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ICUC-055_2021.4.11【内部思考のウォーキング、外部存在とのインターコース】

I see, You see! Intellectual Curiosity Update Committee【角田陽一郎の知的好奇心向上委員会 ICUC】今週ものんびり知的好奇心の活動&趣味の文字起こし。

参考図書
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角田陽一郎55「内部思考のウォーキング、外部存在とのインターコース」ICUC知的好奇心向上委員会
海を散歩しながら、思考の探索をしてみました。
(2021年4月11日)
ぜひご覧ください!

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

海辺でウォーキングICUC

  おはようございます。角田陽一郎でございます。ICUC知的好奇心向上委員会でございます。えーとですね、今日は外で初めて撮ってみようかなーなんて思いながら。こんなことをやっております。私、こんな感じでやることなかなか無いんですけども。どうだろうな?いいのかな?うん、あの、そうですよね、この海の近くを散歩してみようかなーなんて思いながらやっております。こういう感じで。いい感じですね、皆さんソーシャルディスタンスを取りながら、なんかそれぞれの日曜日を過ごしているみたいでございますが。
 これ、本当に1年ぐらいやってきて、ずーっと、ずーっとずーっと自分の部屋の中で撮ってたんですけど。なんかこう言う感じで外でやるとなかなか面白いのかなーなんて思ってたんだけど、なかなか二の足を踏んでたんですけど…この前ね、豊津徳っていう山本豊津さんとのトークをやってるのを、いつもzoomで2ショットでやってたのをちょっとね、豊津さんの東京画廊に行って撮影してみたわけですよ。そしたらなんかすごい面白かったなーなんて、個人的に思ったんですけど。撮影し終わったあとに見てみたら音がね…ちゃんと撮れてなかった。つまりiPhoneでそのまま撮ったんですけど、音をね、ちゃんとやってなかったんだなーなんてことが分かったりしたわけです。(一度カメラが切れる)なんかね、歩きながらやるのっていいよなーなんて、ずーっと思ってはいたんですけど、何でやらなかったか…あ、そうだ、思い出した、豊津さんとね、やったときに音がちゃんと撮れてなかったんですよ。(犬:キュゥゥゥーン)ワンちゃんが鳴いてますね、はい。音がちゃんと撮れてなかったんですよ。で、音が撮れて無いのってなんかすごい嫌だなーって思ったんで、一応、だったらもう、ワイヤレスのマイク買っちゃうか!みたいな。はい、そういうことでワイヤレスのマイクを買って(笑)、で、なおかつiPhoneをね、普通に自撮り棒的なやつで撮ってたんだけど、結構手振れみたいなのが酷くて、見た方に…酔ったって言われた方とかもいたりしたので、酔ったのもよくないなーなんて思ったものですから、だったらもう、ブレないステディカム的なものを買った方がいいやとか、どんどん機材が(笑)自分の中で成長してしまうんですけど。それをやったらですね、「あ、なんだ、ICUCだって…。知的好奇心向上委員会だって、別に部屋の中で篭ってやってる必要もないよなー」なんて思ったんで。こっちにこう、今日はせっかく天気がいいから、海の方に来てみようと思ってこういう風にやっております。はい。
 でもね、マスクしてやるかどうかとかちょっと迷いつつ。マスクしない方がいいかなーって思ったとすると、こういう感じで上手くソーシャルディスタンスを取りながら喋るっていうのは…なかなか面白いですね。僕がこう喋ってる声を聞かれると恥ずかしいってのもあるし(笑)、そんなにこう、なんて言うんだろう、マスクしないおっさんがね、居るものなんだし…という風に思ったりして。その配分で上手くやれたら面白いなーなんて思ってやっております。はい。

ウォーキングzoom

 面白いですねー。ちょっと歩いてみましょうか。で、これちょうど、まさに緊急事態宣言って1年前じゃないですか。で、今も蔓延防止はそれこそ…その違いはどこにあるのかよく分かんないですけど、そう言うものが出来ると言うか始まると言われておりますけども。
 ちょうどね、去年の4月は大学が始まって、今も…今年もちょうど始まったばっかりですけど、全部オンラインの授業だったんですね。オンラインの授業だからオンラインでやってるんですけど、ただオンラインなんですけど、あのー、えっと……。すごいですね、歩きながら喋ってるとぱっと声が出なかったりする。考えが纏まらなかったりするな、面白いな。…えっと、オンラインの授業だったんですけど、オンラインでやってると腰も痛くなるし、なんか考え方も暗くなるなーなんて思ったんで、講義だけで、聞いていけちゃう…自分が発言しない授業もあるじゃないですか。そういうのは歩きながら、うん、歩きながらやってみるのもありかなーなんて思って、ちょうど1年前の今ごろ始めたんんですね。歩きながらzoomの授業を受ける。
 そしたら…なんて言うんでしょうね、ただ普通に授業聞いてるとちょっと注意力散漫で眠くなっちゃったりとか、先生の言うこと聞いてなかったことって誰でもあると思うんですけど。そういうのあるじゃないですか。ところがウォーキングしながらだとむしろちゃんんと話が聞けるんですよね、うん。ちゃんと話が聞けるってのがすごい面白かったなー。面白いというか興味深いなーと思ったのと、歩いてるんで先生の話を聞いた後に自分の思考がなんかすごい拡張されて行くんですよね。敷衍されるというか。うん、なんかそれがね、すーごい面白かったんですよね。
 なのでそれを僕はですね、ウォーキングzoom と名付け(笑)、この授業はzoom、この授業はウォーキングzoom みたいな感じでちょっと考え方を変えたりしながらやったりもしておりました。うん。
 で、そう考えると京都にさ、哲学の道ってあるじゃないですか。あの哲学の道っていうのはまず哲学を語り合ったんですよね、先生方というか学者の方が。でもあれて語り合うのに哲学の道、道を歩くってはすごい意味があるんだなーってことは、やっぱり分かりますね、うん。すごい普通に、ただ座りながら話してるより、歩きながらの方がお互いのインスピレーションがインスパイアーされると言うか(笑)、インスパイアー…同じこと言ってる?まあいいや(笑) というようなことを思ったりもする、と。だから京都には哲学の道みたいなのがあったりするし、今ボクがこういう風に砂浜を歩きながらこうやってるのもちょっと面白いかなーなんていう思考実験をやっております。うん、面白いですね。こう、なんか天気が良くて、気持ち良くて。
 だからね、こういう感じで新いいことやってるんで、はっきり言うと今日話すこととかそんなに決めてないんですよ。まあいつも決めてないんですけど(笑)。いつも決めてないんですけど、なんて言うんでしょうね、それはそれで今日はこんな本を紹介しようとか、今週はこんなことがあったみたいなこととかを結構言ったりしてるんですけど、今週はそれこそ海に出てみようと思ったものですから、それ以上のことを何も考えてないから、今まさに walking thinking しながら砂浜を歩いてると言うような感じでございます。

生き方を覆す

 どうなんでしょうね、皆さんは。この2020年というのは結局のところ。ボクはなんか2020年が終わって2021年になって、なんて言うんでしょうね…上手く言えないんだけど、色んなものを整理しなきゃいけない年だったんだなーってことに改めて気付かされてますね、今、2021年になって。それはボクが50歳になったみたいなこともあったし、父とか友人とかとの別れみたいなものがあったりしてですね、なんかこう、すごい…今まで自分が信じてた未来というか生き方みたいなものが覆されたというようなネガティブな感情も持っているわけです。
 ところが一方で、それがネガティブなのかというと、2020年代の終わりが去年だったわけですよね、2020年で、うん。で、ボクの中ではそれはちょうど40代の10年だったんだけど、なんか震災の2011年で自分の中で考え方が変わって、色々やってきて、その色々やってきたものが2016年にTBSを辞めて、その後も新しいチャレンジをしてきたつもりなんだけど、実はその新しいチャレンジってそんなに新しくなかったんだなってことにちょっと気づくわけです。
 つまりどう言うことかと言うと、2000年代の…2000年代というか、自分がTBSテレビに居た人脈とかノウハウとかスキルとか、そういうものをフル活用して、それで自分がどういう風に生きて行けば…生きていけるかみたいなのを探るフリーランスの2016年からの5年間だったんだと思うんですね。で、それってその時振り返ればすごい新しいことをやってたような気もするんです。だけど、本書いたりもしたしとか、色んな会社のプロジェクトみたいなこともやったんだけど、それって冷静に考えるとそれまでやってた、強いて言うならボクで言うと40代の前半、年代で言うと2011年から2016年のTBSを辞めるまでと、実は大して変わらないことをやってたんだなーなんてことにも気づくわけなんですよね、うん。そうするとフリーになったっていうところで、なんかすごい自分は新しくなったと思って活動してたんだけど、それってちょっと自分の思い上がりだったんだなーなんてことに最近気づいたわけです。
 うん、なので、例えばですよ、こんな動画をこんな風に移動して撮るみたいなことって、考え方によったらただのこう…全然、新しいことでも何でもないんですけど、ボクの中での考え方としてはすごい変わってるわけです。それは何かと言うと、それまでは発注が来たらやるみたいなところってやっぱりちょっとテレビマンとしての良くも悪くも、なんかそういう、うん、なんか待ちの姿勢みたいなものがあったんですよね、うん。で、結果、色々声をかけて頂けるからそれをやって来たという意味では待ってても良かったんだけど、じゃあ自分から積極的にそれを選んでたのかというと、実はそうでもなかったんだなというか。

歩き出す

 で、それって去年からちょうどICUCっていうのをやってて、そのICUCの時にもたぶんボクはよく言ってたと思うんですけど、”来たものは拒まず”みたいな。で、自分のところに来た仕事とかをね、仕事以外のこととかも、それを自分が受けてみて、それをどういう風にエンタメにするかというか、アミューズメントにするかというか、自分のビジネスにするか?あるいは自分のライフにするか?みたいなことばっかを考えて来たという意味では、それはそれで生き方としてはありだと思うんです、うん。
 ところが、結局それって外からの環境とか自然に影響されやすいんですよね。影響されるということはどういう事かというと、良くも悪くもその環境がなかなか難しい時にはそれに自分がメンタルもフィジカルも影響されすぎてしまうというデメリットも当然あるわけですよ。それにね、やっと気づいたとも言えるし、で、じゃあどうすればいいのか?と思った時に、今日ウォーキングICUCしておりますが、ウォーキングすることなんだなってちょっと思ったんですね。歩み出すというか。自分が動く。
 だから待ちの姿勢で待ってるものをどう自分にするか?悪く言えば、どう処理するか?っていうことでやって来た2010年代を総括しなきゃいけないために、その外的要因の一番激しいものが、それがつまりコロナウイルスだったのかなーなんて思ったりもするわけです。で、それを自分が仮に、まだね、コロナは今年以降も続くと思うんだけど、自分としてなんかこう本当に自分の内側から生み出すということをそろそろやる時期なんだなっていう風に、やるタイミングなんだなってことに、うん、気づかせてもらったっていうことかなーなんて思います。
 そういう意味で、なんか去年とかに色々失ったものとかがあって、その失ったものに対しての、当然こうメランコリックな気持ちとか、ノスタルジアみたいなものは当然あって。ボク比較的歴史というか過去の記録をアーカイブするとかよく言ってますけども、その記憶をどうアーカイブするかってことは大事だなと思ってるので、それは今でも全然思ってるんですけど、それが過ぎるとアーカイブしたものへの憧憬みたいなものがすごく強すぎちゃって、すごい先に進めなくなってしまうんだなーなんてことはですね、ちょっと思ったりもするわけです。
 そう思った時に、うん、別にその過去のアーカイブを止めようとは思ってない、うん。でもそこからむしろメランコリックじゃない気持ちというか、ノスタルジアに沈殿、耽溺、するのではなく、そういうものからどう新しいものを生み出して行くのか?みたいなことってすごい大事なんだなーなんて思ったりもします。

古典に返る

 それってね、ちょうど3月にボクが通ってた東大大学院の修士の修了式があって、各先生方から一言づつお言葉を貰ったんですね。すごい良いお言葉を貰ったりとかもしたんですけど、そのお言葉の中で一人の先生が、その先生がというよりはその先生も今年退官する先生からお話を聞いたって言ってたんですけど。和歌。和歌ね、五七五七七の和歌。和歌の研究家の方が言ってたんだけど「新しいことをやる人は、それは在原業平だろうが正岡子規だろうが全部古典に帰る」って言うんですよ、うん。全部古典に帰って、その古典をどういう風に延長というか拡張して、新しいことにして行くか?みたいなことを考えるらしいんですね。で、そう思ったときに、それってあらゆることがそうなんじゃなにか?と。だから新しいことを皆さんやりたいんだったら、古典に、古典というか今まである…ボクが言ってるアーカイブって意味かも知れないけど、今までのアーカイブみたいなものを無視するということでもなく、だからってそこに、ノスタルジアに浸って昔は良かったねーって言ってるわけじゃなく、そのものからどう新しいものを自分の中で生み出していくか?っていう…、なんて言うんでしょうね、ノスタルジアとかメランコリックじゃない意味での「思い出というかアーカイブみたいなものをどう自分が構築するか?」みたいなことは結構大事なことなんではないかな?って思ったわけです。
 うん、で、それをそういう風に思った時に、そうか、自分が2020年までに思ったことって、その思い出は思い出として大事だし、活動記録としてのアーカイブという意味ではアーカイブとしてすごい大事なんだけど、それを自分の中に入れた上で自分から新しいものを生み出す、つまり自分が歩き出す、(笑)ウォーキングする、ということがすごく大事なことなんじゃないかなーなんて思いました。

削ぎ落とす

 うん。で、ちょうどね、4月、今日は11日ですけど、12日、明日は新月なんですよね。新月にね、牡牛座の新月ですけど、新月って全く新しいものを始める時期ですけど、うん、なんかそういう気持ちになって新しいことを始めようかなーと思った…うん。それってなんか自分がどういう風にこれから生きて行くのかってことを、うん、今まではちょっとネガティブな自分を慈しんでくれよ皆さん(笑) みたいなところがちょっとあったんだけど、今はもうちょっと強い気持ちで、ポジティブに、皆さんがどういう風に思うかは置いといてですけど、ボクとしてはボクという人間が仮に何かを生み出すことがあったら、別にそんなの誰にも見てもらわなくていいやとか、自分が好きなことだけやってればいいやってことではなく、そこからそれを作品に触れた人とかが、「お?!自分の生き方が…。ちょっと変えてもらったよ!」っていうことをやっぱり出す必要があるんじゃないかと痛切に感じるようになりました。
 それってね、先々月?先々週のやつ、松岡圭祐さんのやつか、ね、「小説家になって億を稼ごう」っていう本のときにもすごい気付かされたと思うという意味でもあるし、ボクの中で色んなね、色んなものがガタガタと…。新しいものも来てるんですけど、色んなものが崩れ落ちたというか。削ぎ落とす…。だから何かが崩れ落ちたんだなーってことを言った時にですね、それをボクの京都の友人とね、この前食事したときに、その話をしたら、「きっと角田さんの削ぎ落とすタイミングなんですよ」と言われて。「ああ!削ぎ落とすね。」ってちょっと思いました。
 つまりボクはアーカイブで何でも残しておこうみたいな、記憶というのを何でも残しておこうみたいな話って、良く言えばいいんだけど、悪く言うとすごい余分なものも溜まって行くというか。…余分なものもどんどん自分の中に入って行って、その中でノイズみたいなものが生まれて、ノイズっていうのはすごい意味があるんですよね。そのノイズがあるから音楽は美しいみたいな話は前もしたことあると思うんですけど、それは分かった上で、でも、やっぱり、そのノイズの中で自分がやりたいことというか、自分が人生の中でどういう風に生きるかとか、どういう風に考えるかとか、どういう風に何かを生み出したいか?っていうところがちょっとブレて行くっていうことがあるんだなってことに気づいたわけです。うん。
 そのブレみたいなものって、結局今話してることで言うと、外的要因にすごい自分が良くも悪くも…、外的要因を気にしないとか言っておきながら外的要因に左右されてるし、その外的要因を気にしすぎてたっていうところがすごくあるんですね。だから気にしすぎてるから外的要因なんか気にしないよって言ってたんだなみたいな。「おいおい、やっと気づいたのかよ。」と思われる皆さん、すいません。そういう風に気付きってのは…、気付きって言葉はそんなに好きじゃ無いんですよね、気付きというものはそういうものなんだなーなんて思ったりもします。うん。
 だから何が言いたいかと言うと、何も言ってないような感じだけど、そういう意味で言うと、ボクの中ではこの4月11日のやつはウォーキングというか、歩き出すきっかけのICUC知的好奇心向上委員会かなと。強いて言うなら今まではそんなに歩いてなくて知的好奇心をどう向上しますか?みたいなことを言ってたんだけど、今回この知的好奇心をどう歩かせるか?みたいなこと、歩いた中でどう生まれたものとかをどう発信して行くか?みたいなことがすごく大事なことなんじゃないかなーって思いました。

外と内のボルテックス

 あのー、ちなみに。あれですね、これ、こんな風に喋ってるんだけど、これ全然音とか撮れてなかったら超、 超超(笑) 超、ウォーキングしてるけど凹むな。…撮れてるのかな(笑) まあいいか。撮れてなきゃもう一回やればいいんだけどさ、もう一回やるのさすがにちょっと、ね、ちょっとと思うじゃないですか、うん。
 ね、ここ、海、皆さんあれですね、適度にちゃんとウォーキング…ウォーキングじゃないや、適度にソーシャルディスタンスを取って、皆さんこの日曜日を楽しんでるなーとは思います。うん。いやぁ、今自撮りしている海を見てますけど、海は綺麗ですね。うん、海いいですね。(カメラを引いて)ほら。この海を歩くとすごく…
 だから、面白いですね。外的要因を気にしないと言っておきながら、今海が気持ちいいですねというボクの中での外的要因、つまり今囲まれている海の気持ちよさについて語ってはいるんですよね。うん、すごい面白いな、この感覚って。うん、面白い。
 このね、自分が外的要因から感じた面白さもあるし、当然辛いこととか、人間関係とかもあるし、ね、悲しいこととか辛いことみたいなものというのを自分の内側だけでモヤモヤして、それを捨て去っちゃうのってすげぇ勿体ないことなのかなーとも一方でちょっと思ってるところがあるんですよね。そんな楽しい思い出も、悲しい事実も、辛いこととかも、なんかそれを自分の中に入ったんだったら、それこそそれを外的要因というか外側にアウトプットするってことは実は本当は大事なことで。そう思った時にその内的要因的なものをそのまま…別に誰も個人の思いなんて別に気づかれなくてもいいんだよとか、全然共感されなくていいんだよとか思ってそれを発表すると、結局自分の内側で、自分の思考の中で思ってるうずうずした、イライラした感じ、メランコリックな気持ちみたいなものを外に出してるだけで、関係…、うーん、ぅーん……、変わりないじゃないですか。だったら、どうせ外に出すんだったら、その外に出したときにやっぱり今度は違う方の、違う人たちの、違う自然とかへの外的要因として自分の、ボクが思っていることを出すっていうことが大事なんだなーって思うんですね。
 …これ上手く伝わるかな?つまり外的要因から自分が受けた喜怒哀楽みたいなものが自分の中に出来て、それを今度”アウトプットしましょう”までは去年までも話してたんだけど、でもそれをアウトプットするときに誰にもこの気持ちなんか分かってくれなくっていいぜ!俺が楽しければいいぜ!ってもし思って、それを外的要因として出していたならば、結局自分の中でうずうずしているものと一緒じゃないか?!と。うん、つまりそういうことですね、うん。どうせ出すんだったらこの海の気持ちよさみたいなに気持ちよくなるかは置いといて、出すべきなのではないかなということかなー。思ったことというか、うん。
 そういうような思いというのをどういう風に形にすれば良いかは、それこそ今考えてます。全く今までとは考え方が違う感じで考えてます、うん。今まではなんかこういう協力者がいるから、こういう人がいるから、こういう人に喜んで貰おうとか、こういう人とこういうプロジェクトやると面白いよねとか。うん、外的要因が先にあって、それとどう繋がるか?みたいなことばかりを考えていたんですけど、今思ってるのは、まず自分の中での沸々とした色んな想いをどう外側に発信して行くか?その発信して行く中で自分がどう繋がって行くのかな?ってことを考えようかなーと…うん、思ってますね。

想いをフレームの外へ結ぶ

 うん、自分の想いを外側に拡張するためには何が必要か?拡張のやり方をちゃんと一生懸命考えないとお前となんか、拡張されても繋がりたくないよ…うん、そうですね、なんか最近ちょっと思ったのはインタコースという言葉ってありますよね。インターコースってね、今の言葉だと単純にセックスするみたいな意味が多いから、そんなにネイティブな人にインターコースって言うなとかってよく言われる単語ですけど、元々は霊と霊を交換するとかね、うん、自分のスピリットとスピリットを交換するみたいなこととかってよく辞書には出てるんだけど、それがいつの間にかセックスをする意味になっちゃった、意味が使われることが多くなったって言われてますけど。なんて言うか、うん、ボクはその周りの人とどうインターコースするか?みたいなことを再定義したいのかなーなんて最近ちょっと思ってますね、うん。今までは良くも悪くもすごい弾いてたりとか、除外してたりもしたし。良くも悪くも受け入れるときは受け入れて、それにずっぽし、むしろ本当にずっぽしって、インターコースでセックスでずっぽしと言うとすごいメタファーとしていやらしい言い方になってますけど、ずっぽし埋没しちゃったりしてる自分も一方であったんだけど、なんかそれって外側とに関係においてやっぱりちょっと不健全、不健康な感じがちょっとするんですね。なんか自分の思考とどういう風に…、自分の思考と他者の思考、他者ってのは人間だけじゃなく犬も猫も自然もかも知れないし、女も男も老若男女、そういうものとどう自分がインターコースして行くのかな?世界と…。世界とどうインターコースするのかなーみたいなことを、なんかすごく、うん、すごく感じているということも知れません。
 はい。そんなわけでICUC、ウォーキングICUC、やってみました。でも来週から普通に座りながらやってるかも知れないです、はい。walking するというのはボクの中ではウォーキングすることが大事で、本当にウォーキングするかどうかということでもないということなんですけど、でもまた、これは、気持ちよければまたこの海でやってみてもいいし、なんだったら、ね、今後色んなところに行ったら、そういう街中というか、自然なのか、人の中なのか分かんないけど、そういうところでこういう話せる機会とかがあったらいいかなーなんてのも思っております。はい。ということでICUCバラエティプロデューサー角田陽一郎でございました。ホントこれ音撮れてるのかな(笑) まあいいや(笑) はい、また来週よろしくお願いします。

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文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 渋谷で開催されてたICUCが緊急事態宣言で篭り、一年経ってICUCは少し変わって、また外へ出たんだと思うと感慨深い。外から配信は面白いなと思いつつ踏む二の足。二歩目を前に出せずに踏むという意味だけど、今回外に出たから二を超えて三の足。三の足という言葉はないそうだけど、そのまま足を出し続けられる気配があるとか、もう心配ないとかを三の足の意味にしたい。

 前回の豊津徳は豊津さんの声が遠く、お二人とも声が響く。私は耳がポンコツ気味で話し声がちょっと聞き取りにくい時があるから、文字起こしするのに小さい豊津さんの声に音量を合わせ、角田さんの声がドンッと来る、この差に体が慣れるとスムーズに文字起こしできたという回だった。テレビ局なら色んな機材があり、予想出来る事態に対応できる機材まで持って行ってたんだろうけど、スマホで撮って配信できますよとなると、また別の経験が必要になる。似ているけど違う。専門とはそういうことなんだろう。

 ウォーキング「渋谷で角田陽一郎と」を思い出す「ウォーキングICUC」。歩きながらだと脳に血がよく巡って思考が拡張していくのかも知れない。一方で、これもテレビのロケと似て非なることだろうけど、人通りや足元に気を配りつつ、映像にも気を遣いつつ、話すことも考えるから、言葉がぱっと出ない時がある。場合によっては歩きスマホと変わらないので、画像を一切気にせず撮影するか、外で動かない状態で撮影とか、どうか事故、怪我のないように。

 2016年からはTBSで培ったものをフル活用し、フリーランスでの生き方を探った5年間。私は培ったものは道具だと思うので、角田さんがテレビのプロデューサーという道具をフル活用るすのは当然だと思うけど、2020年に掲げた「アーティストはアミューズメントをアーカイブする」がしっくりこなかった。多分それが①待ちの姿勢と、②誰にもこの気持ちなんか分かってくれなくっていいぜ!俺が楽しければいいぜ!」だったんだと思う。

 角田さんがアクションとリアクションについて話していたことがあった。アーティストにだって外的要因があり、内的要因を絡ませて作品にしてるのは同じだと思う。だけど、アーティストならたとえ依頼であってもリアクションにはしないというか…、リアクションというのは、私のイメージだとコンサルタントやカウンセラーの領分で、アクションした作品が人の悩みを解消するのとは違うと感じる。ここが①待ちの姿勢の部分だと思う。

 ②は…。アクションに基づく作品はどこに届くか分からないと言えるかも知れない。だからこそ「見たくない人は見るな」で間違ってないし、最後に作品を綺麗に設置する・飾るのは受け取り手だから、受け取った人の数だけ作品の完成があるとも言えるんだけど、梱包、届けるための配送方法や梱包も作品のうちとできるかどうかではないか?と思った。
 音が…の回の豊津徳での豊津さんの解説「工芸なら綺麗にするんだろうけど、鋸で線を引いたことが大事」。私が向き合っているつまみ細工は工芸なので、この部分がすごく心に残った。線を引いたことが大事、工芸との差を残す、ここまで伝わらなくても「バリの取り甘いな。忘れたの?」と思わせない梱包の丁寧さというか。

 角田さんが甘いなんてことはもちろん思ってなくて、なんというか、向かってる先は「アーティストはアミューズメントをアーカイブする」なんだけど、安全のためと履いてたけど、春だからやっぱりスタッドレス脱ごう…みたいな。そんな違いを体験されたんだろうな。

 「和歌に師匠なし」という諺があった。和歌の修練には古歌が手本となり、人間の師匠は無用だということ。動物であっても外的要因に無縁では生きられないし、本能も理性も内的要因。生きていれば自然と誰かの[内的要因/アウトプット]が誰かの[外的要因/インプット]になる。そのインタラクティブの繰り返し。外も内もアウトもインもノイズ。古歌は人が詠ったものなんだけど、詠った人のノイズの扱い方が師匠なのかな。

 角田さんの言葉を借りれば「…これ上手く伝わったのかな?」。でも文字寝かしはステーキについてくるパセリだから。基本的に食べないやつだから、大丈夫。

角田さんのメルマガ【DIVERSE】より
人生十五番勝負をやってみる

一日目(01~05歳)1977年─81年、勝ち○。
困りごとのある家でもなく、大きな病気もなく生まれた。勝ち。

二日目(06~10歳)82年─86年、勝ち○。
小4までは特に記憶に残らないほど平穏。勝ち。

三日目(11~15歳)87年─91年、負け●。
小5、持久走が異常に速くなり、年明け3学期には昭和が終わる。そしてこの年から授業中や宿題中に理解できないと睡魔に襲われ勝てなくなる。情報量に勝てなくなるスタートの年。中学に上がり偏差値の低さが悩みの種になる。負け。

四日目(16~20歳)92年─96年、負け●。
勝てる場を選ぶ、考えない、情報に触れない、無思考作戦を無意識に展開。偏差値低めの高校へ行くことで校内では成績優良、推薦で大学に行く。20歳のとき163cm /48kgだったのが50kgになると友人に「ふっくらした」と言われたがまだ標準体重以下。やり直したい期間。負け。

五日目(21~25歳)97年─01年、負け●。
大学生時代後半、就職、結婚、国の指定難病罹患。体調に良く目を向けられるようになり、以後寛解を保つ…までは勝ち。四日目の無思考作戦が裏目に出始める。世間知らずを思い知る。負け。

六日目(26~30歳)02年─06年、負け●。
職場の環境もプログラマーという職業も合わなくなり退職。家のことだけでほとんど人に会わない生活になると、予想に反して精神状況が悪化。現在の家に引っ越すし念願の猫飼いにはなる。精神的な意味で骨と皮を残して脂肪も筋肉も全て削ぎ落とし始めた時期。負け。

七日目(31~35歳)07年─11年、勝ち○。
精神的な部分の大半を削ぎ落とさざるを得なかった期間後半と脂肪と筋肉の付け直し期間前半。ものづくりに舵を切ろうとしたが、職場に呼び戻され事務として復帰。人に会うだけで精神がどう安定するかを思い知る。自分の基礎が整う。負ける中に大きな収穫あり。勝ち。

八日目(36歳~40歳)12年─16年、負け●。
脂肪と筋肉の付け直し期間後半。職場で給料未払いが当たり前になる。職場復帰したことで遠ざかったものづくりを再度視界に置く。太り続けの途中で10kg減量するもリバウンド後しっかり超えていく。負け。

九日目(41歳~45歳)17年─21年、勝ち○予想。
偶然ものづくりをしている人に会う。その人の観察のために別の仕事を掛け持ちする。給与未払いが続いた事務を退職。習い事やイベント参加など未経験に飛び込むことが多くなる。つまみ細工を始めるきっかけになる場に通い始める。角田さんに会いICUCと自由大学に参加する。観察したかった人と距離を取る。勝ったも同然。

 自己啓発系は特に苦手だったのにICUCや自由大学、その前後にもいくつかに参加したのは予想外の展開だった期間。あと1年残ってるけど、角田さん見つけただけで、ICUCと自由大学とつまみ細工とあって、もうこの先オール勝ちだと思う。

一日目(01~05歳)1977年─1981年、勝ち○
二日目(06~10歳)1982年─1986年、勝ち○
三日目(11~15歳)1987年─1991年、負け●
四日目(16~20歳)1992年─1996年、負け●
五日目(21~25歳)1997年─1901年、負け●
六日目(26~30歳)1902年─2006年、負け●
七日目(31~35歳)1907年─2011年、勝ち○
八日目(36~40歳)2012年─2016年、負け●
九日目(41~45歳)2017年─2021年、勝ち○
あと全部勝ち○。

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