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ICUC-080_2021.10.3【フィクションと現実の回帰線】

【ICUC知的好奇心向上委員会】の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee

新刊図書
『AP アシスタントプロデューサー』角田陽一郎著エパブリック
『仕事人生あんちょこ辞典』角田陽一郎/加藤昌治(ベストセラーズ刊)

角田陽一郎80「フィクションと現実の回帰線」ICUC知的好奇心向上委員会

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

早口とツイキャス

 おはようございまーす。ICUC知的好奇心向上委員会バラエティプロデューサー角田陽一郎でございます、と。10月3日のお昼頃でございます、と。あのー…、これはICUCを見ている方がどこまで知ってるかは知らないんですけど。先週からですね、ちょっと、ツイキャスを始めてみました。ツイキャス。で、それは何でかと言うと色んな思いがあるんですけど。簡単に言うと、私早口(笑)でございまして。で、早口がですね──、早口でいいんじゃないかなーと思って早口だったところもあるんですけど、最近ラジオにゲスト出演、4、5回させて頂いて。『AP』というね、自分が書いた小説が出て、お声かけて頂いて。4、5回出たんですよ。出て、自分でその撮影したものを…撮影じゃないや、収録したものをね、オンエアしたものを見るじゃないですか。そしたらですね…見るじゃない、聞くじゃないですか(笑)ラジオだからね。見れないからね、聞くじゃないですか。そしたらですね……もうボク、一応プロデューサーが仕事なものでございますから、どう思ったかと言うと、「プロデューサーNG」ぐらい早口だったなって言う(笑) うん、これは早口すぎるなーとちょっと反省したわけです。
 それでどうしようかなーと思った時に、それこそ今週のコトブキツカサと一緒にやっているYouTube番組「寿司特」コトブキツカサスペシャルではね、ゆっくりしゃべるってテーマで話してみたりしたんですけど。ゆっくり喋ると言うか、ツイキャスでやってみたことはですね、ゆっくり喋るというよりも、なんて言うんでしょうね、中身がないことを喋るってことをやってみたわけです。で、ICUC知的好奇心向上委員会ってのは知的好奇心向上委員会って言ってる──今ちょっと早口になりましたけど──、だけあって、少なくとも何かの情報を入れようということを意識的にも無意識にもやってるんだけども。ツイキャスの方はあえてそういうことをせず。うん、なんか自分の思っていることをそんなに形にせず喋るってことをやってみて。で、昨日までで4、5回やってみたのかな?やってみました。
 で、今日、週末なのでICUCを収録しようと思った時に、今日これから私の海の街にあるスタジオに行ってですね、ちょっと諸々作業をしようかなーなんて思って今車を走らせてるわけですけども。この車の移動中にICUCを撮ろうかなって一瞬思ったんだけども、ちゃんとスタジオに着いてから意味のあることを喋ろうかなーとも一瞬思い。でも一瞬思ったんだったら、じゃあ一瞬思ったなんだったらじゃあこの移動中はツイキャスやろうかなーなんて思ったりして。ツイキャスで意味のないことを喋るってのをやって、また後で意味のあることを喋るって、つまりずーっと喋ってるのかオレは?!みたいなことを思い(笑) で、むしろじゃあ今撮影しているこの時に、YouTubeでライブ放送でICUCを撮ってみるでもいいかなーとちょっと思ったんです。そうするとね、YouTubeでライブ配信を撮ることと、YouTubeでこうやって録画したものを後でアップするのと、どこに違いがあるのかなと思った時に、編集するならそっちでもいいんですけど、ほぼ編集しないで毎回こういう感じで出してるってことは、つまり、なんて言うんでしょうね、ライブでやろうが収録でやろうが大して違いはないわけです。だからライブでやってみようかなーと思ったんだけど、ちょっと待て待てと思って、結局いま録画でやっておりますという感じでございます。まあどうでもいいんですけど。
 何が言いたいかっていうと。ツイキャスで何にも考えずにだらーっと喋るっていうのをやってみたところ、あれはあれでちょっと麻薬ですね。つまりそんなに喋んなくてもいいんだ、無言の場面があってもいいんだ、とかって思ってしまうと、ゆっくり喋るってことはミッションとして…ミッション?ミッションと言うとまたちょっとこう義務感が発生するんだけど、じゃない感じでやっててもいいんだなって思う気楽さみたいなものがある、と。
 そうするとこのICUCはちょと気張って喋んなきゃいけないのかなっていう。だから自分の中で別にどっちだって、いや見てる人もどっちだっていいと思うし、自分だってどっちでもいいと思うんですけど。なんかそんな風に思ってしまった自分が居てですね。今このICUC喋ってる時に、うん、ちょっと面倒だなって思ってる自分が居るというか。もっと気張らずに喋れば…。いやだから、つまりICUCだろうがツイキャスだろうが気張らずにそのまま喋ればいいんですけど、そうするとこのICUCって何なんだっけ?みたいな風に思ったりするみたいなね、ことはありますよね。うん。いや、だから…何なんだって話なんですけど。
 でもまあこのICUCは何回も言ってるんですけど知的好奇心向上委員会って名前で始めたものの、ボクのその時のテンションというか感情の起伏みたいなものも記録しておこうかなって言う思いがちょっとだけあるわけです。その時の思考していることは何か?っていうね。だからそれを積極的に喋るということで、だらっと喋る、何も中身がないことを喋ることよりも、ちょっと意味があることにしたいという思いがあるのかなーなんてのは思いますね。うん。

太極拳から致し方なし

 今ね、こんな気持ちで喋ってますけど、今ちょうど昼頃だって言いましたけど。午前中あれなんですよ、私、太極拳を何気に10年ぐらいやってまして。今日は太極拳を今やってきたんです。で、ぶっちゃけ太極拳をやる前の朝、昨日の夜ぐらいから朝って、なんか…LowかHiかって言われたらLowな感じの気分でございまして。大体色々考えるタイプの人間でございますからって言いましたけど、まあ色んな人も色んなこと考えてんだと思うんですけど、特にボクはすげぇ考えてるわけでは決してないと思うんですけど。まあ、そんな感じで、なんかすごい暗い話をしちゃう予感がしてたから。だからやっぱりこの移動中じゃなくて夜ね、スタジオでゆっくり喋ろうかなーなんてのも思ったりもしたんですけど。
 いや、だからって、でも夜ゆっくり喋ってることが果たして明るくなるか?って言われるとそんなことは分からないって言うか。つまりこの記録をいつ、どこで、どのシュチュエーションで喋るのか?ってことってすごい大事な…大事というかすごい中身に影響するんですよね。それって面白いですよね。テレビの収録とかもそうで、この時間に収録した…その演者、タレントさんが集まってとか、なんならこのスタッフが居てとか、その一瞬一瞬の状態って、一瞬一瞬の状態でしかなくて。つまり再現性がほぼ無いですよね。一人一人のテンションがね、上手くグルーヴ感になるときもあればボロボロになるときもあるんだけど、それも含めて同じことは二度と起こらないわけですよ。うん、なんかそんなことはすごく思うわけですね。
 で、そんなことはテレビ作ってる時も思ってましたけど。この収録をしてるときも本当にそうで。何が言いたいかって言うと、太極拳をやってるうちにですね、なんか体を動かしてるうちに自分のLowな気分がちょっと薄れてきたと言うか。まあ致し方ないなってちょっと思えるようになったって言うか。この致し方ないなって思える感じっていうのって、ボクの中ではLowな気分から上昇する時に結構「まぁ、しょうがねぇか。なるようにしかならねぇか。」っていう風にね、思えるって、ボクの中では結構大きくて。
 なんかね、太極拳で型を最後に一通りやるわけですね。…すいません、太極拳やってますって言うとなんかすごい、10年やってますって言ったから、すごい上手い人みたく聞こえたら嫌なんで先に言っときますけど、全然上手くなくて。ちょこちょこやってるだけなんで、ずーっと、あれです、肩の力を抜くということを知るためにやってるというか。肩の力がすぐ入っちゃう人間なんでね、それは肉体的な肩もそうだし、精神的な肩もそうと言うか。だからそういうものを取れるという意味で、力を入れないっていうのがやり易いから太極拳を何だかんだ言ってやってるんだと思うんですけど。なんかそれをやってるうちにね、その…こう…まあ致し方ないかなって思えるように、ちょっと肩の力が抜けたわけですよ。で、今こんなことを喋ってる。
 こんなことを喋ってるとすると、オープニングね、10分ぐらい喋りましたけど、つまり、だらだらツイキャスで喋ることと中身があることを喋ろうとする違いなんてことを今ここで喋ってますけども。それってもしかしたら今日、朝、太極拳をやってなければそういう話には全然なってないわけで。なんかその一瞬一瞬の邂逅というかね、一瞬一瞬の行動の積み重ねというか、思考の積み重ねみたいなものであらゆるものが生じてるって、ちょっと面白いなーって思いました。
 でね。その致し方ないなーって思う時って、色々対人関係だったりとか、色んなことに対する悩みみたいなこととか。でもあらゆる悩みって対人関係なんじゃないかなってちょっと思うんですけどね。まあそれは置いといて、そういうことで悩みをしてた時に、なんかこう対人、他者に対して憤りを感じてるとか、あるいは落胆してるとか、愛情を感じるとか、あるいは怒りを感じるとか、まあ色々あるじゃないですか。愛憎って言いますけどね。そういう風に思ってた時に、何かボク致し方ないなって思った瞬間は何かって言うと、という色んな喜怒哀楽みたいなものを他者に当てること自体が間違っているんではないかなって、ちょっと思っちゃったんですね、自分の。
 自分の中で当然あるわけですよ、これをこういう風に言いたいとか、こういう風に分かって欲しいとか。あるいは相手にこういう風に言ってくれとか。でもそれを言うことがプラスなのかマイナスなのかって思った時に、むしろ言うことってマイナスなんだなっていうこと、それは致し方ないって、つまりそういう空気というか感覚というか、それを言葉にして伝えるということをやろうがやるまいが一緒じゃんというか。なんかね、そんな風に思った瞬間にちょっと心がふっと軽くなったんですよね。これすごい面白いなと思います。

フィクションとリアル

 それこそ…本当はね、致し方ないなって気持ちになる前のボクはですね、じゃあ何を話そうかなと思ってたかという意味で言うと、ツイキャスを4、5回やった中で、金曜日にね、ジェームズ・ボンド、007の「No Time To Die」を観に行って。面白かったんです、すごく。で、面白くて。その日の夕方はユーミン、松任谷由実さんのライブを。ツアーのライブを横浜…じゃなくて横須賀に観に行ったわけです。それもすごい良くて。で、そのユーミンのね、ライブを聞いている時に…。音楽を聴いていて、ユーミンの恋愛の歌が多いじゃないですか。その歌を聞いてる時に、ユーミンが経験したことというわけでもないんですよね。つまりユーミンが作詞したものって、ある世界観でこういうの書こうって意味で言うと、どこまでがフィクションで、どこまでがリアルか分からないけども、まあフィクションなわけですよね?
 で、そのフィクションの曲を聴いて感動している観客、オーディエンスがいて。そのオーディセンスの中にボクがいてと思った時に、その感動しているって事って、フィクションの事実でも感動するんだよなーって思った時に、あれ?ちょっと待てよ?と。自分の人生ってリアルな人生…だから人生はリアルだと思ってたんですけど、この世界とか、さっき言った対人関係とかに対して、自分が脳内で思ってることって多かれ少なかれフィクションなんじゃないかなってちょっと思っちゃったんですよね。
 だからやっぱりボクはね、『AP』という小説、フィクションを書いてみて、すごいボクの中で脳内が今すごい揺らいでるんだと思うんですけど。何が真実で何がフィクションで、何が現実で何がファンタジーで…みたいなことって明確に区別みたいなものがあるというか、少なくとも明確に区別している方が多いような気がするんですよね。ボクはね、ボクも区別してたんですけど、ボク本当に30代くらいの時にちょと思ったのは、この東京というのは、例えばディズニーランドみたいなところで、色んな仕事場──テレビ朝日とかフジテレビとかTBSとか講談社とか色々あるじゃないですか、博報堂とか電通とかTBSとか──そういうものってディズニーランドの、東京ディズニーランドのアトラクションで、今日はテレ朝に行きましたとか、今日は博報堂に行きましたみたいに、アトラクションの中でバーチャルなリアリティを楽しんでるような感覚ってすごくあったんですね。だってそこでタレントさんと一緒に仕事するって言ったって、タレントさんってすごい有名人というか、おお!って…だからミッキーマウス的なキャラクターみたいな人がこの目の前にいると言う現実みたいなものって、すごいフィクション性があって。ボクの中でフィクションなのか現実なのかよく分からないなーって思ったっていう。思ってたってことはすごくあるんです。ボクが生きている世界がたまたまそういうファンタジーなところと混ざっちゃってるところがあるから。
 で、自分たちが作って、プロダクツっていうのはバラエティ番組だったりするから、どう面白くするか?笑いを追求するか?みたいな、限りなく冗談を一生懸命考えるというか。何かそんな部分みたいなところが、すごく自分の人生の生きてるところでクローズアップされて。なんかそれがこう…どこまでが本当にリアルなのかとか、ファンタジーなのかとかということが、すごい曖昧だよなってのは元々思ってたんです。
 で、元々思ってて…なんて言うんでしょうね、自分がさっきも言いましたけど、ユーミンの曲を聴いてるときに…厳密に言えばその前にボクが小説『AP』というのを書いたからかも知れないんだけど、それを思う時に、なんて言うんでしょうね、自分が作ってるものがファンタジーなんだけど、そのファンタジーを作ってる自分の脳というのはリアルなわけで。一生懸命ファンタジーを作ってる、まあ一生懸命じゃなくてもいいんだけど、ということって、リアル世界に対して”こう思う”ということと、ファンタジーを一生懸命考えてるってことに差がないことが分かっちゃったって言うか。
 とするとですね、美味しいものを食べて美味しいって思うことと、美味しいものを食べてないんだけど美味しいものを食べて美味しいって思ってるよねあの人って思うことって、実はそんなに大差がないんだよなーってことが…うん。いや肉体は殴られたら痛いんとかはあるとは思いますよ。思うけども、でも殴られなくたって痛いものってたくさんあるじゃあないですか。感情でというか。なんかそんなことを感じてる次第ではあります。
 だから…なんて言うんでしょうね、まあ、よく分かんないです。よく分かんないんだけど、自分がさっき言った”大体の悩みは対人関係”だよねって話をしましたけども。そういうものの悩み自体も既にフィクションじゃんかって思えてしまって。とすると、フィクションの中で何かを解決するということがあって、解決しないことがあってとか。なんか破壊されてしまうとか、関係が崩れるみたいなことと、リアル社会でそういうものが崩れることって、それで自分の生死が関わるから違うじゃんとも一瞬思うんだけど、でも、なんかこうそんなに実は違くないのではないかなーって言うか。
 なんかね、テレビの中の有名人の方が仮に悲しい…その方がお亡くなりになって悲しいと思うってことと、自分の近親者が亡くなって悲しいって思うことの差って何なんだろうなって思ったときに、実はそんなに差がないんじゃないかなというのは先週話しましたっけ?ファミコンの終わりっていう話で。なんかその延長線上に自分の中であるのかも知れないですね。フィクションと現実の差って──ないのかなぁなんて思ってしまうというか。

フィクションなエッセイ

 でね。そんなことをまさに思ってた時に、「世界の終わりの決められ方」っていうマガジンをですね、noteに作りましてですね。そこでフィクションを書いてみようかなって、先週思ったわけです。
 で、今6本くらい、本当に大したもんじゃないんですけど書いてます。それは何故かと言うと、やっぱりノンフィクション、フィクションじゃなければノンフィクションみたいなものをずーっと書いてきて。それは自己啓発書と言ったりビジネス書と言ったりするのかも知れないですけど。そういうものじゃない文章が書きたいなーって思った時に、それを小説で書くってなると全部ストーリーがないと書けないわけで。ストーリを全部長く作るってのはなかなか、なかなか…。やらなきゃいけないものもあるし、やりたいもの、書きたいものもあるんですけど、それをやるために難しいなーと思った時に…。ショートショートみたいなものを書こうかなーとも思うんですけど。そんなギミックがストーリーで出せるほど自分にはまだそのストーリーテリングのノウハウが…、ノウハウと言うか余裕がなくて。って思った時に、フィクションなエッセイを書いてみるのはどうかなーと思ったのかも知れないですね。
 でもそのフィクションな…、エッセイって随筆というか随想という意味では、そういう意味ではリアルなことを書いているものなような気がする…。まあリアル…難しい!やっぱりリアルなものに対して自分がこう思ったってことがエッセイだとすると、その思いってものはフィクションでも別にいいわけですもんね。というよりはもっとフィクションというものが先にあって、これはフィクションですっていう中で、自分が思ったことを、思ってないけど…思ってないことも書けるじゃないですかフィクションって。誰かに言わせればいいと言うか。なんか思ってないことをフィクションとして出してきて、それを自分が…自分なのか自分じゃない人間がどう思うかということのやり取り…。別に会話調にすればってことじゃなく、文章の構造でもいいんですけど。そういうことが出来るってのはすごく面白いなーと思うというかやれるのではなかな?ってちょっと思ったのかも知れないですね。
 で、まあそんな風な感じで書いてて。で、それこそユーミンの──、その前に「No Time To Die」の007を観たこともボクの中では大きいんですけどね。あのフィクション性の中での自分のリアルな人生と重ね合わせてしまう…別に自分が007でジェームズ・ボンドだって言ってるわけじゃないんですけど。なんかそんなようなところの中での思いみたいなものがユーミンのライブで音楽聴いてて重なっちゃったってところで、そんな思いが出てきたものですから。じゃあそのフィクションと現実の狭間、境目ってなんなのかなって思ったりして。それを…、うん、なんか、…ちょっとフィクションに書いてみようかなーと思って「世界の決まりの決められ方」というところに「現実回帰線」っていう文章を書いてみました。

Toropic Of Reality

 別に大した文章じゃないんですけど。で、それって、つまりフィクションから現実にどう回帰するのか?現実からフィクションにどう回帰するのか?みたいなことってあるなーと思った時に…。回帰ってね、言葉がボク好きで。でも回帰って言葉が好きだって話は昨日ツイキャスでしちゃったん…ダメだ?!ツイキャスで、ツイキャスは中身のない話をしようと言ってる割には回帰の話をしてて。
 実はその話って尾崎豊さんのね、セカンドアルバムが「回帰線」っていうアルバムですけど。回帰線ってアルバム…、尾崎豊の作品って全部日本語名と英語名が全部付いてて。「十七歳の地図」ってアルバムは『SEVENTEEN’S MAP』だし、3枚目のアルバムの「壊れた扉から」は『THROUGH THE BROKEN DOOR』っていうタイトルになってるんですけど。回帰線っていうのはね、『TROPIC OF GRADUATION』って書いてあるんですよ。その『TROPIC OF GRADUATION』っていう、卒業が入ってるアルバムなんですけど、卒業への回帰っていうか。そうかーと思った時に、本当はね、北回帰線ってのはTropic of Cancerで、南回帰線がropic of Capricornでっていう意味で言うと、あのアルバムはropic of Graduationってなってて。卒業への回帰が回帰線っていう意味なんだなってすごく…。卒業ってね、有名な曲とすごい被ってて面白いなーなんて思うから…ボクはすごい面白いんですけど。その回帰っていう、だからボクの中ですごく、すごくすごく刺さるわけです。
 で、そうなった時にじゃあそのフィクションとリアルの差ってないじゃんって思った時に、でもどこかで分岐点というか回帰するところが──。このままずーっとフィクションの世界に入り浸るわけにはいかないし、そのフィクション性がない無味乾燥なリアルな現実ばっかに囲まれてしまうのもなんだなーと思った時に、どこかで回帰するポイントってあるのではないかなと思って。そのリアルと現実の境目、回帰みたいなものって何なんだろう?ってことをその文章で書いてみたというか。
 いやだから、何が言いたいんでしょうね?その文章を書いてみたから何だってことでもないんだけど。そう思った時に…、うん、でもやっぱりフィクションと現実の違いうというものが本質的にはそんなにないんじゃないかなーってちょっと思えてしまってしょうがないなーとは思います。
 昨日とかもね、EXITの兼近さんと新しい企画を撮影してて。もう彼の存在なんてフィクションぽいじゃないですか。超有名タレントで、人気者で。でも個人の彼としてはすごいいい人でね。そういうぐちゃぐちゃしたものが混ざり合う中で──だからまあ、そもそもフィクションと現実なんてそんなに分けられないものなのかも知れないです。その分けられないって現実もまたちょっと面白いなーと思ってるし。
なんかボクがさっき言ったLowだったありHiだったりみたいな、LowとHiの回帰みたいなね。このままLowにずっと進むんじゃなくてどこかでこうHiの方に回帰するというか。Hiで行き過ぎちゃうと本当にやばいから、どこかで平常に戻るみたいな。やっぱり回帰するものみたいなものがぐるぐるぐるぐる回ってるというか。ボクが渦って言ってるものって回帰を続けてる、回帰して回帰して回帰して回帰してっていうのをやってる、季節が巡るかの様にというかね。月が満ちて欠けて満ちて欠けてとやるようにというか。なんかその循環の中でそういうものをすごい感じてるのかなーなんてのも思ったりしますよね。
 その、…うぅーん、…フィクション。──フィクション、ファンタジー。一方でリアルというかね。そのこう…何なんでしょうね。もっと普通の方はやっぱりフィクションって空想みたいな、ファンタジーというと空想みたいな意味で言うと、それってそんなことは置いといて現実でどうするの?みたいなことが多い中で、明確に区別がもっとあるんでしょうかね?ボクはあるのかなーと思ってたら意外にないんじゃないかなって言う話が今日のICUC知的好奇心向上委員会の趣旨なのかも知れないし。…うん。…ボクはだから結論から言うと、今日、太極拳やってて、なんか致し方ないなーと思ったのは、なんかそのLowな気分が回帰した瞬間だったかも知れないですね。──はい。そんな感じで今日のICUC知的好奇心向上委員会はこんな感じで終わりにしたいと思います。また来週よろしくお願いいたします。

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文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 早口がプロデューサーNGだなと思って、ツイキャスではゆっくり喋ろうと言うよりも中身がないことを喋ってみる。一見矛盾というか何でそうなる?なんだけど、①早口→②ゆっくり喋ろう→③ツイキャスは中身のない話は、実際は②と③の間に③の結果を導く理屈がある。その理屈というのは「角田さんは話を聞いてくれる人への愛情からちゃんと伝わるようにと思う→伝わるようにあれもこれも喋る→人より3倍喋る→大元の伝えようと思う中身のある話の中身を無くせば、結果ゆっくりになるのでは?」ということだと、思う。で、ラジオという決まった時間内で理屈まで話すからかなりの早口になる。
 通常、時間は決まってないけど、頭の回転が早くて話したいことは次から次へとあるわけで…。ツイキャスで仰ってたけど、確かにそれを短い言葉、少ない単語で伝えられる人がいる。それはどうやったら出来るんだろう?と。

 私が初めて買った小説、酒見賢一著「後宮小説」、ここに極端に口数の少ないキャラクターが登場する。主人公だけはその少なすぎる単語から彼女の気持ちを拾うことができるのだけれど、実際には言葉足らずという言葉があるように、少なすぎると伝わらないし、聞き手の能力が大変重要になる。
 角田さんは聞き手の能力について、「分かりやすく書いたビジネス書をさらに分かりやすく漫画で…そんなことをして本が売れたとしても、世の中どんどん分かり易いものしか理解できない聞く能力の低い人ばかりになるから、難しいものは難しいままでいい」と言う。と同時に、話すときはちゃんと伝えたいと思う気持ちから、言葉多めに早口になってしまう。難しいまま、それでも伝えたい。
 どこかで話していたと思うけど、言葉少なに話すことは聞き手の能力を過大評価してる、又は伝わらなくてもいい、ということかも知れない。逆に角田さんのような多弁の場合は、失礼ながら相手の能力を過小評価してる、又は伝えたい、ということかも知れない。それに誤解や、それに伴う批判で傷つきたくはない。それは当然なんだけど、言い換えれば、伝えたいことを誤解なく正確に伝えたいという思いは傲慢というか、すごく一方的な行為なのかも知れない。
 一方的なら控えようと一瞬思ったけど、コミュニケーションって最初にあなたが好きですと伝える方が大変なんだよ。それを私も好きだと伝えるか、ごめんなさいと答えるだけの聞き手は話すことより簡単。だから発信は言葉足らずでも多弁でも、あってくれなきゃコミュニケーションが否定されてしまう気がする。伝わらない寂しさにめげちゃ駄目だ。

 ちょっと戻って後宮小説のこと。角田さんの話を聞いていると時々どうしても思い出してしまう。この作品は第一回ファンタジーノベル大賞受賞作。この賞の選考の際、多くの作品がいわゆるファンタジー、異世界や妖精や魔法や…というものが多かった中、一見リアルな中華の歴史物に錯覚するほどの、文章も小説というより歴史考察のような文調のこの作品、選考の方々はファンタジーの意味をちゃんと理解している人がいたことに安堵したという話を読んだことがある。小説の後書きにあったのかな??
 今回の現実回帰線の話、フィクションと現実の線引きはどこにあるのか?無いのか?は、後宮小説でも体感できると思う。小説は酒見賢一の2000年辺りまでの作品と『AP』くらいしか読んだことがない私が言っても説得力はないけども。
 フィクションとは人の想像。人から生まれたもの。私の今というリアルと、知識や経験という過去のリアルの間の子だから、フィクションというものはリアルと似て非なるものなんだけど、確実にリアルの遺伝子は継いでいるリアルの子なんじゃないかと考えた。それからフィクションはペルソナと近くはないか?と考えた。私の自宅用、外出用、会う人、立った場所ごとに無数に有するペルソナは、たぶん2度と同じペルソナを使うこともないんだと思う。本当の私がリアルだとすると、ペルソナがない私なんてものは存在しな気がしてくる。無数に使い分けていたペルソナが無数のリアルな私なんだという気がしてくるし、無数のペルソナという役柄が私じゃないなら一体誰なんだろうかと心配になってくる。
 フィクションと現実は、線引きというより表裏一体の方が少しだけ納得できるかも知れない。同一性の方がしっくりくるか。

 回帰線のことがどうもうまく理解できず「回帰線 動画」で検索、中学2年生向けの動画を視聴した。私の頭の中では2つ3つの疑問が同時にあるようなのに、解説者は一つづつ解説するわけだから、解説がまどろっこしくて頭に入ってこない。「私の疑問はそこじゃない」と早回しして、ここだ!と思えば再生し、また早回しを繰り返す。結局、最後は手元にあった糸玉に串を刺し、23度ほど傾け、指を光の方向に見立て、指先で糸玉に線を引く。そこまでやってああなるほど、と納得できた。つまり、南北回帰線の間は螺旋状に上へ下へを繰り返してる。回帰線とは地球に巻きつく大きな螺旋だ。

 角田さんを見ていると本棚が連想される(というより背景にあることも多い)。それで後宮小説の一場面をよく思い出す(小説でなくアニメの場面なので映像付きで)。後宮で教鞭を取る先生(老人)と主人公の会話。主人公が先生の部屋で高い天井まで積まれた大量の本を見て「全部読んだの?!」と驚くと、先生は「半分は読んだ。」と答える。「じゃあ半分は飾りだ。」と笑う主人公に先生は「もう半分は私が書いたものだ。」と告げる。そこで主人公は大層驚くというシーン。
 主人公は確か後宮で読み書きから習うけど、リアルな現在でも本がたくさんあると、やっぱり人は驚く。角田さん(以外の人も多く仰ってるけど)が言うには、出会った本はいつか読むかもしれない本。それは本棚にあっていい本。そんなことにぐるっと思いが巡りがちなのだ。というわけで、手放してしまったことを後悔している、正月に見たアニメが気に入ったがために買うことができた私が初めて買ったのに手放してしまった小説を、Amazonでポチった。(DVDはどこかにあったはず…。)

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