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ICUC-048_2021.2.21【世界のすべてのゆるしをボクに】

I see, You see! Intellectual Curiosity Update Committee【知的好奇心向上委員会 ICUC】今週ものんびり知的好奇心のアップデート&趣味の動画文字起こしメインのメモ。

今日のオススメ本
『英詩のわかり方』阿部公彦(研究社刊)

昨日、海の近くの公園を歩きながら、青空に漂っている鳶を見てたら、この世界の全てをゆるそうと、ふと想ったのでした。(2021年2月21日)
角田陽一郎48「世界のすべてのゆるしをボクに」
ICUC知的好奇心向上委員会

ICUC主宰:角田陽一郎webサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

僕の頭の何割かは悩みでできている

 どうもー、ICUC知的好奇心向上委員会でございます。バラエティプロデューサー角田陽一郎でございます。今日は2月21日、まもなく21日が終わるんですけど。大体これ去年の3月くらいから週末の土日のどっちかに撮って、基本的に日曜日に流すってことをやりながら、今日も日曜日終わっちゃうので急いで撮らなきゃと思いながら収録しております。…でもね、急いで撮らなきゃと思って収録しておりますって言ってるんですけど、なんでそもそも急いで撮ってるのかなーとか、なんで収録してるのかなーなんて思ったりもしますね。それこそね、そんなに視聴数行ってるわけじゃないし、別に止めても止めなくても…とかってちょっと思ったりもするんですけど。まあ、続けたからやろうかなってくらいの感じでやっておりますので(笑) 見ている方はありがとうございます。
 今日なに話そうかなーなんて思ってですね。んー、なんて言うんでしょうね、辛い時どうするか?みたいな話にしようかなーなんてちょっと思っております。今僕が辛いのか?というと、んー、辛いこともあるし、辛くないこともあるってのが普段の皆さんも含めて人生だと思うんだけど。なんかこう楽しいこととかがあっても辛いこととか悲しいこととかがあると、何でそういうことがあるんだろうなと思ったりしますよね?それって僕どこかの文章でも書いたことあるんですけど、なんかこう悩みみたいなものがあって、このICUCでも言ったのかな?その悩みみたいなものが解消されるといいなーと思うんだけど、解消されると次の悩みって襲ってくるじゃないですか。だから結局、自分の頭の中の何割かは悩みというもので出来てるんだろうなーなんて思うわけです。とすると、今ここにある悩みを解決することって、そんなに意味がない…というと意味があるけど、そんなに意味がないんじゃないかなーなんてちょっと思ったりもするんですよね。
 それをやることが本当はいいなと思うけど、それをやることにこだわってると、悩んでる自分に悩むみたいなね(笑) どんどんそういう負のスパイラルになるじゃないですか。だからそういうのってどうすればいいのかなーなんて思ったりもするわけです。そんなん感じで僕は基本的にはTwitterとかFacebookとかも不満げなことは書くけども、基本は良いことしか書かないつもりなので、良いことが起こってるのは事実なんだけど、その裏で良いことじゃないことも起こって…起こってないか。起こってないんだけど、なんかこうちょっとふつふつとする、鬱々とするものとかはあるじゃないですか。

ゆるす感覚

 でね、そんな風に思ってる時に…土曜日?昨日?か、ここは海の近くなので、──海の近くと言っても歩いて15分くらいなんですけど──、なんか最近ちょっと本当に体を鍛えるまでいかないけど、体を動かさないとどんどん…やれ腰が痛いだ、肩が痛いだみたいなのがどんどん増えてるんで、ホントに、まず単純に筋力をつけようと思ってね、走ってみようかなと思って、ランニングをしたんです。ランニングっていっても徒歩くらいの速さなんですけど。徒歩…のようなランニングを海の方までしてたわけですね。海まで行って、海にある海浜公園みたいなところがすごい気持ちいいので、そこをぐるぐる何周か周ってたんですよ。で周ってるうちにですね、これがランナーズハイって言ったらランナーズハイなんですけど、でも…歩くぐらいの速度だから、そもそもランナーズハイになるほどの負荷を与えてないような気がするんだけど。なんか歩いてたらですね、海が見え、青空があり、鳶がぷかぷか浮いてるんですよ、風がちょっと強かったんですけど、風の中でも鳶はこう、浮いてるんですよね…空に。ぷかぷかと。
 それを見てるときにですね、なんか悩んでることとか、気になることとかがね、”ふっ”て消えたんですよ。消えたのは、よく気持ちいい風景をみたらパッと消えるみたいなことってあるんですけど、ふっと消えたときにですね、なんかもう全てをゆるしたいって思ったんですよね、ちょっと。
 だから当然この不安に思うとかちょっと嫌だなと思うことって、相手がいることだったり、他者がいることじゃないですか。そういうものに対してなんか「なんでなんだよ」とかって思いもあるし「なんで僕のことを分かってくれないんだよ」って思うこともあるし「なんでそんなことやるんだよ」とか、様々なね。他者ってのは組織だったりするときもあるし、もしかしたら社会ってときもあるし、個人ってときもあるんですけどなにかこう問題があったときに、自分側に責任があるときもあるんだけど、他者にも責任を感じてるときがあるなーなんて思ったときに、苛立ちみたいなものを感じたりとかね。あるいは悲しさを感じたりみたいなことなのかなーと思ったときに、その青空と鳶を見てたらですね、ああ、なんかそういうもの自体をゆるそう。ゆるせるなーって。ちょっと思ったんですよ。
 うん、ゆるしというやつですか。そう思ったときに、ね、よく聖書とかだと、僕ね、そんな全然、宗教家でもないからあれなんだけど。「神にゆるしを求めるのです」みたいな表現ってあるじゃないですか。あれって自分が罪をしでかしたときにゆるしを求めるならまだ分かるんですよ。悪いことしてすいませんでしたって。なんか他人に苛立ちを覚えた時とかもゆるしを求めなさいって言ってる意味がですね、やっぱりちょっと分かんないんですね。僕はキリスト者じゃないからかも知れないし。だって他者が悪いんじゃんってやっぱり思っちゃってるところがあるんだと思うんですよ。それが昨日走ってるときに…歩いてるときにですけど、歩いてるぐらいの速さで走ってるときに、海と青空と鳶を見てたらですね、「あ。ゆるすってこういうことなんだな。」って感覚にちょっとなったんですね。
 他者が、仮にですよ?もう1:99くらいの比率で他者に非があったとしても、それをゆるすと思うことが結果的に気持ちがすーっとなる。で、実際1:99じゃないじゃないですか。大体物事の良い悪いなんて四分六ぐらい(笑) 実は半々くらいなんだけど、自分が自分の方を正しいと思ってることの方が多いとすると、実は1:99で他者が悪いんだよと思ってることは、本当は幻想なんですよね。他者だってそう思ってるしというか。だからどっちもどっちなんですよ、結局。と思ったときに、そのゆるすというのは、そのどっちもどっちなんだよなってことに気づくってことなんだなってことに、ちょっとね、意味が分かった気がしたんです。
 これがキリスト者の方に言わせたら間違った解釈なのかも知れないし、これを仏教的に言えば悟ると(笑) 言うのかも知れないんだけども。なんか仮に僕に非があったことはゆるして欲しい、ゆるしを求めるしね、神にね。神?神って言うとまた妖しくなるんだけどね…うん、ある物に。ある事に。なんだけど、仮に他者がそういう風なことがあったとしても、ゆるすということっていうのは結果的にですね、そう思うと、ゆるした方の自分が気持ち良くなると思ったときに「ああ、ゆるせばいいんだ!」っていう風に思ったんですね。

置かれた環境を受け入れる

 これは仏教的に言うと悟りなんですかね?キリスト教的に言うとゆるしなんですかね?よく分からないんですけど。なんかね、それを宗教的体験と言えるかどうかも分からないんだけど、それってさらに分析するとですね、自分はTBSテレビに居て、ある意味サラリーマンをして、嫌なことも良いことも、良いことも嫌なことも、糾える縄の如しの如く、禍福は…みたいな感じで、色々こう繰り返して来たんだけども。
 そういうのに嫌気が差してフリーになり、フリーになって分かったこともある。やっぱり皆さんの感謝で生きてるみたいな意味で言うと、縁と恩みたいなものがすごい大事だみたいなことは、すごい感じるわけですね。それはもう「運の技術」って本でも書いたし、好きなことをやって生きていくだけの…生きていくための提案って、うん??「好きなことだけやって生きていくという提案」っていう本にも書いたし、「天才になる方法」にも書いたし。あらゆることに、そういう僕の中での考え方、縁と恩というのはすごい大事なんだなーと思ったときに、逆に言うと仇みたいなね。縁と恩じゃない。だから恩を感じる人には縁を感じるし、恩で返さなきゃいけないなと思うけど、逆に敵とか仇になった人とは、自分が縁とか恩とかないんだよなーと思って。
 まあ、本当は仕返しもしたいしって、ちょっと思ってるかも知れないし、まあ仕返しまでしなくても無関心でいようとか思ってたんだと思うんです。それがこう、なんかね、ゆるしっていうのは、その敵とか仇とか、そういうものもゆるせちゃうんだなっていう。ゆるす方が結果、自分的に気持ちいいんだなって思うことができるんだなーっていうことが分かったって言うのは、縁と恩がない人にもゆるしということをすることで、縁と恩ができるんだなっていう(笑) ことが感じられたんですよね。
 大丈夫ですかね?今回宗教的ですかね?うーん、宗教的なのかな?元々宗教的な人間なのかも知れないんだけど、ただそれを宗教として認識してないだけなのかなーなんてことを思ったりとかね、するわけです。だからそれで昨日の午前中にそういう風に海まで走ってて、ぐるぐる周りながら、うん、もう、すべてをゆるして行けるような気がしたというか。分かんないですよ?なんかファミレスで、ファーストフードで、なんか混んでて、水持ってきて下さいってときにちょっとイラッとするとかね、そういう小さい話みたいなものとかもあるかも知れないし、そうじゃないかも知れないしみたいな…ことかも知れないですけどね。
 ただそんなことでイライラしてるみたいなものとかもあるけども、でもまあ、イライラしなくてもいいやーみたいなこととかは、何となくこの海の街に来て思ってたんだけども、なんかもっとそれ以上に、あらゆることをゆるすということは、実は結果的に自分の中でのより…自我というか、自己というかが生きるんだなってことがなんかちょっと、ちょっとだけ、分かった気がしたんですよね。
 で、次は怒ってたりしてね、次の日ね、スタッフにね(笑) とか。こんなの聞いてないよ!とか言ってる可能性もあるんだけども、だけどもそうなったとしても…うん、僕は他者をゆるそうかなーなんてちょっと思ってると言う。実際分からないですよ。泥棒とかに「ふざけんなよ!損害賠償だよ!」とか思うし、なんか騙されたりしたら絶対ゆるせない!って思うのかなーとか思うんだけども。分かんないです。
 ここからはもう空想だけど、そう言う風に根拠なくゆるしてると、そういうようなことが起こらないんじゃないかなと、ちょっと思ったりとかしたりして。なんかね、これって自分で決める・決めないで言うと、なんかこうその自然の流れというか、自分の置かれた環境にあって、今回のコロナ禍もそうだと思うんですけど、なんかこう襲ってきた物を昔は抵抗するみたいなところだったところを、なんかもう受け入れるしかないよなっていう風に思ったって言うことは、ある意味このICUCではずーっと言ってるんだと思うんですね。そうすると受け入れるって言うことはどんなことがあってもゆるすしかないんだよなって思うとすると、どんなことがあってもゆるすしかないんだよなってネガティブなことより、いやいや!ゆるします!みたいな(笑) ポジティブな方がどうせゆるすんだった気持ちいいんだよなって思ったってことかも知れないですね。分かんないや。だんだん話してれば話してるほど、どんどん胡散臭い話になってくるような気がしますけどね。まあ、そんなことを思いました。

3回目の合格通知

 あと今週ではですね、東大の大学院の試験が先週あったんですけども。口頭試問っていうのがね、あって。面白かったって先週言ったかな。うん、先週はちょうどね、京都でこの動画を撮影しておりましたが。で、今週結果が出て、一応合格しておりまして。だから普通の大学、大学院で修士、博士っていう、3回目の合格通知で。また数年ね、東大にお邪魔しようかなーなんて思ってるんですけど。
 そのときにね、その指導教官との色々話して、今後どういう風に研究進めますか?みたいな話とかしてるときに、なんかやっぱり色々面白い、今まで見てなかったことがあるなーなんて思ったりするんですね。それって、なんかね、世間なんかどうでもいいやと思いながら、世間のことをやっぱりこう、自分は…、世間ってなんだって思ったときに、自分も存在している、世間の一部じゃないですか。そう思ったときに、当然齟齬があったりね、不快なこととかがあったりすると、そういうこともゆるすと考えた方が、結果的に楽しいんだよなーって思うことと、なんか僕が博士で学問をやろうと思ってることとがすごいリンクされてるんだよなーってことを感じたりもするわけですね。
 で、Facebookとかでね、Twitterにも書きましたど、大学院合格しましたってFacebookに書いたら、みんなからいいねって頂いて。それとか昔だったらああ、いいね頂いたなとか、まあ嬉しいか嬉しくないかって言ったら嬉しいけども、まあそういうSNSの繋がりもどうかなーとか思ってたけど、なんか今は普通に、ちょっとピュアに嬉しいなーって。人がそういう風にコミュニケーションを取るということがね。だから僕の中で人とのコミュニケーションというのは所詮面倒臭いなーっていう思いとか、人のいいところもあるけど、嫌なところもあって、嫌だなーなんて思うところがあるみたいなことはこのICUCでもよく言ってますけども。そんなことも踏まえた上で、でもやっぱりいいものなんだなーって思ったりするのって、うん、なんかちょっと面白いなーって思ったりもします。

教養を突き詰めると宗教味がでる

 あとはね、そうそう。麻生川静男さんというリベラルアーツ研究家の方と、また。僕が尊敬している方と色々お話ししたりしてね。たまたまドイツ語の、ドイツ語ですよ?のエンサイクロペディアがあるので、角田さんにあげますって言われたんで、取りに伺ったんですけど。ドイツ語読めないんですけどね、僕ね。読めないんだけどまあ頂けるなら貰おうかなーと思って。まあ結局それを口実に麻生川先生と話すと面白いかなーなんて思って。で、僕の日本史を読みましたとか、僕の論文を読みましたみたいなことで、感想を。厳しくも暖かい言葉とかね、ここは良いですというのと、ここは良くないですねみたいなことも頂いたりとかしたりね。
 麻生川先生はどちらかと言うと宗教的な物をある意味全然否定されてるんだけど、この前の著作ではその否定されているスタンスがすごい守備一貫していて、その守備一貫さがむしろ宗教じゃないですかって(笑) つっこんだりしたりしてね。それはそれで、そしたら同じようなこと言ってましたね。つまり〇〇教みたいなものを信奉してるかというとそうでもないけど、今自分が考えてることを宗教と言われれば宗教だなって思ったって言う意味でいうと、すごい学問とかに、教養とかみたいなものを突き詰めていくと宗教性みたいなものが出てくるんだよなーってことに、たぶん、麻生川先生は思ってて、僕もそう思ってるんだなーってこととかね。
 それが火曜日かな。

週刊 寿司特/月刊 豊津徳/背負ったことをゆるす

 木曜日にはコトブキツカサとやってる寿司特というYouTube番組がこの mireva channel に置いてありますけども、それもね、色々あって来週から毎週やろうかなみたいな。だから週刊・寿司特になりましょうみたいな。まあ、何でなったかは見ていただければ。あの回面白いと思うんで見ていただきたいなーとは思うんだけど。そう言う話になって。
 翌日の金曜日にはね、豊津徳という山本豊津さんという東京画廊のオーナーさんと「デザインとアート」の違いって話をして。久々に豊津さんと話したんだけど、これもすごい面白い話が出来てね。デザインとアートの違いは何なんだ?みたいな話になったときに、結局、アートというのは自分が背負うんだという。デザインというのは広告とかじゃないですか。そうするとクライアントから発注を受けて作るという意味で言うと、その作った物のクオリティって背負わないんですよね、作ったデザインナー、クリエイターは。ところがアートというのは自分が発案した物を自分が作るので、その良し悪しは全部自分背負うんだという、そこがアートとデザインの違いなんだよねみたいな話になって、すごい面白かったんですけど。
 つまりゆるすみたいな話と無理矢理こじつけちゃえばね、自分が背負ってないものはゆるさなくてもいいんだなーって思ったんですね。ところが自分が背負ってると、生きてることとか、作ったものとかを背負ってると、それに対する責任は全部自分にあるわけだから、やっぱり他者をゆるして行かないとやっていけないんだなって思ったというかね。だから僕がテレビとかを作ってた時は、今もそういう番組とかをやってることはありますけど、基本的にはクライアントさんがいてね、そのために作ってるという意味で言うと、背負ってないんですよね。だからそこが違うんだなーって思ったって言うことを分からせて頂いてね。

アシスタントプロデューサーを雇う

 さらに4月以降ひと企画、ふた企画、さん企画ぐらい、新しいことが増えそうなので。流石に自分ではちょっと回らないかなーなんて思って、久しぶりに自分のアシスタントプロデューサー的な人を雇ってみようかなーなんて思って。面接みたいなのしてね。じゃあやりましょう!みたくなったのがちょうど金曜日なんですよね。
 でもその時にもね、部下みたいな、だからアシスタントプロデューサーなのかマネージャーなのかみたいな話なんですけど、そういう方がいたらいいなーと思って。それこそフリーになって、2017年とかに1回試しにやってみたことあるんですけど、そうするとその人との情報の共有とかがむしろ面倒くさくて。だから僕が考えてることを全部伝えないと差配できないじゃないですか。そうすると伝わってないことは動かないわけでみたいなところがすごい面倒臭くなっちゃって。もう自分でやりますみたいな方が早いなってことに気づいて、18年、19年、20年と、基本的に一緒に仕事をやってるパートナーはいるんだけど、こと自分のことに関してはね、請求書を出すのも自分だし、ブッキングするのも自分だしっていう感じでずーっとやってきたんだけど、ちょっとそれだと回り切れないなーと思うところがあったんで、アシスタントプロデューサーが居てもいかなと思ったんです。
 でも、たぶん、それって効率で言うと1回試してみたときに分かったんだけど、自分でやった方が早いなってなるから、今回もたぶん自分でやった方が早いなってきっと思うんだと思うんですね。なのに、それでも雇ってみようと思ったって言うのは、つまり効率じゃないんだなって思ったってことかも知れないですね。自分のやろうとしていることが。その自分がやろうとしていることがなるほど!と共有してれる人みたいなものが居た方が…、育てると言うとすごい上目線でそんな育てられるほどのノウハウとかもあるわけではないんだけども、そう言うこととかを下の人に伝えていくということも、ちょっとプロデュースという意味でやった方がいいんじゃないかなと思ったっていうような思いもあるのかも知れないですね。なんかね、自分もそんなに若くないわけでというようなことを悟ったのかも知れないですね。

体を鍛えてラマルク的な

 あとはそうですね、腹筋を2月からずーっとやってるんですけど(笑) それ前も言ったか。そう、ちょっとでもいいからやり続けるってことが大事だなと思ってやってたら、そしたらこの辺(腹直筋あたり)が痛かったのがどんどん痛くなって、やばいなと思ったら、実は筋肉痛だったのかなーなんて思って。で、筋肉痛が終わるとなんかちょっと解消されてきたなーなんて思ったりすると、実はそのゆるしみたいなのを知ったというのは、そういう体の痛いところみたいなのがちょっと減ってきたからっていう(笑) 単純に身体的なことなんじゃないかなーなんて思ったりするんですん。悟ったとかね、ゆるしとか、すごい宗教的なことを言ってましたけど、意外に身体的な気持ち悪さ見たいなものとかが解消されることは結果的に脳内のね、考え方みたいなものがすごいクリアになっていくんだなーみたいな。これってまさに指導教官とも話してたんですけど、なんかその時の環境の良さみたいなものが遺伝として伝わっていくんだってこと、今まではそんなことはない、ダーウィンがいったダーウィニズムみたいな適者生存みたいなものが正しいとされて、一方でそのときにあったラマルクっていうね、ラマルキズムというものは否定的に捉えられたけど、最近ではメッセンジャーRNAじゃないんですけど、ラマルク的なものの効果もあるって言うようなことが科学的に証明されつつあるらしくて。そうすると何が言いたいかと言うと、今自分が気持ち良く思考しているということの方が、それも結果的にその種として遺伝していくんだみたいな。種として残っていくんだみたいなね、ことなのかなーなんて思ったりしてね。それはちょっと僕がもしかしたら青空と海と鳶を見てたら、ゆるしを、ゆるそうと思ったってことと、なんか繋がってるのかも知れないです。
 大丈夫かな。今日いつもに増してまた漠然としたことを言ってるけど。まあ、大丈夫か大丈夫じゃないかという意味で言うと、すいません、ゆるしてくださいっていう(笑) なんか落ちみたいな感じでございます。

英語の肌ざわり

 今日の本でございます。「英詩のわかり方」という本でございます。阿部先生という東大の英文学の先生、阿部公彦(あべまさひこ)先生の本なんですけど。これ、すーごい僕…、これ、今年一番ではあるな。今年まだ2月までですけど。これ僕の中ではすごい考え方が変わった本ですね。
 英語の詩というものをどういう風に読めばいいのかということが書いてあるんだけど、僕自身は英語だけじゃなくて日本語の詩とか、なんなら俳句とか短歌とかもそうなんですけど、何が良くて何が悪いのかってのがいまいち分かってない。まあ僕がアホなだけかも知れないんですけど、いまいち分かってなかったんですよね。だから英語の詩なんてさらに分からないんですよ。何が良いんだろう?とか。いや、当然好きだなーとかいうのはあるし、カッコいいなーと思うのもあるけど、それと良い悪いの差が分からなかったら、このね、目次を見るとですね、「あらゆる詩は外国語で書かれている」という序章で始まるんですけど、なんで外国語で書かれてるかと言うと、つまり他者が書いてるってことは分かんないんだってことが書いてあるんです。だから他者の家に行って、他者の家の中を見るみたいなのが他者が書いた詩を楽しむってことだし、なんなら他者の体臭を嗅ぐ、それが詩を読むということなんだってことが書いてあって。つまり、分からないから読まないじゃなくて、分からなくても良いんだってことを教えてくれたってのがすごく僕の中では大きいです。
 それ以外にもたくさんのすごい名言があってですね。うん、これはおすすめですね、この本。なんかね、なんか僕が、僕は語学は全然できないけど色んな語学をやってるんですけど、なんかそこに惹かれてる、語学に惹かれてる、外国語に惹かれてるのに外国語できないんだよなって思ってた最大の理由は分かんないんだよなってのがあったんだけど、この分からなくていいんだってって思わせてくれた、つまり分からなくていいんだって僕をゆるしてくれた(笑) このきっかけはですね、僕の中ではすごい大きいかなーなんて思いますね。本を読んで自分の思いの拙さみたいなものをゆるしてくれたっていう思いっていうのは、すごいありがたいなって思うってことですかね。うん。
 そうすると僕もあらゆることをゆるして行きたいなって思ったりする、ということかなーなんて思ったりするんだけど。うん…どうだろうな。だんだん、こう、妖しい人になってるかなぁ(笑) だんだん怪しい人になってるのかなーなんて思いながらね、うん、でもまあそれでいいのかなーなんてのも思ってるんですけどね。なんか…でも、ゆるしてるんです、ゆるしてるんですってこの動画でこういう風に喋ってるってことは、やっぱりなんか自分の中でゆるせない何かみたいなものがあるからかも知れないなーなんてちょっと思ったりもして。それぐらいの方が実は人間ぽいなーなんて思いながら、でもなんかゆるそう、ゆるそうと言うかゆるす方がいいんだって思ってるっていう意味では、なんか心は落ち着いてるというかね。
 うん、そんなことを思ってる次第でございます、と。はい、もう、そんな感じで今日は間もなく21日も終わりますが。皆さま、また来週よろしくお願いいたします。角田陽一郎でございました。


文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 ランナーズハイならぬウォーカーズハイ?(笑) 私は歩くのはかなり早い。1度だけ、自由大学の発展途上人学に行ってた時に、たまたまコンビニから出てきた角田さんの後を付いて歩いてみたことがあるけど「ああ、本当なんだな」って(笑) たった30mが長くて長くて、スマホ見ながら歩いても追い付きそう。ランニング、私の徒歩より速いといいな。いや別に遅くてもいいけど、何となく。

 「さとり」について。文字起こし中は「悟り」と書いたけど「覚り」とも書くらしい。悟は真理を、覚は道理を知ることで、どちらも迷わない、目覚めるという意味がある。「覚悟」は仏教用語では迷いから覚めると言う意味があるそう。真理は揺るぎないもの、道理は人の道なので時代によって道理とされるものが変わるという話しもあった。角田さんが体感したのは悟りかな?覚りかな?…悟りかな。
 「ゆるす」は許す、赦す、恕す…、恕すかな。「相手を赦す/自分を許す/すべてを恕す」というのはどうも有名な言い方のようで、あちこちに載ってた。恕は大目に見る、思いやり、慈しみという意味。良い意味で人を上から見てみる、自分も含め未熟な生き物である人がやったことなのだから恕そうということなのかな。美空ひばりの人は可愛いものですねというか。本人の感覚としては事実はそのままに、環境は受け入れ、感情だけ手放すということが近そう。諦めるだと念が残って残念になるような気がして違うと思う。
 ちなみに、西原宏夫さんのブログに孔子が弟子の子貢の質問に人生で大切なことは思いやりだと答えた話が載ってた。

子貢は聞いた。「先生、たった一語で一生それを守っておれば間違いのない人生が送れる、そういう言葉がありますか?」孔子は「それは恕かな。」と言った。

 恩と仇について。私は恩も仇も縁の内にあるものと思う。縁起があって仕方なく因縁になる場合もあるというか。不倶戴天なんかも同じ時代に生まれた上に出会うほどの縁があればこそなんじゃないか?と。仇となるならその縁は切るけども、相手にも事情があったし、私にも事情があったし、互いに思いやることは出来なかったということは恕す、角田さんが感じたのはそういうことだったのかな?私は恕さない(笑) 未熟者だからまだ怒りたいし愚痴りたい。たとえ角田さんが聞き手でも話したくないと思うこともある。そこに意味があるように感じるけど、まだ見い出せない。

 2019年か2020年に入ってからか、ICUCでもマネージャー要不要問題のことを話してたのを覚えてる。他人って自分以外の全ての人だから、全て分かり合えるということは生涯ないと思う。それは自分が世界に組み込まれてない、取り残された寂しさを感じることもあるけど、それでも共有できる感覚を持つ努力はあった方がいいと思う。それって思いやり(恕)?
 ヒロさんも「ヒロの5分ラジオ」(Dabel)で話してたけど、誰かに共感してもらえるのってすごく嬉しい。それは共感する以前、まず共通認識を持つために擦り合わせるだけでも大変だからなんじゃないかな。だから共感してもらえるって嬉しいだけじゃなくて、有難いものなのかも。
 以心伝心で動いてくれるというのは、共通認識を持てた上に予想分まで動こうという愛情かな。コミュニケーションが面倒臭いと感じてしまうなら、その感情が邪魔をして愛情持つに至らないだろうから、マネージャーを雇うということは効率より共感だと思うけど、共感の積み重ねの先に効率は求められると思う。何年か先だと思うけど。数日だったら有り難みもなさそうだし(笑)

 思考の馬力は無意識も含め10あるとして、そのうち3が悩みとする。この3はたぶん悟って解脱でもすれば解消されるのかも知れないけど(笑)、入れ替わり何かが占めている。生きるってそんな感じがする。さらに魂の入れ物のコンディションが思考に影響する。例えば怪我して痛いなら、常に痛いなーと思いながら過すわけだから。意識的にも、無意識的にも。
 ということで、不健康な生活の現代人は身体コンディションで3?4?実は5ぐらい占めてるかも知れない。そうするともう思考に使える部分は4~2馬力のみ。だから思考に馬力をあてがいたいなら、身体コンディションの改善は効果が早いかも知れないと思う。
 若い頃が今より楽しいとか、希望があったとか、そういうのって、もしかしたら身体コンディションの影響は大きいのかもしれない。若いだけで素晴らしいと言うのはそういうことかも。でも老いる。残った馬力を無駄なくうまく使う術で老い分をどこまでカバーできるのか?

 妖しい人について。角田さんのTwitterを確認。妖しさ満点、妖しさは誰かの栄養になる気がする。

いかがわしいモノと崇高なモノって、それこそ人それぞれで尺度が違う。なので誰かの崇高なモノをいかがわしいと否定したり、逆ったりというのは根本的にナンセンスだ。そして自分と言えば最近いままでいかがわしくて忌避してたモノにとても惹かれたりしてる。逆に崇高に感じてたモノに嫌気が差したり。
自分が若い時分には、なんでいい歳したオッサンなのにあんなにいかがわしいんだよ!って感じてた妖しい人が沢山いたけど、今いい歳してそんないかがわしさに惹かれてる自分を想うにつけ、人の価値観なんてコロッと変わるもんなんだと思い知る。周りの人の価値観に合わせる必要などそもそも無いのだ。

 もし悩みや迷いがなかったら。喜怒哀楽の半分、怒哀がないという状態になるのかな。それって世界が半分色褪せて見える気がするな。それでもいいと思うことも多いけど、だって角田さんだろうと話せないと思うのはまさにコミュニケーションの拙さで失敗を重ねた話だし。でも、そもそも喜楽は悩みや迷いなく存在できない気もするし。光と影みたいな。生きてるうちに真理を分からなかったとしても、道理だけでも知れたらいいかな。

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