーションとか。色々やってるんですけど。

ボードリヤール by Wikipedia
シミュラークルとシミュレーション (叢書・ウニベルシタス) ジャン ボードリヤール

うぅ〜ん…、ない!(笑) ないんだけど、なんか紹介した方がいいかなーなんて思いながら。
 結局、その論文のひとつの観点として面白いなーと思ったコレ、メディア論の本なんですけど。「窓あるいは鏡」っていうタイトルの本なんですね。窓あるいは鏡(笑) 窓あるいは鏡って面白いですよね、窓か?鏡か?みたいな。
 これ、どういうことかと言うと。テレビは窓なのか?鏡なのか?ってことなんですよね。で、僕らで言うとバラエティ番組ってワイプ画面ってあるじゃないですか。小窓みたいなのありますよね、リアクションワイプ。あれ、窓なんですよね。だからテレビというものは世間の景色を覗く窓なのか?あるいは見てる人がその中で自分を見つける鏡なのか?みたいなところが、まさに議論のひとつの展開としてあって。これって僕がバラエティ番組を検証するに当たって窓なのか鏡なのかっていうところはすごく面白いなって時に、僕が思うバラエティ番組ってのは、これこれこいういう窓であり、鏡である。あるいは違う。みたいなことがひとつの論文の柱になってるんですね。
 この窓か鏡かというのはですね、この本の論文でウンベルト・エーコ…、ウンベルト・エーコって「薔薇の名前」とかをね、作家でもある有名人ですが。イタリアの記号学者でもあって。その方が言ってて。ウンベルト・エーコすげぇなって思うんですけど。

ウンベルト・エーコ by Wikipedia
薔薇の名前〈上〉 ウンベルト エーコ
薔薇の名前〈下〉 ウンベルト エーコ

メディア=媒介と透明性/リメディア

 失われた透明性という論文が書いてあって。そう、透明性とは何か?みたいなね。透明性。う〜ん、メディアってのは媒介でしょ。テレビとかね、色んなものがメディアで、言葉もメディアだとか言われてるんですけど。神主だってメディアですからね、神との媒介者っていう意味で言うとね。
 そうなんですけど、メディアというのは透明である必要があるのか?ないのか?みたいなことがあったときに、例えばテレビの中で演劇を見るみたいなことで言うと。演劇というものがそもそもあるストーリーを演じると言うことでメディアとして表出してて、それを今度テレビで紹介するということは、それをまたさらに”リ”メディアしてる。リメディアしたときに、例えば舞台だったら、これテレビでやってるんですよということが分かった方がいいのか?あるいはテレビなんてことを全く気にせず、舞台にのめり込んじゃった!没入しちゃいました!みたいなことの方がメディアとして価値なのか?みたいなね。
 そういうこと考えると、メディア、リメディアみたいな。媒介、再媒介みたいなものってすごく面白いなーってなったときに、その再媒介にはさっき言ったリメディアシー、だから無媒介、つまり透明=その媒介してるものが気づかれない、気づかないものになっていくというパターンと、ハイパーメディア=過剰媒介。これはもう媒介されてるんですよってことを過剰にする。
 今で言うとコロナ禍で会議というのがリモート会議になってるけども、リモート会議になったことで、リモートと感じさせないように会議をやった方がいいよね、人と会ってる感じがそのまま出したいよねというのが無媒介性であり、これはリモートなんだから普通の会議より特別にこういうことやらなきゃいけないよねって思うことが過剰媒介、ハイパーメディアシー。というような考え方だというようなことなんですよ、要は。

バラエティという窓と小さな鏡

 そうなったときに、バラエティ番組というのは今どうなっているのか?ってことを…論文に書けたらいいなぁ〜、ということをやっております。
 なんでバラエティ番組をやってるのかと言うと、それをやったことでこのバラエティ番組というのが、僕が人生の半分くらいかけてやってきたことで、この世界のある意味では窓だったわけですよね。この世界というのをどう切り取って番組にするか?みたいなこと。窓って、窓枠で切り取るじゃないですか。だからどう言う風に切り取ればいいのか?みたいなことをやってきたのがテレビプロデューサーでもあり、その切り取られたテレビと、世界を切り取った窓であるにもかかわらず、その窓の中にはさらに小窓のリアクションワイプがあるわけですね(笑) 笑う関根勤さんとか、明石家さんまさんとか、笑う中居正広さんとか。
 これって窓の中に窓があるんだっけ?いや、実は窓じゃないんじゃないの?鏡なんじゃないの?というようなこととかが分かると面白いなーなんて思ってて。うん。つまり窓と鏡のことばっか考えてるというか。

コミュニケーションという鏡とアドバイス

 でもこのメディアというのが窓か鏡かって話って。メディアっていうのはさっき言葉自体もメディアですって話をしたときに、人とのコミュニケーションっていうのは、友人がいて、自分がいて、その人とコミュニケーションする。言葉を使うというのは、言葉というものを通して自分の考えてることを相手に伝えるということは、言葉が媒介なわけだから、コミュニケーションって本質的に媒介を通さないと出来ないわけですよね。
 とすると、そのコミュニケーションで例えば相手に「君はこうした方がいいよ」って仮に僕がアドバイスしてたとして、それが窓なのか鏡なのかって言う考え方も出来ますよね。つまり、相手に、相手というものを自分が見て、相手はこうした方がいいよってアドバイスしてたとしても、それは結果的にそのアドバイスというのは合わせ鏡のように自分に言ってることなんじゃないか?みたいな。よくありますよね、こうやってした方がいいんじゃないですか?とか、Twitterとかで書いてるんだけど、それって実は自分のために言ってるというかね。だからあらゆる行為って他人のためにやってるようで、実は自分のためにやってると、言えるのじゃないかなーなんて思ったりもする。
 それこそ月曜日にね、元同僚だった、正確に言うと後輩ですけども、アナウンサーと飯を久しぶりに食ってですね。その方のお悩みを聞くみたいな会だったんですよ。久しぶりですね、会ったの。5、6年ぶりぐらい。僕が局にいた頃はお仕事したこともありますけど。で、その人にこういうアドバイスをしてるわけですよ。アドバイスというかどうですか?って言われたから「こうです」ってくらいで、別に僕なんかのアドバイスなんか役に立つとか立たないとかは置いといてですけど。
 そしたらね、その時に思ったに、「これこうすべきですよ」とか「こうした方がいいと僕は思いますね。別にそうしろと言ってるわけじゃなくて。」みたいな話をしながらも、それって結局、僕の人生について言ってるんだよな。つまり僕がこう思ったってことは、その人のためのことを思って言ってるんだけど。その人が別に僕の言ったことを受け取らない、あるいは僕の言ったことなんか参考にしなくたって全然いいんだけど、少なくとも僕が発してるという発し者としては、送り手としては送ってるという意味では、僕がやりたいようにやってるんだよなーなんて思ったりすると、テレビ番組を作ったりとか、本を書いたりすることと、人の相談に乗ることって、実は大差ないじゃんみたいな。それが鏡ってことなんだろうなーなんて思ったりするわけです。うん。

話す僕とメディアの卑怯な手

 喋ってるとつらつらいけるんだけどな。これを文章にするとすごい難しいんだよな。難しいというかね、分かるんです。言葉でこう言う風に喋ると、僕がよく使ってる卑怯な手なんですけど。ちょっと論理の飛躍みたいなものを言葉の勢いで喋って、早口で誤魔化してるところがすごくあって。だから時々喧嘩になったりすると、僕の論理矛盾みたいなものをするいどく突く相手とかだと「それ角田さんの言ってること間違ってますよね!」とか言われると、うぅ〜(焦)ってなっちゃったりする時があるのは、僕は論理の飛躍を無意識、半ば無意識、半ば意識的にして、はぐらかしてるんですよね。
 そのはぐらかしてるのって、実は…、そっか!そのこと論文に書けるな!
 うん、はぐらかしてるのって、テレビの技法でもあるんですよね。そこ突き詰めて演出していくとそういう風な説明だとちょっと間違ってるよなーと思いながら、例えば間違ってることがあったとして「…と、言われてるのではないか?」ってナレーションを入れるだけで、間違ってるかも知れないけど言えちゃうみたいなところってあるじゃないですか。だって「言われてるのではないか?」って言ってるわけだから、これは正しいですと言ってるわけではないという意味では嘘ついてないですよね。
 でもそれってすごいダウトなことかも知れないじゃないですか。でもあらゆるテレビのそういうバラエティも、ワイドショーも「…と、言うことじゃないでしょうか?」と言って、専門家でもない方が、専門家だってそれが分かってるかどうかは分からないけどね、そういう風に言っちゃうのが、まぁメディアじゃないですか。だからそのメディア的なところにずっといたものですから、こういう風に言っちゃった方がいいよねみたいなところを、多分無意識の内にやっちゃってるんですね。

論文に効かない卑怯な手/非ロジカル→ロジカル戦

 ところが。これを文章にするとなると、そういう論理の飛躍は文章の中ではやっぱり成立しないんですね。断片になっちゃったりすると、その断片と断片がどう繋がってるか?ってところに、やっぱりロジカルな、論理的な接続がないと文章にはならないし。まだそれがエッセイ的なものだったら…、それでもエッセイだとしてもエッセイ的にロジカルな繋がりがあるとは思うんだけどね、普通の映像よりね。
 それが論文みたいなものになると、もう際立つ。むしろそれがないと論文じゃない。これに結構苦慮してるということなのかなーなんて自分的には思いますね。うん、苦慮してる。苦慮してるなー。ふふふふ。
 そう、だからこの動画なんてね、思ったことをわぁわぁわぁわぁ喋ってて、なんか回帰的というか、Aってことを話して、Bってことを話して、Cってことを話して、Dってことを話して、そのABCDは全然関係ないようなことを話してるんだけど、Dの次にEまで行ったら、Eがいつの間にかAっぽい話になってて、おお!戻った!みたいなことって僕は好きだし、実際この動画は努めてそういうことをやってる気もするんですけど。それってじゃあ意識してやってるか?というと実は全然意識してやってないで、そいういう風に自分の思考をわぁーって広げてると、広げた中での繋がるものと繋がるものをピピピピッとこう、繋がった時の気持ちよさっていうのが好きで、たぶん喋ったりとかしてるんでしょうね。
 これがだからロジカルかどうかとと言うとめちゃくちゃ非ロジカルというか。この非ロジカルなものをどうロジカルに表現するか?みたいなことが、たぶん今後の僕のテーマでもあり、その最大のテーマを今(笑) 戦ってるのがこの論文を書いてるみたいなことかなーなんて思ったりもします。

パレオTV(窓) と ネオTV(鏡)

 はい。なので「窓あるいは鏡」かどうかっていう。でもこの本紹介してもこれ絶版なんじゃなかったっけ。売ってるんだっけな。分かんないです。何年の本だろ?あーでも2008年の本。でももう無いかも知れないですね。もっと窓と鏡みたいなメディア論みたいなものってのは、面白いなーって思って。メディア論っていうのはひとつマスコミという世間でいうメディア論じゃない、もうちょっとこう文化資源学的なメディア論みたいなものが立ち上げられたりすると、面白いなーなんて思っておりますね。
 あとはあれですね。それこそウンベルト・エーコは窓と鏡ってのを言葉で言うとパレオTVとネオTVっていう、2つの言葉で。パレオってね、僕も分からなかったんですけど、昔みたいな。ネオは新しいってのはなんとなく分かるじゃ無いですか。だから以前のテレビと新しいテレビみたいなことでパレオTVとネオTVみたいなね、言い方をしていて。
 パレオTVというのは窓だったと。それがいつの間にか自分の合わせ鏡、ネオTV化してるのが今のテレビなんだということを1980年代に提唱してるんですよね。その1980年代ってのはまさにテレビが、芸人で言うとただ笑わせるから笑わせてるということを笑わせる」みたいな。笑わせてるということを笑わせる」というのは、つまり「笑わせられなかったという稚拙さを笑う」みたいな風に、1個目線が乗っかってるようになったっていう。その時期とすごい日本では重なっていて。
 それってそういうのを見て、バラエティ番組作りたいなーなんて思ってテレビ局に入って、僕らがテレビ番組作ってて、その中でご長寿早押しクイズ作ったりとか、金スマ波瀾万丈作ったりとかしてる中で、さんまさんのワイプ画面を入れて、中居さんのワイプ画面を入れてというのと、すごい構造的に似てるなーと思った時に、実は日本のバラエティ番組というのはすごいネオTVに符号してるなと。
 でもそれってね、イタリアのウンベルト・エーコが言ってるという意味ではヨーロッパでも当然ネオTVという概念があるんだけど。実はそのネオTVという概念が日本のバラエティ番組とは、実は様相が異なってるのではないかな?ということが、今回の論文じゃ無理だな(笑) だってイタリアの番組研究してないからね。だからヨーロッパの番組研究、そのために来年以降はしようかななんて思うと、早くコロナなんか無くなっちゃって、ヨーロッパとかに行けるようになったら面白いなーなんて思うんですけど。

研究で見える世界(窓) と 僕の人生(鏡)

 そうして、それを研究してみると、なんかちょっと見えてくるものがあって。何が見えてくるというか、2つの意味で。この世界が窓として見えてくると言う意味と、僕の人生が見えてくると言う意味で言うと鏡!おおー!まとまった!!(笑) つまり僕の研究自体が鏡なのか窓なのか、窓なのか鏡なのか、とかいう意味ですかね。
 そういう意味で言うと今回のはパレオ論文ですね。まずは窓。窓ということで世界を僕はどう見ている?バラエティ番組というのはどういう風に見てるか?という窓をまずはやって、それが上手く行って、来年以降ね、鏡であるものを研究できると僕の人生が投影されるのではないかなーなんて思っております。
 でもそう考えるとそれをやる前に自分が本何冊も出してますけど。12冊?出してますけど…、そっか。それはある意味、今まで出した本って全部鏡なんだよな。だから実は窓をやってなかったんですね、私。まあ世界史の本とかは若干、世界史のことを書いてると言う意味では若干窓なんだけど。窓を僕はこう見てますという意味で言うと、すんごい鏡のように書いてる。あえてなんですけどね、客観的に書くと言うよりは自分がこう見ているということを書き続けてきたわけだから、今苦労してるのは鏡ばっか見てた僕がどう窓から世界を見るか?ということに苦心しているんだなーなんてことが分かりましたということが、この海の街で分かりました。ということでございます。
 はい!えー…。さ、やんなくちゃね!ということで、知的好奇心向上委員会11月22日バージョンでございました。今度、来週はまだぎりぎりですけど、論文終わってたらいいなぁ。分かんない…、はい、頑張りまーす。よろしくお願いしまーす。


文字起こしメモ&感想

 憧れの細やかな作業って、つまり作り込みってことかな。人は作り込まれてるものって好きだよねと、今週Twitterのどこかで聞いたけど。
 どうして作り込まれてるものが好きなのか?それは、作り込み=気が遠くなる作業に、何かしらストーリーを感じるんじゃないかな?なんて思ったり。それは作った人のことだったり、作る人になりきってみる自分という妄想だったり。
 だからそれを「つまらないね」と言ってしまうということは、想像できない、もしくは想像できなくても経験で補えるだけの経験もないんですと宣言してるようなことになるんだな。なるほど。

 アドバイスは自分の合わせ鏡、逆に言えば合わせ鏡であるということは、お相手に対して誠意を持ってお相手したとうことになる。自分が思う「一番いい」を相手に見せてるわけだから。逆に相手を恨んでたとしたら。いいと思うも何も、失敗するようなことを言うとか、嘘をつくとか、生返事することになる。
 ということは、自分が悩んでいる、煮詰まってる、頭がぐるぐるしてる時に喋ることは大事。角田さんのこの動画の場合、画面に映った自分と話す、まさに自分の合わせ鏡だけど、相手がいても良い。ただし真剣に向き合える相手。そうすれば相手=鏡の中に欲しいものが映ってるはずだね。

 鏡に見るのは自分とすると、挨拶するかしないかも出発点は自分。過去、既に角田さんががっかりするようなことがあったから、セレブって社会との接点を持とうとしないんだなと思ったのかも知れないけど。習ったから挨拶した角田さんと、セレブだろうとなんだろうとフラットな気持ちで、挨拶したいから挨拶した角田さんとでは、反応が違ったのかも…知れない。
 でも、きっとその人は疲れてたと思う。憧れとか色々あって西麻布のマンションで暮らしてたけど、実は背伸びしすぎてるのかも知れない。見栄を張るって疲れるからね。東京の勝手なイメージ(笑) 下町だとガラッと変わるけど。

 気分転換にもなるけど、どちらかと言うと「論文のぐるぐる部分の整理」回だったのかな(笑) 知的好奇心の向上になるかどうかは、だってそれは見てる私が、見た動画と合わせ鏡することだから。向上したか?得られたか?は、視聴者次第では?
 喋ったものが文字=文章になった、この中途半端な文字起こしというものが、何かお役に立ったら幸い。ちょっとだけどお急ぎ便な月曜日、翌日投稿。作り込まれてない中途半端もいいよ、作り込む楽しみが残ってるから。

ICUCは
一人一人の知的好奇心がくすぐられるような
さまざまな「ヒト・モノ・コト」を
皆で持ち寄って
話して聞いて調べて楽しんで
自分の知的好奇心をアップデートしちゃおう
って集まりです。
(by 角田さん)
[CAMPFIRE]知的好奇心向上委員会 ICUC
ICUC note

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