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ICUC-132_2022.10.30【母と伯母との旅と三島の夜】ICUC知的好奇心向上委員会

【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee !

角田陽一郎132「母と伯母との旅と三島の夜」ICUC知的好奇心向上委員会

母(S16生)と伯母(S12生)と伊豆旅行。伯母からS20の東京大空襲と千葉七夕空襲の話を(初めて)聞く。壮絶。伯母は国民学校2年8歳。登校時に担架で運ばれた同級生の女の子、日常が破壊されていくウクライナの空襲の現状と被る。

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三島に一泊。一人でふと入った普通のお店。テレビでは日本シリーズ、黒ラベルの瓶ビールに砂肝にマカロニサラダ。普通に美味しい。
ぼーっとなにかを考えてるような、なにも考えてないような、ぼっーとする時間。
それが一番の、地方都市を一人旅する魅力。

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お疲れ様でしたの一言も無いのか。最後のミーティングなのに。。。
あんたらがダメなのは、多分そういうところだぞ。
そういう態度は対カスタマーにも無意識で出るからね。そんなビジネス上手くいかないよ、多分。
本当お疲れ様でした。

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角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

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動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

三島でゴルフ

 おはようございまぁす。ICUC知的好奇心向上委員会、角田陽一郎でございます。今日は10月30日。10月は31日があるってことで言うと、あと1日あるとはいえ、もう10月も終わりでございますね。今ね、車の中で走りながら撮ってますけど、今日は静岡県の三島からですね、ゴルフをしてですね、今帰ってきてるところだったりします。
 はい、あの、ゴルフ下手くそなんですよねー。下手くそなので何にも言う事はないんですが。ただね、下手くそなりにやってると楽しかったりと言うか。あとやってると、上手くなりたいよなーなんて。そんな事はいつも思うんですけど。思ってるだけでそんなに練習してないので、なかなか上手くはならないんですね。30代の時はまあそこそこやってたんですよね。テレビ局にいて。明石家さんまさんと「さんまのスーパーからくりTV!」ってやってましたけど、さんまさんはもうめちゃくちゃ上手くて。で、さんまのからくりTVにはね、関根勤さんがいたりとか、浅田美代子さんがいたりとか、ゴルフ好きな方がいらっしゃったんで、からくりコンペってのをね、それこそ20代の時とかやってたのか…20代、30代。
 で、30代くらいになって僕もゴルフセットを買ったりして、やったりしてて。一時期ね、テレビ局の間でもゴルフブームみたくなって。すごい行ってたら行き過ぎだ!って言われて。ちょっと自粛しろ!みたいな事を言われたりとかしたような記憶がありますね(笑) うん、だから当時韓国行ってやったりとかした事もあったし。それこそ金スマだとね、中居正広さんと回ったり。大竹しのぶさんと回ったりとかした記憶がありますね。
 で、そこから35ぐらいまではやってたんですけど。そこからパタッとやらないで。その頃って…そうか、親父と回ったりもしてたし、なんだったら友達と回ったりもしてたなー。全然下手くそなんですけどね。で、それが、なんて言うんでしょうね、35ぐらいで。そこから15年ぐらいずーっとやってなかったんです。
 ところが去年ひょんな事から…ひょうんな事って程でもないんですけどね、一緒に仕事してる人が始めたし、と言うか。で、なんか僕がいま関わっている人もやってるしと思って、久しぶりにやってみたわけですよね。あ!そのことICUCで喋ったかなぁ?つまり、それから15年経ってると、15年分体力が落ちてるじゃないですか。で、30代の頃のゴルフの下手さって、僕の中ではすぐ力むから。やっぱり力むのが良くないと思うんですけどね。ところが今の方がもう力む体力もないみたいな感じなので。そう言う意味では30代の時より上手くなってるんじゃないかな。だからほら、結構ね、歳を召した方でも結構上手い方とかいたりするんですけど。やっぱりゴルフってね、一生やれると言うか。つまり力じゃないんだろうなーみたいな。うん、なんかそういうところが面白いですよね。うん。
 まあそんな感じでゴルフでした。で、それはコンペだったんですけど。本当にもう数字とかは言いたくないくらい悪いんで、はい。もう、修行です、修行。

角田陽一郎69「他人は自分の思い通りにはならないことについて」
2021/07/18
ゴルフに、仕事に、人間関係。
あらゆることは自分の思い通りには行きません。
今日は、そんな話をしております。

■文字起こし

サンドウェッジを持つ理由

 ただゴルフで言うとちょっと面白いなーと思うのは、グリーンの近くに行くと、アプローチでね。クラブをアプローチショット用のクラブとかを持ってて。それでやってたりしてたんですけど。一方でグリーンの周りってバンカーがあるじゃないですか。砂、サンドね。そうするとサンドウェッジで出しますよね?で、迷惑かけちゃうと…僕なんか下手くそだから。ダメなんで、事前にたくさん持っていくわけですよ、クラブをね。持ちながら歩いたりして。
 そうすると、だから…グリーンの前で次に打つときに、どうせサンドウェッジを使う、つまりバンカーに入っちゃうんじゃないかなと思って事前にサンドウェッジを持っていっちゃったりするわけですよ。でも、そうするとサンドウェッジ持ってるから砂…バンカーに入っちゃうんじゃないか?みたいな。つまり暗示がかかるとそっちに行っちゃうみたいな事ってあるわけですよね。
 で、すいません、もう、下手くそだからそんな感じなんですけど。で、いつもどうしようかなーと迷ってて。結局…でも、ほら、もし僕がバンカーに入って、またクラブを取りに行ったりしてると、また時間掛かっちゃうからと思って、結局持ったりしてて。で、持ってるとやっぱり入る、みたいな感じなんで。今回どうすればいいのかなと思ったけど、アプローチのクラブを持たなきゃいいんだなと。もう、だって別に僕なんかのレベルでそんなね、微妙な差なんてないもんですから。もうサンドウェッジで全部アプローチはやろうと決めて。つまりサンドウェッジは常に持ってるんだけど、アプローチの時にも使う。つまりバンカーで使うからじゃないんだっていう風に、ちょっと気持ちを改めてみたんですよ。
 そうするとね。今回…いつもばかばかバンカーに入っちゃうんですけど、今回、入りませんでした。いや、厳密に言うと最後の18ホール目で入っちゃったっていう…。ああ、そうか。ここまでギリギリで入ってこなかったのか!っていうところが、最後に入っちゃったみたいなところがあるんですけど。うん、そこはね、なんか自分的にはね、「あ、ものは考えようだなー。」と思いました。
 これってつまりサンドウェッジを持ってるからバンカーに入ってしまうという心理状態って、バンカー用にサンドウェッジを使うからなわけであって。逆に言えばサンドウェッジはアプローチ用にも使うんだって思って持ってると、バンカーの呪い(笑) みたいなものが無くなるみたいな。これ、なんか上手くこの現象に名前をつけたいですよね。そういうことってありますよね。そういう事ってありますよね。
 だから同じ、いや結局、だからサンドウェッジは持ってるんですよ?サンドウェッジは持ってるんだけど、バンカー用じゃないって思ってると、”バンカーに入らない”っていう感じ。うん、まあ、すいません。下手くそだからそんな事言ってるだけかも知れないですけどね。まあそんな様な感じのことがあったわけです。はい。
 で、それがまさに今日。だからもう、すんごい筋肉痛なんですけど。すんごい筋肉痛なんですけど。2回言いましたけど。いやもう大変なんですよ、筋肉痛で。3回目ですけど。いやあー、あれですね。本当になんとかしなきゃいけないですね、体力的なことで言うとね。とは思いますね。

 で、まあそんな感じなんですけど。それがまさに日曜日に、今日あったんで。前日はそれこそ静岡の三島に泊まったんですよ。三島のゴルフ場だったんで。車で行こうかな?新幹線で行こうかな?とかもちょっと思ったんですけど、遅刻したくなかったと言うか。あと朝バタバタすると、上手いならともかく、上手くないもんですから、バタバタした事でスコアが乱れるんだったら、もうゆっくりと思って。
 で、前日泊まろうかなーと思ってたんですよ。そしたら、それこそ1ヶ月前くらいに親族からね、連絡が来て。お袋と、高齢のお袋とそのお袋の…伯母、お姉さんの方だから、さらに高齢の伯母と僕の妹が旅行するんで、兄貴も一緒にどうだ?と。…また咳でますね。もう咳ぜんぜん治ってるんだけど、喋ると咳出るな。
 うん。なので。そうかと思ってスケジュールを無理くり明けて。木・金と二泊三日で伊豆旅行に行こうっていう話になったんで。ああ、そうか。じゃあ木・金で伊豆旅行行って。で、翌日三島に泊まってゴルフに行けばちょうどいいじゃん!と思って、木・金・土とお袋と久しぶりに旅行に行き。で、この週末ゴルフ行ったっていう感じなんですね。

お袋と伯母と旅行、空襲の話を聞く

 で、お袋と旅行行ったのってそれこそ親父が今年3回忌でしたけど。2年前に亡くなったんですけど、亡くなるギリギリまで──だからコロナの前まで、2019年、18年ぐらいまでは一緒に旅行行ったりしててね。だから行けるうちに行こうなんて思ってたら行けなくなっちゃったなーみたいな感じで。だからもう親父を、お袋を、連れて行く事はないんだなーなんて思ってたんだけど。今回ね、お袋と行って。やっぱり高齢だからすごい足腰が弱くなってるからね、ゆっくりだし。そのゆっくりに、ゆっくりな感じに合わせるっていうのがすごくね、なんて言うんだろう、むしろゆったりしていいなーなんて思ったりしててね。
 それで伯母なんてね。親父のお葬式で会った以来だからって意味で言うと、そういう伯母なんてものはね、小学生の頃とかは結構毎年お年玉もらいに行ったりしてたりとか。夏のお盆の時に会ったりしてて。ちょこちょこ会ってたんだけど。そう言う意味ではもう何十年も会ってないよなーなんて思いながら。その伯母と一緒に旅をしたことなんて、たぶんなかったんじゃないかと思うんですよね。ってか、そもそも写真撮ったこともないぐらいなんじゃないかな?と思うんですけど。
 うーん、だから今回一緒に旅してね。一緒にご飯食べて。一緒の部屋に寝て。なんか一緒に写真撮ってみたいな。大した旅じゃないですけど、なかなか感慨深かったですね。

 で、まあね、色々話すわけですよ。お袋と叔母が。あの頃こうだったとか。小学校の頃こうだったとか。で、それをまあ僕が話に参加するときもあるけど、まあ2人で話してるのを横目で聞いてた時もあったんですけどね。
 そしたらね。お袋は昭和16年生まれ、1941年生まれで。ちょうど太平洋戦争が始まった年なんですよね。12月の7日ですよね?戦争がはじまったの。うちのお袋ってその1週間後ぐらいに生まれてるから、まさにすごい戦争の始まった年に生まれてるんですけど。だから終戦の時4歳とかですよね、うん。
 で、その伯母ってのは僕はいくつか知らなかったんですけど。「伯母さん何歳なの?」って言ったら4つ上だって言うんですね、お袋の。だから昭和12年生まれ。って事は、ちょうど終戦、昭和20年の時は8歳。だから小学校2年。そのころは国民学校って言ったと思うんですけど。国民学校の2年ってことだから、まあ終戦をすごい覚えてるわけですよ。で、そうするとね、昭和20年って3月10日が東京大空襲で。で、僕らは、僕は千葉なので、千葉市の空襲ってのが6月と7月の七夕に…だから七夕空襲って言ってましたね。そっか、七夕空襲…、七夕の日が空襲だったんだとか。そういう事なんて全然知らないわけですよ。千葉に空襲があったことは知ってるしね、3月10日が東京大空襲でってのも知ってるけど。忘れちゃってる、記憶にないって人もどんどんどんどん増えてるんだけど。
 で、その3月10日の時に千葉の方から東京の方を見てたら、もう東京の空が赤かったって言ってました。だからその赤かった空を見ながら僕のお爺ちゃん、だから伯母とお袋のお父さんは東京はやられてるんだなっていう風に言ってたっていうのを覚えてるって言うんですよ。
 その後その千葉でね、空襲とかがあった時に、防空壕みたいなものがあったりするんだけど。その防空壕とかって行っても満員だったりして入れなくて、家に帰ったっていう思い出とかあるんですって。でも家に帰って…、死んじゃうじゃんとか思うじゃないですか。でもそれしか方法がないからだっていって。で、庭に一応穴を掘ってて。なんとなく防空壕まがいなかんじだったと言ってたけど、なんか僕のお爺ちゃん、お袋と伯母のお父さんってのはそんなに手先が器用じゃなかったから、なんか防空壕とかそんなちゃんと掘れてなくて、大丈夫なのかな?って子供心に思ってたとか。
 ちょうど千葉って東京に、グアム、サイパンくらいから爆撃機がやるときのルートだから、千葉の上の通って行くんですって。まあそうですよね、今も羽田空港の飛行機ね、離陸とか着陸する時って千葉の方に来てるわけだから、まさにそうなんだなーと思うんだけど。で、そうするとこのまま爆弾を落としに行くんだなーと思ったとか。
 あとはね、「千葉の空襲って何時ごろあったの?」って聞いたら、朝方だったって言ってましたね。で、朝方なんで、通学中にやられた女の子がいたって言って。それが担架で運ばれて行くのを見ながら…その光景が今でも忘れられないって言ってましたね。で、なんかね。隣と言うか近所の子で仲良くしてた子がいたんですって。
 …あ!で、そのお袋の家は結局千葉空襲大丈夫だったの?って聞いたら…千葉の中心街に居たらしいんで、「千葉の空襲大丈夫だったの?」って聞いたら、ちょうど3月の空襲、東京大空襲があったんで、知り合いが東京から逃げて来た車が、トラックがあったんですって。そのトラックが千葉に寄った時に、このまま疎開するというか、銚子の方に行くんで、乗っかって行くかい?って言われたから乗って行って、そのまま銚子の方に疎開したんですって。銚子じゃないんですけどね、あっちの、つまり田舎の方に、千葉の。だからちょっと、もしそういうタイミングが無ければ自分達もずーっと千葉にいたから、千葉の大空襲でやられちゃったんじゃないかなーって言ってました。うん、だからそういうタイミングって…まさにね、東京大空襲で何万人も亡くなられてるんだけど、それがあって逃げてきたトラックがあったから、それがたまたま知り合いが寄ってくれたから、自分たちは救われたっていうことも言ってたりとか。
 で、あとは近所にいる子たちがいて。お爺ちゃん、だからお袋と伯母のお父さんはね、言ってたのは、「もし逃げるところが無ければ県庁に逃げろ」って。県庁近かったんですって。県庁に逃げろって言ってたんですって。だからそれを自分のね、仲良い女の子とその子のお母さんの前で言ったことがあるんですって。だからその防空壕とかが満員になったら。

終戦、残った木の根

 で、言って。それから終戦して。千葉の家にすぐ見に行きたかった、戻りたかったんだけど。もう焼け野原で何にもないって聞いたから、戻っても…特に子供たちだからねって言って戻らなかったんですって。で、それから5年ぐらいたって、昭和25年ぐらいになって戻ったら、もう全然跡形もなく無くなっていて。で、ちょうど家の門のところに木があったんですって。で、その木とかも、もう家も、影も形もなくて。木もあったんだけど、もう木も無いんだけど、根っこだけが残ってたんですって。ああ、根っこだけ残ってたんだ。でもね、その時にね、近所に住んでた女の子には会えなかったみたいだけど、女の子のお母さんにあったんですって。ああー!みたいな話になったら、”あなたに言われた通り県庁に逃げたから助かったのよ”って言ってたって、言ってましたね。
 だからそれって、つまり県庁の建物は空襲で焼かなかったってことですよね?アメリカ軍が。つまり占領した後に使える様な建物は爆撃しなかったんだなって。だから千葉で言うと千葉大とかも当然当時は見えない様にすごく黒く煤で塗ってたって言ってましたけど、千葉大の建物とかもやっぱり残ってたって言ってましたし。そうですよね。冷静に考えたら東京だって、まあ東京駅は屋根が壊れちゃったけど一応残ってたし。皇居の周りのGHQになった建物ってのは残ってたし。東京大学だってね、戦前の建物が今でも残ってるっていう意味で言うと、やっぱりそういう施設みたいなものは間も無く、たぶん降伏するから、その建物が使える様にとっておこうっていうアメリカ軍の意思があったんだろうなと。むしろ民家みたいなね、
 そういうものを焼夷弾でメラメラと燃やしてたんだろうなーなんて事が分かったりして。「はぁ。そんな事をやってたんだな、僕の伯母とかが子供の頃は…」と思った時に…。ねぇ、連日ウクライナでね、忌まわしい…まあウクライナだけじゃなくて世界中で起こってますけど。そういうものが起こってる中でね、特にウクライナなんて報道されると、地下鉄で隠れてたとか、インフラが破壊されたとか、生活している中で戦争ってものが襲ってくるなーってことを…ね、僕らは比較的遠い距離の中で見てたりするんだけど。それがね、70何年前?75年前…77年前には日本でもね、生活という中で”今日、家に防空壕掘ろうよ”とかさ。”通学中にやられた”とかね、なんかそういう様な事があったんだなーと思った時に、むしろウクライナの事をすごい想起されたし。
 それこそさっきの根だけ残ってたみたいな。家が全部無くなってて。311のね、津波の時に家が全部無くなってて木だけ残ってたみたいなのあるじゃないですか。なんかそういう事も思い出されるとすると、なんかそのカタストロフィと言うか、悲惨なん事と言うか、トラジェディと言うか、そういうものってのは何ら変わらないんだなーって言うか。で、それをね、自分の親族から直接の口で、言葉で聞くというこが…うん、こんなにも身につまされるものなんだなーと言うか。他人事じゃ無いんだなーってことがすごく思いましたね。

 だからそういう意味で、なんかお袋と伯母と今年ね、2022年に旅行をしたのは意味があったなーと言うか。どんどん、どんどんね、そういう戦争を体験している方はお亡くなりになっていってるから。僕なんか本当にそんな事を聞いた事がなかったってのは、まあ、お袋とかも子供だったんでしょ?で、なおかつ物心つくいてないんだからさ…。その後の貧しいね、戦後の貧しさみたいな話はよく聞いてて。子供の頃とかね、お米とか残してると怒られたりして。うん、それって僕なんかの世代ではあるけど、今なんかむしろ食べすぎると太るから残すな…ああ、うーん、何て言うの?残してもいいよみたいな時代に変わった時に、なんか僕が子供の頃にそういう事を…だから、なんて言うんですか?ちょっと残したダイエットした方がいいみたいなのって、ダイエットしなきゃいけないんだけど、すごい抵抗あるのはそういう事を子供の頃に聞いてたからだよなーなんて思うんですけど。
 その前のね、戦争の体験みたいなのは親族から聞いた事って僕なかったんですよね。だから聞いといてよかったなーと思うし。うん、戦争のリアリティみたいなものってすごく、すごくすごく、うーん、そういうのがどんどん忘れていくと戦争に突っ走るのかなー。どうなんでしょうね。ねぇ?中国もなんか新しい指導体制になったけど、新しくない指導体制のままになってて。で、武力行使も辞さない台湾とか言ってるけど。なんか普通にね、いや、イデオロギーとか言ってる事とか、プーチンの言ってる事とかも…ウクライナのね、事とかも。まあそういうロジックというか意見というか、考え方みたいなものはあるんだろうなーとは思うんだけど。同様に…なんて言うんだろうなぁ、そこまでして人を殺しあう事で、その領土とかを取るみたいな事って本当に必要なのかなーって、ちょっと…。いや、だって仲良くした方が楽しいし、いや何なら儲かるんじゃないかなーなんて、ちょっと思うんですけどね。どうなんだろうな?
 それって僕、最近94年に書かれた歴史の本みたいなものを読んでた時に、それってちょうどね、ソ連が崩壊して。東西冷戦が終わったって事に対して書いてる文章があってね。これから世界が平和になるから、どんどん…色々テロとかはあるかも知れないけど、基本的にはそんな中でお互いが繁栄し合うんだみたいな事を書かれてて。んー、単純に戦わない方が繁栄するんじゃないかなーなんて、やっぱり僕は思ったりするんですけどね。でも、どんどんブロック経済化してるし。んー…、どうなんだろうなぁ。とかっていう風にすごく思ったりしました。

グルメタウン三島

 うん。だからそんな事を旅行中考えさせくれて、すごい良かったなーとは思うんですけどね。で、それで木・金って伊豆に行って。で、土曜日に別れて、午前中にね。親父と…じゃないや、お袋と伯母とは。で、僕は三島に行き。ああ、やばい!明日ゴルフだから!と思って、なんか打ちっ放しとか行き。あ!やば!冬物のゴルフウエアって無いや!みたいな事でゴルフウエアを買ったりなんかしたりして。
 で、夜はね、パッと入った…とんかつ屋さんに入ったんですけど。とんかつめちゃくちゃ美味かったなぁ!三島ってグルメタウンなんですよね。昼間はね、餃子の一番亭っていう僕が3年前ぐらいまでちょっとコンサルティング的な事をやっていた西原グループの。美味しいんですよね、あそこの餃子。だからもう餃子を15個食べちゃったもんな、1人で。15個食べちゃったし、なんか静岡醤油ラーメンってのが新しく出てたから、ちょっとそれも食べちゃったし。なんならチャーハンも食べるって、どんだけ食べてんだ?!みたいな感じで食べてんですけど。
 夜もね、なんか街をぶらぶら歩いてたら、本当に…まあ俗に…むしろ汚い建物のとんかつ屋さんがあって。で、入ったらマスターが常連のお客とお酒飲んでたりしたんだけど、僕が来たからちょっと重い腰を上げるみたいな感じだったんだけど。あそこのとんかつ…砂肝食べて。マカロニサラダ食べて。札幌黒ラベルのビールを瓶で飲むとかね。いいですね~。それで、とんかつ本当に美味しかったんだよな、あそこ。あそこまた行きたいなー。なんかもう70年やってるとか書いてあったけど。

 三島ってね、それこそ富士山の山麓からの湧水が出るから水がすごい美味しいところで。水が美味しいところはご飯が美味しいって言われてますから。ね?鰻は有名だけど、それ以外もね、そんなに飾ったお店じゃなくてもね、すっごい美味しいんだよなーと思って。
 で、そこにね、入った時にちょうど日本シリーズやってたんですよ。テレビで日本シリーズを見ながらね、札幌黒ラベルのビールを飲みながら、砂肝を食べながら、みたいな。うん、で、なんか常連の客とマスターが話る話を小耳に挟みつつね。面白いですよね。仲良く話してそうなんだけど、2人とも酔ってるからだんだん喧嘩っぽくなってきて。大丈夫かな?喧嘩にならないかな?かなり喧嘩っぽいぞ?みたいな。もうやめなさいよ~って女将さんが言ってるみたいな感じとか。
 なんかそういうのって、うーん。コロナでね、立てるのあるじゃないですか、アクリル板。それが机の上にあるっていう事だけが2022年を。あとは日本シリーズがバッファローズ対スワローズだっていうところが2022年な感じはしますけど。逆に言えばそれ以外のところは昭和な感じだったなーなんて思って。うん、なんかこの感じってなんかいいなーと思いましたね。シンプルに、なんて言うんだろうな、懐かしさと言うよりこういう感じで地方都市を1人でぶらぶらしているというって、すごく…。ちょっと寂しいしね。夜とか1人なわけですよね。うん、でも、うん…、なんか楽しかったなーなんて思ったりしました。

 そう、だからこの週末はね、家族旅行。で、翌日1人三島、グルメ。で、翌日、今日ゴルフ。っていう。うん、なんか──。その間にもね、リモート会議は適度に入れて。そこでね、僕が抜ける最後の会議があったんですけど。で、最後だから挨拶とかさせられるのかな?別に挨拶じゃなくても、どうもお疲れ様でしたって最後に一言言おうかなーと思ったら、その会議、僕がはリモートだったんですけど、もう僕のことなんか無かったかの様にやられてて。で、最後に角田さんお疲れ様でしたとか言うのかなーと思ったら、そういう事もないままブツッて切れて。ぅわあ、ひでぇなーって思ったりしてね。その会社がそういう事をやってる…で、そういう事を従業員にやってるって事がカスタマーにはやってませんよって言っても、カスタマーにも伝わるんだと思いますよね。それって色んな会社とお付き合いあるけど、そのトップとかね、そういう要所要所の人の人間性みたいなものってすごい出るなーと思った時に、ああ、そのチームから外れた事って、まあ残念だなとは…やっぱり僕は関わってるものは一生懸命やりたいなーと思ってるんだけど。外れたってことは、ああ、むしろそういう人達だから外れたんだろうなーなんて思ったりしてね。
 でもね、それをそんな風に思って、まあいいや、いいやと思うほど僕も聖人君子じゃないからね。きっちしカタを取るというかね、そういう舐めた事をした奴らには、舐めたことし返してやろうかなーなんて思ってますし。そんなに甘く見るんじゃ無いよって思いながらね、うん。
 そんな事もね、誓いながらも。でも、うーん、総じてなんか色んな事が気付かされる週末でございました。はい、ICUC知的好奇心向上委員会でございました。また来週よろしくお願いいたしまーす。

字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 大学生の時にスキー合宿があって、確かそれで体育の単位が取れてたので、保険証を持って参加した。そのとき友人曰く「持っていったら怪我するみたいだから持って行かない」と。へぇ!そんな風に考えるんだ!と思った。懐かしいな。
 (大学生のときはまだ”保険証のコピー”だったかな?家族用のやつ発行してもらうんだったかな?それも懐かしい。)
 去年、知人が「8月は怪我に注意って占いの本に書いてあったのに怪我してしまった。占いが当たった!来年も買う!」という話をしていた。例えば「いってらっしゃい」に続けて「車に気をつけてね」とかよく言うけど、脳の機能としては逆効果になり、車に気をつけなきゃと無意識に車に意識が行きすぎて怪我をしてしまうんだと聞いたことがある。角田さんのクラブ選びもこれに通ずると思う。
 角田さんお得意の思い込み。プラシーボ?確証バイアス?エフィカシー?色々言葉はみつかったけど、おお!これだ!というほどには調べられなかった。絶対に心理学系の言葉でぴったりのものがあると思うんだけどな。

 おばさん、おじさん、確かに何年も会ってない。母方は母を筆頭に馬が合わないので、それこそ20年以上、父の葬式以来会ってないし(たぶん今後会うこともなさそうだし)。父方も祖母の13回忌があった10年前くらいが最後かも。基本は関西、うちだけ関東だから会いにくいのもある。私の「親族・家族なんだから近くに、連絡はまめに、という感覚がないのはこの環境で問題がないからかも知れない。頼りがないのは元気な証拠的な。
 父とおば達と祖母で、子供の頃どうだったって話をしてた記憶がある。父が高校生の頃、帰ってこない猫を注意するつもりでドアを開けてやらなかったら、猫はそのままどこかえ行ってしまったとか。おばさんが鳥を飼ってて、夜になると布を被せていたんだけど、何日か布を取るのを忘れてしまい、そーっと布をめくって「おはようさん、ごめんねぇ、生きてる?」と確認して生きてたとか。今より理不尽が多かったであろう高校の校則で、丸坊主にしないと修学旅行には参加できないという学校の判断に納得いかなかった父が、屋根に登って降りてこなくなり、祖父がなだめに行ったとか。そういう意味で、父によく似た弟にとって、父が早くに亡くなったのは想像以上の痛手だったのかなとよく思う。そう言えば、昭和30年代の写真に弟が「ぼくがいる!」と言ったことがあった。それは若い頃の父だった。

 防空壕。我が家の周りにはたくさんある。湧水が多いから製造に向いていたんだろうな。一見防空壕にみえないほど小さかったり、竹垣で中に入れなくなってるものもあるけど、近くの公園の防空壕は雷電の制作を行なってたそうで、最近は壕の奥の方にライトアップされた雷電模型が展示されていた。小さいものは住民用で、大きいものはみんな軍の壕らしい。竹藪などの見えにくいところに掘られてるから、夜に見ればおどろおどろしく見えるけど、私は気持ちが引っ張り込まれると出てこられなさそうなので、あまり感傷的に眺めることはしないようにしている。

 占領後に役所など使える建物は攻撃対象外にする。今週YouTubeで見かけた九龍城砦の動画を見たけど、同じ理由でイギリスは九龍城砦を攻撃しなかったと紹介されていた。でも清朝が頑なに手放ず、イギリス領にも、その後の中国領にもならなず、無法地帯となる。香港返還までの間に独自の進化を遂げ、中国の手に帰って解体された。住民達で自治を行い、貧しいながらも安全な生活を確保していく話が面白かった。九龍城砦解体時に見つかった砦の南門跡と石製の巨大な扁額は九龍寨城公園に今もあるそう。その他、清朝時代の建物も少しは残ってるらしい。元の砦の姿も見てみたかったな。
 言われてみれば焼け野原にしたら統治するために誰かを派遣する必要がある。そうでないとアキラみたいに色んな勢力が勝手に統治しそうだ。派遣した人をテント暮らしにするわけにもいかないし、復旧が統治のための拠点建築からでは遅すぎる。統治できる状態で統治下の復旧をするのが理にかなってる。さすが角田さんのお祖父さんだな。そういうところをちゃんと知ってたんだろうな。

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