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ICUC-112_2022.6.5【楽しいこととつらいことは同時に起こる】ICUC知的好奇心向上委員会】

【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee !

角田陽一郎112「楽しいこととつらいことは同時に起こる」ICUC知的好奇心向上委員会

おはようございます。6月5日です。
「楽しいことと同時におこるつらいことも、受け入れなければならないものです」グランマ・モーゼス

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

喋ることなし 止める理由もなし

 おはようございます。知的好奇心向上委員会111回目でございます。(※112回目)バラエティプロデューサー角田陽一郎でございます。今週もちょっと日曜の夕方にライブでやってみようかなーなんて思っております。
 えーっと、知的好奇心向上委員会という名前でやっててですね、この動画が知的好奇心の向上に役立ってるかっていう問題点みたいなものはもう通り越して、僕が単純に最近思っていること…みたいなことを話しているただのアーカイブになっているーんふふ、という現状ではあります。なのでもうそれでいいかなーなんて思いながらやってるわけですけども。はい、なんで、またちょっとお付き合い頂ければと思うんだけど。
 と言いながらね。今週何喋ろうかなーなんて思った時に、うん、喋ることないなーと思ったんですよ。うん、ない。じゃ止めりゃいいじゃないかって話ですよね?だってまた、また話が戻るけど、つまりこれが何のためにやってるんだっていう目的論で言うと、自分の考えがあって、その記録だって言ってんだったら、その考えがあった方がいいけど、別に(笑)話すことないよな〜なんて思った時に、果たしてやる必要があるのか?なんて事を思いながら。でもね、止める理由もないしみたいなことで、まあ…何話そうかなぁーなんて思ってたわけです。で、この自分の書斎のね、デスクの前に座って、さて何を話そう?そんなに話すことないよなぁなんて思いながら。うん、でもね、話すことないよなーって思ってる時って、実は話すことあったりして。つまり話したい気持ちはあるんだけど、それを…なんて言うんでしょうね、んふふ!今コメントで「話すことが無い回キター!」んっふっふっふ!ありがとうございます。いやいや、話すこと無い回と、話したいことがあるけど公で話せない場合みたいなものが2種類ありますよね。で、今回で言うとどちらかで言うと後者。うん、なんか今の自分の思いみたいなものって、まあちょっとぐにゅぐにゅしたものがあって。これを話すと関係者が見てたら関係者がまた勘違いするよなーなんて思ったりして。うん、ひとえに僕の中での問題点なので。という意味で、そういう意味で言うと話すこと無いって言うのは、話せないにもちょっと近いのかなーなんて思ったりします。そうすると話せないのにアーカイブしてて意味があるのか?みたいな、またグルグルぐるぐる回ってくるから、ホントどうしようかなーなんて思ってたわけです。うん、で、思って。

グランマ・モーゼスの言葉

 で、グランマ・モーゼス展っていうのに数ヶ月前に行って。で、グランマ・モーゼスさんっていう、もう亡くなっちゃいましたけどお婆ちゃんのアーティストがいるわけです。で、そのアーティストの展覧会に行ってきた時に、そのお婆ちゃんの生き方にすごい感動したので、私はですね、その時日めくりカレンダーを買ったんですよ。日めくりカレンダーを。こういうやつ。で、それを買って…えーと、だからいつもこのスタジオにいるわけじゃ無いので、基本はこういう感じで日めくりカレンダーなんだけどこのデスクに着いたらまず日めくりカレンダーをめくると。今日は6月5日なんで6月5日をまず…だからとりあえず収録する前に6月5日をこう、ちょっと、2…3…4…5とやったら、こういうグランマ・モーゼスさんの素晴らしい絵とともにですね、コメントが書いてあったわけです。それは何なのかなーと思って読んでみると、「楽しいことと同時におこるつらいことも、受け入れなければならないものです。」と、書いてあって。ほぉー!と思ったわけです。うん。で、そう思った上で。自分がね、いつも”おはようございますSNS”ってやってんですけど。もう夕方になったのに”おはようございます”呟いてないなーなんて思って、つまり言いたいこと無いから──あ、みなさんどうもこんにちは。見て頂いてありがとうございます──あの、なんでしょう、呟いてないけど、呟くことないなーなんて思ってたんですけど、グランマ・モーゼスさんのこの言葉を今日5日の日に頂いた言葉ってのはなんか僕への啓示なのかなーなんて思ったりして。で、先ほど呟いたんです。

おはようございます。6月5日です。
「楽しいことと同時におこるつらいことも、受け入れなければならないものです」グランマ・モーゼス

 で、それを書いた時に僕が思ったことは、

楽しいこととつらいことは、むしろ同時に起こる気がする。どちらが因でどちらが果かはその都度変わるけど。つまり起こった物事の両面に一喜一憂してるだけなんだ。

 っていう風につぶやいたんですね。あー、なるほどって思ったんです。いや、なるほどって思ったから呟いたんですけど(笑) だから今日はちょっとその話をしてみようかなーと思っています。

陰と陽 何か起こさなければ何も起こらない

 つまり。なんか悪いことが起こる…嫌じゃないですか。だから悪いことを防ごうとしますよね?で、一方で良いこと起こらないかなーなんて思って、良いこと起こると嬉しいじゃないですか。つまり良いことが起こることを人は望んで、悪いことはなるべく忌避するというか、起こらない方がいいなと思うのが皆んなそれぞれなんだと思うんですけど。なんか、何かをやると良いことと悪いことって同時に起こってるなーってちょっとだけ僕思ってたんです、もともと。もともと思ってたんだけど、それをあえて占いで言えば、陰陽師じゃないけど陰陽。陰と陽。対極ってね、韓国の国旗じゃないですけど陰が陽に変わるって言う勾玉みたいな格好ありますよね。陰
と陽って変化してるよなーって言うと、こっち側がすごい陽で、こっち側が陰なんだけど、そこをグラデーションの様に陽が増えて陰が減ってるみたいな、こう…びゅぅ〜んって、ありますよね?びゅぅ〜んって。うん、あの、それ、びゅぅ〜んって言ったってしょうがないですもんね、ちょっと写真パッと出るかな。出たらいいな。出るかな?出るかなぁ?…これこれ、ありました!これね。☯️で、これって陰と陽みたいな話って、なるほどなーってちょっと思ったんですけど。
 つまりこっち側にあるときは良い面が見えてて、ところがこう…同じものなんだけどこっち側に来ると悪い面になるんだなっていう風に思った時に、「あ、これ1つで1個なんだな」ていう。つまり陰陽道みたいなものがずーっと言ってる事みたいな事と、グランマ・モーゼスが言ってる事とかと、なんか最近あった僕が何かをしでかす…何かを行い始めると何かしでかしちゃうことみたいな。マイナス面も起こるなーと思った時に、結局やらなきゃ起こってなかったのになーと思ったりするわけです。うん。とすると、何かが起こると一方のサイドでは、ライトサイドでは良い事があり、一方のダークサイドでは悪いことが起こる。だけど起こさないと何も起こんないんだよなーなんて思った時に、まあ生きるってことは何かを行ってることなわけだから、要は何かが起こすと言うか、生きてると結果良いことも悪いことも起こるんだなーみたいな。
 すいません、当たり前のこと言ってますかね?(笑) 当たり前のこと言ってます?うん。…当たり前のことを言ってるんだと思うんだけど、なんかそういう風に思うと、なんか今週、なんか色んなことが起こって。色んなことを起こしてて。起こすとなんかこうちょっと揉め事とかトラブルみたいなものがポンポンポンポンッて起こったりして。トラブル嫌だなーとか思いながらやってたんですけど。これ起こしたから起こってるって意味で言うと、もぅしょーがねーんだよなーなんて、ちょっとこう気づいたりもするわけです。うん。

生まれた瞬間に内包されている

 で、この太極図ってちょうど中沢新一さんのね、アースダイバーって本の3冊目かな?神社編ってのを読んでたんですけど。そこでたまたま出てきてたんですけど。この白い方だけみると勾玉ですよね?で、この勾玉のデザインって、これって子宮の中の赤ちゃん…だからほら、魚類とか、爬虫類とかの胎児がまだ受精してまだ成長する前みたいなのってこういう形してますよね?だから勾玉って縄文時代ぐらいからあるらしいんですけど、実は縄文時代、弥生…、縄文時代っもうちょっとね、口のところにギザギザがあって本当に魚類とか両生類みたいな感じの胎児の格好してるんですよ。それが弥生時代になるとどんどん洗練されて今の勾玉みたいな形になるんですけど。「あ、勾玉ってつまり生命みたいなものをイメージしてるんだなー」なんてことをその本を見て知った時に、「あ、その生命の誕生した瞬間にもうすでにこうなってて、で、反対のこっち側もある…」どっちが陰か陽かってのもあると思うけど、逆にすれば逆なわけだから、それはそれで…なんて言うんだろう…、自分が生を受けてこの胎児として産まれて、瞬間にもうこの陰と陽みたいな、陰陽というか、そういうものがまさに内包されてるんだな人生に…っていう風に。
 つまり自分が大人になって、大人なってと言うか…今週、仕事やっててちょっと揉め事があってとか、そういう事となんかこう──。じゃあそういう何かが起こると良いことと悪いことが起こるってのは一体いつから自分の中では起こってるのかなと思ったら、つまりこの時(笑) 自分の素である精子と卵子が合体してこう言うものが育まれた時にすでにもう出来て…というか生じているんだなーなんて思うわけです。
 とすると。悪いこと嫌だなーと思うんだけど、悪いことを無くす方法って本質的には無いし。強い言うなら死しかないですよね、悪いこと止めるの。ほぉー、そういうことなのかー!なんて事をですね、思いました。これ解決策とか…だから解決するってことが無いんだなって言うか。まあ強いて言うと何も起こさない。でも何も起こさないってことは突き詰めると自分というものの生命を潰やすしか方法ないじゃんか…みたいな事をね、なんかすごい感じたわけです。うん。
 だからなんて言うんだろう?自分がこう…なんかプラス、陽なものであることと。自分がネガティブな陰であるもの…、まあネガティブと言うと陰が悪いことなのかっていう風に思っちゃうんだけど、まあ出っぱってて、へっこんでて、みたいなことな様な気がしてて。で、結局それって自分が出っぱってると多分相手側はへっこんでるからガチャッて合体するわけですよねぇ?それがそのセックス、性交みたいな意味以上にと言うか。精神的な関係とか、ビジネスとかの関係も含めてと言うか。とすると、相手がズッと出てくると自分はシュッとへっこむわけで、そのへっこむって言うのは逃げてるとも言えるし、そういうテンションで言うと下がってるとも言えるし。まあそいういうものが出たり引っ込んだり、出たり引っ込んだりみたいな事が結局この陰陽のこういう増えて減って、増えて減ってみたいなことなのかなーなんて思ったりするわけです。はい。
 今ね、どんどんコメント頂いて。「太極図ですね」って。そうですね、太極図ですよね。「回転しています。螺旋。」螺旋なんですよね。回転してるわけですよ。「コインの反対側は本人の都合で見たり見なかったりするけど、常に両方見る目を持つことが精進するってことかな。」そうそうそうそう、そうなのかなーなんて思うと、今ね、彩さんがそういう風に言って頂いて。でも両方見るって言うけど実際辛い方見るのちょっと辛いですよね。うん、僕辛い方見ないって訳にはいかないんだなっていう。つまり楽しいことみたいなことが起こるとその裏面ってあるよなみたいな。でもそれってねぇ、簡単に部活とかで言うと勝利のためには努力しなければいけないみたいな事かも知れないしね。なんて言うんでしょう、楽しいと思ってたくさん美味しいもの食べちゃうと太っちゃうよなーみたいな(笑) 意味とか。そういう陰と我みたいなものが逆な時もりますよね。だから辛いことをやったことで果という成果が現れるという時もあるし、逆にこんな楽しいことをしてしまったんで結果こんな悪いことが起こるみたいな事ってあったり。因果ってそいういうことなんだなーなんて事をねぇ、素晴らしく、思った訳です。

小さい揉め事しか起こらない程度のことしかやってない

 うん。なんかそれってね、まあ当たり前の事なのかなーなんて思いながら。うん…なんかね、うん、だからここに、ちょうど2日前に書いてるんですけど。これ金曜日かな?

今日は揉め事が多いな。そういう日はちょうど雨が降ってきたり、パーキングが満車だったり、メールが行き違たり、小銭が足りなかったり、誤字脱字だったり、小さな歯車がいちいち噛み合わなくてうまくいかなかったりする。そんな些細なことほどボディブローのようにじわじわ精神を蝕んでくるな。

そして揉め事のいちいちは、そんなことでこんなことが的な、いまいち尺が合わないというか寸法が合わない。それほどのことならこれほどのことが的な事なら、まだある種のリカバリへのやりがいも、それへの反省も後悔も湧き起こるんだけど。なんとなく徒労感と孤立感しか生まれない。不幸だ。寝よう。

 (微笑)って書いてるんですけど。これどういう事かと言うと。じゃあ起こったことがすーごい楽しかったら──だから、なんて言うんでしょう、絶対値ってこと、つまり。すごい楽しいことがわーってあるんだけど、辛いことがちょっとって…そんなに無いなーみたいな。なんかすごい楽しいことやるとそれだけ辛いよなーみたいなことが起こったりするなーなんて思った時に、なんかその2、3日前とか起こったことってもう些細な些細な小さい話なんですよ。うん、だからこの小さい話で嫌だなーと思ってるってことは、つまり起こそうとしてる、あるいはそれが楽しさの大きさもそんなに大きくない事なんじゃないかなーなんて思った時に、なんかこう、成果が大きいけりゃいいってもんじゃないんだけど、なんか起こすことが自分の中で小さくなってて、で、それはだから色々ありますよ?年齢とかもあるし、自分のやれる範囲みたいなものもどんどん小さくなってるみたいな事かも知れないし。コトブキツカサと話してる寿司特というのがそんなに視聴数伸びないなぁみたいな(笑) いやそれはちょっと違うか、例が(笑) ちょっと今言いたいから言ってみただけですけど(^^) そういう様な事が起こった時に、なんかちょっとした揉め事も、ちょっとした揉め事じゃんって時に、ちょっとした揉め事だからよかったね〜ってことよりも、実は”ちょっとした揉め事ぐらいしか起こらない”ちょっとしたことしかやってないんじゃないかな?自分…みたいな。
 そこってだからさっき書いたことで言うとボディブローの様に効いてくるなって言ったのって、自分のその存在のちっぽけさみたいなものへもまた行き着くよなーみたいなね。うん。なんでこんな小ちゃい揉め事で自分はイライラなのか、あくせくしてるのか、意気消沈してるのか、落ち込んでんのか、孤独感を感じてるのかみたいな。この小さいことのリカバリーも自分でやるのか…みたいな。まあでもそうだよな、自分が蒔いた種だし。なんかそういう様な事って、それがね、すげぇ大きい事とかね、すげぇ大物と仕事をやってるとかね、なんかすごいビッグプロジェクトでね、あちゃー…みたいな事なら、やばい!やばい!とかって焦る気もするし。うん、なんかそういう様な思いになっちゃったんですよね。だから本当に2日前とかね、ホント大した事じゃない話で、大した感じじゃなくちょっと相手に詰められたりすると──あゝ、大した事じゃないんだよなぁ。それやってない…それが上手くいってないって事は悪い事だし。もしかしたら反省しなきゃいけないしと思うんだけど、大した事じゃないじゃんなぁーみたいな事で反省するパワーもないなーみたいに思うと、そもそもやってる事がそんなに大した事じゃないからじゃんか!みたいな。大した事じゃない事を自分がやってる、あるいは大した事じゃない今年かやれない自分みたいなものに「はぁぁ」みたいなね。そんな事を感じてんのかなーなんて思いました。うん。

陽一郎の「陽」と「一」

 だから…なんかね、前も言ったかも知れないけど、角田陽一郎って名前で陽っていう、陰と陽で言うと、さっきの対極で言うと陽の方の名前が入ってるわけですよ。でもなんか自分の陽一郎って、角田陽一郎って画数で言うとやっぱり陰な部分があるんですって。だからなんか自分の中にむしろ太陽の陽、陽一郎の陽が入ってる分、なんか自分のダークサイドというか陰みたいなものをすごい意識してしまうのかなーなんて思ったりするわけですね。
 ちなみにね、落合陽一さん。筑波大学のね、よくテレビとか出ている。魔術師、魔法使いの落合陽一さんと話した時に、落合陽一さんがね、落合信彦さんの息子さんでございますから、落合信彦さんがね、落合陽一さんの名前をつける時に陽一って、だから角田陽一郎の陽一と同じ字ですよね、太陽の陽に一。陽一ってね、全宇宙、全世界って意味なんですって。「ええ?どう言うことですか?」と言ったら、太陽の陽は陽子の陽。で、陽一の一はイチじゃなくてマイナスなんですって。だから陽子と電子という。だからあらゆる物質の全てって意味で陽と陰を、プラスとマイナスを入れて陽一なんですってっていう話を落合さんから聞いた時に、ああ、自分はなんか陽一郎って陽だし一番だし、すごいプラスしてて、だから…なんて言うんでしょうね、そのプラスみたいなもののプレッシャーみたいなものって子供の頃から考えてたんじゃないかなーなんて思ったりしてたんですけど。実は自分の名前にマイナスという意味の一が入ってるんだなーみたいなのは、ちょっと救われたみたいなことがあってね。うん。なんかそれってね、YO-KINGさんってね、あのミュージシャンの。YO-KINGさんもね、陽一ですよね。YO-KINGさんもなんかちょっとうちの番組出てきた時に言ってました。自分はなんかもう陽って書いてるから明るくしなきゃいけないんだよなーみたいな。だからYO-KINGって、陽のKINGでYO-KINGって名前にしたんだみたいな話…名前にしたと言うかそいういう様なニックネームでやられてるんだって話をしたこと、聞いた事があって。だからやっぱりそういう名前みたいなものってのはなんかすごい自分が引っ張られるんだろうな、無意識になーなんて思ったりもしております。
 うん。で、なんかね、そんな事を思って。自分の中でさあ、じゃあ、どうする?じゃあどうする??って…よくタクシーで竹野内豊さんが最近宣伝やってるアレ、あれタクシー乗ってるとよく見てたりして(笑) 「さあ、じゃあどうする?」って思った時に。自分としてはもう嫌なことだからなるべく起こさないってパターンもありますよね。一方でどうせ起こるんだからやることだけ、やりたいだけやっちゃおうぜ!みたいな考え方もありますよね。その辺がたぶん自分の中ですごいブレてると言うか見えてないと言うか。そういう様な感覚なのかなーなんて思ったりもします、こと最近のことで言うと。うん。なんか、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃって思ってんだけど、やってると当然反転する面が当然出てきてね。で、その反転するものみたいなもののプレッシャー、ストレス、ミスみたいなものに対する…なんかリカバリーって、またリカバリーって反転させなきゃいけない訳だから、これってすごい労力、精神力いるよなーなんて思ってるんだけど。それが小さいこと…まあ小さきゃ…大きゃいいのかって話じゃないんですけどね。小さいから嫌だというより徒労感を感じるってことなんですかね。それすごく思ったりしますね。だからそもそも小さいことに満足すりゃいいじゃんみたいな事なのかも知れないですね。それは分かんないです。小さい大きいみたいな事を気にしてる事が──うーん、どうなんでしょうね。良いのかな?悪いのかな?分かんないですけどね。なんかそんなことを思ったりします。

月影

 今ぱっと思い出したんですけど、月影って言葉あるじゃないですか、月影。月影って、影って、影って影だと思われてると思うんですけど、辞書引くと出てくるんですけど、影って光って意味があるんですよね。だって池に映った月影って言うけど、月の影じゃなくて月の光を…池に映った月の光を見て月影っていいますよね。つまり影って言ってるけど影って実は光って意味もあるんですって。これってすごい面白いなーなんて、僕どこかで知った…どこかで読んだんだっけなぁ?なんか大学の先生に聞いたのか忘れちゃ言いましたけど。影って、影って意味と光って意味があるんだっていう。それってすごい面白いなと思った時に、月影ってダークサイドなんだろうか?みたいな。あるいはライトサイドなんだろうか?みたいなこととかをすごく思ったりしてました。うん。それはやっぱり僕が月みたいなものに憧れてしまうと言うか、なんかこう気になるのって、自分の中に陽っていう言葉があるからなのかなーなんて思ったりしてね。
 で、その影ってさ、シャドウって字もありますけど、陰、山陰の陰、つまり陰陽、陰陽道の陰って書いてもカゲって読むじゃないですか。だから月影って言うと月陰って書くと実は自分の陽という、陽一郎という名前の反転したものなんだなーなんてことをね、なんか感じたりして。なんかそんな事を感じてました。
 まあそんな事を思ってたのはあれですね。今週の水曜日に、毎週水曜日関西行ってるんですけど、今週の水曜日ちょっと京都まで行って薪能、能、お能の能を薪を点けながら、灯しながら平安神宮でね、夜行われる薪能に行ってきた事が…。行ってきたんですけど。なんかそんなものを見てる時にね、ちょうどね、花筐っていう演目の中でね、月影って言葉が出てきたんですよね。まさにそういう暗くなっていく中で薪がぽぅっと光ってね、そこで能を、夢幻の世界というか。有限?有限から夢幻か…観阿弥、世阿弥でね。うん、だから有限から夢幻の世界を見てる時にね、月影みたいな話を見た時に、実はその能みたいなものってのはそういう意味で言うと演劇という意味ではフィクションなんだけど。それを今見てるという意味では見てるこのリアルな現世、世界で言うと、実はこの現実の世界があるから夢幻の、夢も幻と書いた夢幻の世界もあるんだよなー、見られるんだよなーなんて思いながらね、見てた時に、ちょうど言葉で月影ってのが出てきたから、そっかぁ、なんか影ってのは影でもあり光でもあるんだなーって意味と、夢幻っていうものは実は夢幻な上にリアルな世界、現実世界があるから、現実世界に自分が生きているから今日平安神宮で薪能というのを見られるんだよなーなんて思ったりすると…、うん。なんか何言ってるか分かんないかも知れないけど、つまりその両方あるから…んふっ!(笑) 自分ってのは存在してるんだなーってことを、なんかすごい感じた訳ですね。それって翻ればフィクションとノンフィクションみたいなもので言うと、うん、だからそのノンフィクション、リアル世界の中でフィクションみたいなものを体験してるけど、実は自分が存在しなければ、つまり自分がフィクションの中の人間、存在だったとしたならば、実はそのフィクションってのはリアル社会、リアル世界だと思ってる訳で。それが存在してるかどうかは別なんだけど。結果存在してないじゃん!みたいなことであるとすると、なんかそのフィクションを楽しむとも言えるし、現実世界で辛い事が起こるみたいなことって、それ自体も表裏一体なんじゃないかなーなんてことをね、たぶん夢幻能を見ながら、能の舞を見ながらね。また平安神宮で見てたんで、なんかこうそういう、なんて言うんでしょうね、独特の世界の中で感じてたりしたのかも知れないですね。
 うん。だからそんな夢幻能みたいな夢幻、ファンタジーみたいなことを感じながら実際のリアル世界ではなんかちょっと小ちゃな揉め事みたいなね。言った言わないとかね。なんかこう連絡なかった、あったとかね。誤字脱字とかね。なんかそんな様な事がちょこちょこ、ちょこちょこ、起こったりして。うーん、なんか、だからそれを、まあ面白いって思えればいいんでしょうね。ただまあね、実際この、そういう辛いと言うかハプニングみたいなことが起こるとそれをリカバリーしなきゃいけないですからね。それみたいなものってのはすごいこう…うん、ストレスになるよなーなんて思ったりしてね。うん、なんかそんな事を考えた次第なわけです。

徒然草

 はい。なんか今日まったく話すことないなーなんて思いながら。なんか、実はね、話す事なんてこういう感じ出てくるのかなーなんて思ったりもしております。うん。あのー自分でね、Kindleでダイレクト出版で今あの角田陽一郎「随想集」っていうのを1〜9まで去年の年末から出して、先月9まで行ってとりあえず完結したのですけども。実は6月4日?3日?に今度はですね、角田陽一郎「徒然草」っていうのを出版しました。はい。随想集はまあ…随想(笑) 随想ってエッセイなんですけどね。徒然草もエッセイなんですけど。随想中の方はね、メルマガで絵画文章をリライトしてあげてるものなんですけども、徒然草の方はね、まさにnoteとかで書いてる文章を再編集して書籍化しました。noteって言うかそもそも今noteで徒然草書いてるんですけど、noteをやってたピースオブケイクって会社が、元々cakesっていう執筆をするサイトだったんですよね。それがなんか8月でしたっけ?になんか閉じちゃうって言ってましたけど。その中で最初の1〜11までは──だから徒然草なので段って付けましたけど、1段から11段まではケイクスで有料で書いてて。12段からはnoteで自分のnoteで書いてるんですけど。その1〜11までを今回は角田陽一郎「徒然草」という名前でKindleに入れたので。なんかちょっと見ていただけるとね、読んで頂けると嬉しいなーなんて思っております。

 でもまあ読まなくてもいいですけどね!んっふっふっふっふ!いや、読んでほしいです。読んで頂けた方が自分としては嬉しいけど。せっかく書いたからね。うん。ただ…うん、むしろ読んでくれた方が嬉しいけど、ここまで、今だから20何分?28分喋ってますけど、この今のコメントを聞くまで、むしろ聞いて頂いてるということ自体がもうすでに読んでいただいてるくらいのパワーを使っていただいてると思ってるんで。僕ごときにと言うかね。それはもう非常に、非常に感謝しております。うん。なんか結局、まあ無理くりまとめる訳じゃないけど、楽しいことも、辛いことも起こる。だから何か起こすと何かそういう風な気持ちになるんだってことがもうデフォルトであるとして。じゃあその中で、じゃあ自分というのが存在して、何か起こした時にリアクションして頂ける、それを見て頂ける、読んで頂ける、買って頂けるみたいなことってのは、さっきの太極で言うと結局押したり出たりみたいなね。押したり引っ込めたりみたいな事のリアクションみたいな意味で言うと、まさにインタラクティブなんだろうなーなんて思うと、結局自分が起こしてる事がね、それが微々たるもの、微細なもの、些細な事であったとしても、それをやっているであるならば、それにリアクションして頂けるってのは、かけがえのない嬉しさなんじゃないかなって事を…うん、なんか結局…うん、もう、自分のアーカイブなんですよーとか強気で言ってたりするんだけど、やっぱり見て頂けたりするのは嬉しい事なんだなーなんて事をすごい感じたりもします。
 ああ、最後にコメントでね、MARIAさん「じゃあもうすぐ良いことが起こりますね」起こるといいですね。まあ良い事が起こるとだから今度また悪い事が起こるんじゃないかなーみたいな事を(笑)思ってしまうみたいなこと。だからそんな良い事が起こらないで平々凡々と。…いや、それじゃあまた小さい事で起こるぞみたいな、ああもうグルグル回っておりますが。まあそのグルグル回るのがスパイラル状であって、それがボルテックス、渦なのではないかみたいな。いつも僕が言っていることに結局落ち着いたという事で。今週の知的好奇心向上委員会を終わりにしたいと思います。また来週よろしくお願いします。

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文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 翌日6月6日。いつも通り朝ご飯を食べながら西原宏夫さんのnoteを読むと、昨日の角田さんの話の続きが書いてあった。

 小林正観 著『生きる大事死ぬ大事』(イースト・プレス)の「第3章 全てを大事にすれば、全てが幸せ──さまざまな人生」の中の「オセロゲーム●今日が幸せなら、人生の全てが幸せ」の部分について紹介されている。良いこと、悪いことはその事自体は良いか悪いかだけじゃなく、過去から今まで繋がっているもので、いま良いと思えば過去は連動して良いに変わる──
 救われた。後悔したことはたくさんあって二度と見たく無いけど、あの過去がない私は存在しないし、あの過去がない私はどんな私か想像出来ない。出来事は良くも悪くも経験でしかなくて、もし今あの経験がない私だったら…なんて事はない、今から同等の経験をして、それでまたたくさん後悔するんだろうと思う。いつもそんな事を思ってたけど、最近は二度と体験したくないあの時の、あの嫌な人が言ってた事が、あれもこれも正しいと思うことがたくさんある。それは嫌なことだったけど経験していて良かったと思う反面、良かったと思うと彼らに負けた気がして、彼らが自分たちの非に都合よくいい面もあったでしょと言う気がして腹立たしかった。腹立たしいのはその通りだけど、私が事を起こしたからいい経験だと言えるようになったなら、多少腹の虫も納得してくれる。

生きる大事・死ぬ大事 小林正観 著 イースト・プレスの紹介には

『「なぜ生きるか」「どう生きるか」「なぜ生命を与えられたのか」を考えるとき、その対極に位置する概念、「死」というものを考えてみたら、より把握しやすいのではないでしょうか。この本では、「死」を避けて通らず、正面から見つめることで、「生きる」ことの意味を考えてみたいと思いました。(「はじめに」より)』

 とある。対極から考えてみる。陰陽のようでもあるし、角田さんがよくやるその言葉の英訳を見てみることにも似ている。

 何かをやると良いことと悪いことが同時に起きる。いつか、何の話か忘れたけど、ICUCで一緒だったヒロさんが言ってくれた。「それは彩さんが動いた証拠なんですよ」と。「動かなかったら何も起こらないけど、動くと悪いことも起こるから、進んでるってことだよ。」って。
 良いも悪いも私がそう思う、そう感じるだけであって、動けば動いただけの”物事が起こる”だけ。そもそも起こるという言い方もちょっとおかしい。物事を動かしたのは自分だ。自分で動かしたくせに何かが不随意的に起こったと言うのは変だ。予想外については私の責任じゃないと言ってる様でもあるし、悟ってないから目が悪い様にも思える。

 些細な些細な小さい話の方がじわじわ効く。リカバリーに徒労感を感じてしまう。そこで翌々日6月7日の西原さんのnoteに徒労感の原因が書いてある。

 嫌なことが小さい、例えば-1なら、良いことは+1。最高、幸せは+10だとすると、いくら嫌な事をリカバリーしてゼロにしたって幸せにはならない。-1+1=0 だったものが、0+1=1でしかないとある。小さいことほどマイナスの方が目立つのは当然だったんだ。

 明と暗、暗だけの場って簡単に作れる。両手を綺麗に合わせれば手のひらの内は暗だけになる。でも明だけの場を作るのは大変。四方八方に光源がいるし、どれか1つ強い光源があると影が出来やすくなる。物事の基本は暗で、物事を動かして明を作っていくしかないのかも知れない。
 影と陰の違いで検索したら、影・陰の語源は陽炎、鏡と同じ「光」だと。影・陰には光と、暗さと、浮き上がった像という意味があり、影は光によって出来る形で、陰は光が当たらない暗くて目立たない場所。影の光によって出来る形の方が月影とか火影とのこと。印影も押して浮かび上がった形だ。
 「いんえい」の漢字変換をしてると陰映が出てきて、これは「お互いのかげが映り合うこと。互いに美しくはえること。曇ったり、晴れたりすること。かげになったり輝いたりすること。」なのだそう。光なのか影なのか分からないなと「かげが映り合う」で検索してみると、夏目漱石の夢十夜に「緑の松と朱塗りの門が互いに照りあって見事に見える。」という文が例にだされていた。プレバトというテレビ番組に出演されてる俳句の夏井先生がよく「思いを飛ばす」と仰ってたけど、これは光と影を飛ばしたあとの表現なんだなと思った。

 陽一郎の反転したものが月陰。名前の反転なんて考えた事がない。彩は…色は光を反射して現れるものだから、まず光が必要だと思った事はある。光源は自ら作るか他力本願にするか二択になるけど、光源がなければ無のままだ。陽の光以外で自ら発光するものって蛍とかの生き物、火とかあるけど、結局太陽がずば抜けてデカくて、たった一つである。その他はみんな陰だ。

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