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ICUC-089_2021.12.5【君の中にドフトエフスキーはいるか?】

【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee

推薦図書
ドストエフスキーとの59の旅/亀山郁夫著/日本経済新聞出版

角田陽一郎89「君の中にドフトエフスキーはいるか?」ICUC知的好奇心向上委員会

亀山郁夫『ドストエフスキーとの59の旅』

亀山郁夫さんの『ドストエフスキーとの59の旅』最高だった。
全体に通底する感傷的に生きることへの氏の肯定感が心地よい。あまりに素晴らしくて一気に読んでしまった。ドストエフスキーとまだ出会えてない自分の人生の過去への若干の後悔と、これから出会えるという未来へのワクワクする期待感。

生きた人間の存在が、ケシ粒のように空しく感じられる空間。逆に、この空間としのぎを削って生きる小説の主人公たちの大きさ。実在の人間は名もなく死に、架空の人々の記憶は、人類の知のタンクに収められて綿々と生き続けていくという、このふしぎな矛盾。p.217

一人の人間が他の人の死を願望し、人の苦しみを黙過し、人の死を運命に向かって唆す。それが人間が人間であることの、ある意味では根源的といってもよい条件の一つなのだ。そのように考えることは、わたしの恥部であり、恥部は隠さなくてはならなかった。そして幸い、ドストエフスキーがわたしの身代わりを務めるかのように、その「根源的」な恥部をさらけだしてくれた。

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

バフチンからドストエフスキー

 …します。今日も配信でやってみようと思います。今こうなんか加湿器、加湿器というかアロマの(笑)煙がこう横から来てて。まあいい匂いですけど。なんかスモークマシンみたいな…見えるかな?うっふっふっふ──みたいな感じですけど。すいません、よろしく願いいたします。配信始めると聞こえてるかどうか分かんないから不安になるなーなんてことを言いながら…まあいいや。やってみましょう。
 はい。ということで、久しぶりになんですけど今日は本の紹介から行こうかなーと思うんですけど。これですね。亀山郁夫先生のドストエ フ スキーと59の旅…ドストフェ…「ドストエフスキーとの59の旅」っていう本がですね、素晴らしく良かったので。素晴らしく良かったので一気読みしちゃったんです、こんな、結構厚い本なんだけど。まあ、あの、そんなに字数があるわけでもないんですけどね。すーんごい良かったんですよ。なので今日はちょっとそう言うことを話したいなーと思って。
 まあ簡単に言うと『君の中にドストエフスキーがいるか?』っていうタイトルにしてみたんですけど。それはつまり『ボクの中にドストエフスキーがいるか?っていう問いでもある』んですけどね。これどういうことかと言うと。そもそもこの本をいつ買ったか覚えてないんだよなぁ。覚えてないんです、いつ買ったか。えーと、本自体は10年前くらいに出た本…2010年に出てるんですね。でも一刷りで買ってるんだよな。だからなんかこのタイトルに惹かれて買ったんだと思うんです。で、そもそも今ですね、ボクはいま東京大学大学院の文化資源学研究専攻の博士課程1年なんで、もう、ちょっと、遅いんですけど、そろそろ博士論文のタイトルとかを考えなきゃいけないよなーというか。タイトルというか何を研究するかということをね。で、その指導教官の東大の中村教授と色々ディスカッションとかをしてて。で、まあ、テレビからビジネスみたいなことを研究しようとは思ってるんですけど、その中で先行研究として一人、面白いなーと言ってたのがウンベルト・エーコね。イタリアの「薔薇の名前」を書いた。ウンベルト・エーコってね、記号学者でもあり、作家でもあり、元々テレビマンなんですよね。だからなんか角田さんと共通点ありますよねーとか言って頂けて。
 で、ボクはイタリアも好きだし、ちょっとウンベルト・エーコの研究をひとつの柱にしようかなーなんて思いながらも、先生からね、バフチンっていう…なんて言うの?学者?それこそ今から100年とは言わないけど80年前くらいのロシアのね、研究家がいますけど。…哲学者!うん、ミハエル・バフチン。1895年生まれ、1975年死亡だから、本当に100年前くらいから活躍…も、なかなかしてないんですよね、生きてる時はね。まあそれはいいんですけど。バフチンのね、というのの結構研究している対象みたいなもので言うと、なんかちょっとボクの、彼は小説でやってるんだけども、ボクがバラエティ番組でやってみるっていうのは彼の、バフチンの考え方を取り入れるとちょっと面白いよなーなんて思ったりしたわけです。
 で、バフチンの入門書みたいなものを新書で出てたのでちょっと読んで。で、読み終わったと言うか読んだんですけど。その中で彼はね、ドストエフスキーの史学という、ドストエフスキーの研究から入ってるわけです。で、ドストエフスキーの文学ってのはこうだみたいな、様なところから文学というのは…みたいなことをやってるんですけど。

ボクはドストエフスキーを読んだ?

 じゃあドストエフスキーをボクは読んでるのかな?と思ったところ──うん、あの、「カラマーゾフの兄弟」は読んでます(笑) むしろ。「カラマーゾフの兄弟」は読まなきゃいけないなーと思って、確か村上春樹さんが好きな3つの作品の中にフィッツジェラルドの作品と…グレート・ギャツビー。あとドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」と。あともう1個なんだったけなぁ。何かを上げてたんですよね。

(補)
「もし『これまでの人生で巡り会ったもっとも重要な本を三冊あげろ』と言われたら、考えるまでもなく答えは決まっている。この『グレート・ギャツビー』と、ドストエフスキー『「カラマーゾフの兄弟」』と、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』である。」
ということがグレート・ギャツビーのあとがきに書いてあるらしいです。

だから「カラマーゾフの兄弟」を読まなきゃいけないなーと思って20代の時とかに手に取ったんだっけなー。取ったけど結局読み終わったのは30代くらいだと思うんだけど。なんとか読み切ったんですよね。だから「カラマーゾフの兄弟」は読んでるんですよ。でも実は「罪と罰」とか「悪霊」とか「未成年」でしたっけ?とか、全然、全然読んでないじゃんっていう。全然読んでないなーなんて思いながら…。だから「地下室の手記」はそれこそ亀山郁夫さんが「地下室の記録」ってタイトルで訳し直してるのを去年読んだんだよな。

 うん、それも文芸誌評論の授業とかを取ってて。でも読んでみなきゃと思って読んでみたんだけど。だからドストエフスキーって読んでないじゃんって言うか。それってだからシェイクスピアもちゃんと読んでるのか?と言うと何となく読んでるけど、何となく読んでないみたいな。じゃあセルバンデスは読んでるのか?とかね、ラブレは読んでるのか?とか思った時に、全然読んでないよなーなんて思って。
 で、うん、なんか、これ前もどこかで、このICUCで言ったんですけど。うん、なんかもうボクもいい歳なので、別に今流行ってる作品がどうだとか言うより、なんかそういうものをちゃんと体験して死んで行きたいなーとか(笑)ちょっと思うわけですよね。って思った時に、ドストエフスキーを…だって「失われた時を求めて」のジョイスだって読んでないしとかね。カフカだって何冊か読んでるけど読んでないしとか。なんか全然読んでないじゃんみたいなことって、つまり何かボクの中での広く浅くと言ってるんだけど、それはそれで何か浅すぎるみたいなところってあるよなーなんて思って、ドストエフスキーを読んでみなきゃと思って。
 でもなんか買ってあるだろうと思って自分のこの本棚のところを見たらですね、カラマーゾフはあったんですよ、読んだからね。ちなみにね、新潮文庫が3冊[上/中/下]だったかな、カラマーゾフがあって。えぇと、岩波の「カラマーゾフの兄弟」は1冊目だけありました(^^) だぶんあれ1冊目だけ買って、なんかよくよく調べたら新潮文庫の翻訳の方が読みやすいみたいなことを確かどこかで仕入れて、岩波を読まなかったから1個しかないんだよなーとか思いながら。
 そんなことを思った時に、ドストエフスキー全然持ってもいないんだって。あと「冬に記す夏の印象(夏像冬記)」って、それはなんか浪人時代に予備校の先生がこれはちょっと読んだ方がいいよって言う、なんかドストエフスキー・マニアの先生がいたんですよ。で、言われてなんかドストエフスキー全集を確か下北の本屋で買った記憶があるな。それはあります。うん。で、そうだなーと思った時に、ドストエフスキーを自分の本棚で調べてたらこのタイトルがポッと出てきたんですね、「ドストエフスキーの59の旅」って。ああそうか!と思って。で、亀山郁夫さんはまさにドストエフスキーをすごい翻訳されてる方だから、ちょっとこの際読んでみようと思って、まあちょっと読み始めたわけですよ、3日前くらいかなぁ。

中身は言わずに薦めたい

 ──っそしたらねぇ、この本スーパー面白かったです。SUPER面白かった!このスーパー面白かった…だって一気読みしちゃったんだもん、本当に。なので、今日はこの話をしようという意味で言うと。ゔゔ〜ん、ボクね、そこまで言っといてあれなんですけど、あれですね、書評というか本の良さについて的確に動画とかで、まあ文章ならまだしも、文章もそんな書評みたいなこと書いたことないけど、的確にこの本の良さを伝えられるか?って言うとダウトですね。で、それはなぜかと言うと、なんかボクがここで──だから、あの、何でしたっけ?ネタバレしちゃうみたいなことってのを意識してるというのが本質的にあるんだけど、ボクのこの話を聞いてこの本を読むよりも、そんなことを知らずにこの本を読んだ方がこの本との出会いという意味では、この動画を見てる人にとっても価値があるのではないかな?って思っちゃうから。そんな勧めたくないんですよね。なんか、すごい勧めたくないなって言う思いがあるんですよね。あ、勧めたいんだ。勧めたいけど中身について話したくないって言うか。
 でね。と言いながら話すんだけど。この亀山郁夫さんは中学校の時だったかな?それこそドストエフスキーのね、「罪と罰」を読んで恍惚な気分になったっていう。気分というか…うん。そこからドストエフスキー熱みたなのが出てくると言うか…なんですよね。それがたぶん東京外国語大学に入学されて、その時って学生運動の時代とかだからどこまでちゃんと授業が行われてたとかそんなのは分からないんだけど、そういう…。
 これね、章立てが全部、例えば「一九七一年四月、東京」とか、「一九八四年、モスクワ、ナホトカ」とか、「二〇〇八年、東京、三鷹」とか、その時の自分のことが書いてあるうえに、なおかつその時のドストエフスキーのこの作品の…だからその人の、亀山さんの人生とドストエフスキーとの出会いと、そのドストエフスキーが小説で語ってることが、3つがミックスされて文章になってるんですよ。だから亀山郁夫少年、あるいは青年、あるいは亀山郁夫おじさんが、亀山郁夫研究者が、こう思ったみたいなことを、ドストエフスキーがその作品をどういう風に思って書いたか?みたいな話と、あるいはその小説の中での話みたいなものをミックスドされててですね、書かれてるからね、……面白い。面白いって言うか、ボクこういうの好きなのかも知れないですね。
 福岡伸一さんのベストセラーのね、「生物と無生物の間」って本あるじゃないですか。あれもボク大好きなんですよね。あれ基本的には生物と無生物の間には何か違いがあるのか?って話をサイエンス・ルポというか、化学のことについて書いてるんだけど、それがね、ミステリーの謎解きみたくなってるんですよね、あの本。あの本ってすごい…福岡さんってすごいなーと思うのは、あの本って読み物としてミステリーとして面白い上に、サイエンスエッセイって言うかになってるところがすごいなーと思うんだけど。これもまさにそう言う感じなんですよね。基本的にはエッセイ。「13歳夏の「罪と罰」との出会い。連合赤軍事件と卒論での決別。1980年ソ連の恐怖。原点からの再出発。世界文学の名作を現在の日本に蘇えらせた著者の自伝的エッセイ集」って書いてありますけど。うん、そこがね、なんかすごく、まず、だから、この本の出来としてもすごくそういう構造的に面白いんですよね。

翻訳の続き

 で、その中で彼は13歳の時に出会ったんでしょうね。で、ここに本文に書いてあるって帯に書いてあるんですけど、これを読まさせて頂くと。

『一人の人間が他の人の死を願望し、人の苦しみを黙過し、人の死を運命に向かって唆す。それが人間が人間であることの、ある意味では根源的といってもよい条件の一つなのだ。そのように考えることは、わたしの恥部であり、恥部は隠さなくてはならなかった。そして幸い、ドストエフスキーがわたしの身代わりを務めるかのように、その「根源的」な恥部をさらけだしてくれた。』

 って書いてあるんですけど。うん、だからたぶん13歳の時に出会って、そのドストエフスキーの作品というのがまさに自分の苦しみとか、「一人の人間が他の人の死を願望し、人の苦しみを黙過し、」黙過ってのは黙ってやり過ごしちゃうみたいなことですよね、とか。「人の死を運命に向かって唆す。」みたいな、悪いことみたいなことって、たぶん根源的にやりたくなくてもやってしまう、もしかしたらやってみたいみたいなところがあるという、その人間の恥部みたいなものをドストエフスキーが肩代わりして書いてくれたんだって言う。そう、あ、今メッセージ頂きました。あぁ、メッセージ見たと思ったら消えちゃった。そうそう、亀山さん目線でドストエフスキーのこと書いてるんですよ。だからすっごい面白いんですけど。
 それでね。その、つまり亀山さん、それでも大学時代に結局ドストエフスキーと決別するんですよね。なんでかってことも書いてあるんだけど。それでなんかこう、もっと、現代作家の研究をやってるんだけど、歳とってからまたドストエフスキーに戻るんですよね。で、戻った上で、戻ったことで、だいぶドストエフスキーと関わることで、むしろそれまでの研究者と大分離れちゃったよみたいな後悔みたいなことがあるって言うか。だから亀山さんのすごいナイーブなところみたいなもの、亀山さんというか、翻訳者のナイーブなところみたいなものがすごい出てきてるんですけどね。それがまた気持ちいいんですけど、うん。
 で、ちょうど「カラマーゾフの兄弟」を訳し終わった時のこととか、それこそ「罪と罰」の翻訳の終わった後とか、そういうことについて書いてるんですよね。亀山さん、結局「カラマーゾフの兄弟」「罪と罰」「悪霊」を訳してるのかな。そう、で、これはあれですけどね、光文社古典新訳文庫の、これはボクは持ってたわけですね。「白夜/おかしな人間の夢」なんで、これは安岡さんっていう方が訳してますけど。

白夜/おかしな人間の夢 ドストエフスキー著/安岡治子訳(光文社古典新訳文庫)

 で。このエッセイを見ると、つまり13歳の時にドストエフスキーに出会って、すごい衝撃を受けて。たぶんドストエフスキーの作品って全世界の色んな人に衝撃を与えていて。で、彼は結果的にそこからまた翻訳に行くっていう。でね、これって2010年の時点での本だから、まだあれなんですけど、その後、この中に書いてある…だから2010年の段階ではまだやってなかったんだけど、その後、たぶん彼はやったんだと思うんですけど──「カラマーゾフの兄弟」の続編を亀山さんは小説として書いてるんですよね。「続カラマーゾフの兄弟」だっけな?「新カラマーゾフの兄弟」だったっけな?忘れちゃったけど、やってるんですよね。それを書こうということみたいなこともここに書いてあるんだけど。そこの一節だけがまたすっごい、これ本当に鳥肌たつくらい面白いんだけど。

新カラマーゾフの兄弟(上)/亀山郁夫著/河出書房新社
新カラマーゾフの兄弟(下)/亀山郁夫著/河出書房新社

ドストエフスキーが死んだから皇帝は死んだ?

 何が言いたいかって言うと、「カラマーゾフの兄弟」って、あれ、途中で終わってるんですってね。途中で終わってて、続編を構想してたんだけど、ほどなくしてドストエフスキーは死んじゃうんですよ。で、死んじゃったんで、続編はない。っていうことになってるんだけども。色々こう分析すると、革命運動の方に進むみたいな方向にドストエフスキーの、「カラマーゾフの兄弟」の続編は進んでいたのではないか?ってことが推論として成り立つんですって。色んな研究をすると。その「カラマーゾフの兄弟」の方の端々を見るとこれ続編に向けての振りが書いてあるんじゃないか?みたいなね、こととかもあるらしいんですよ。
 でね。ところがドストエフスキーが亡くなった後、本当に、数ヶ月…1ヶ月だったっけな?数ヶ月してクーデターを起こすみたいなことを小説に書こうと思ってたんだけど、実際、その皇帝って亡くなっちゃってるんですって、ロシアの皇帝って。だから、何が言いたいかって言うと、もしドストエフスキーがそのまま生きていても、皇帝ってそこで…殺されたんだっけな?死んじゃった、とりあえず死んじゃったので、元々構想していた皇帝をクーデターで革命を起こして殺すぞ!みたいな小説は出来なかったんじゃないか?って言うんですよ。もし仮に生きてたとしても。仮に生きてたとしても…だから、死んだから「続カラマーゾフの兄弟」は出来なかったんだけど、生きてても時代的には数ヶ月後に皇帝が亡くなっちゃってるから、革命を起こすって小説にはならなかったんじゃないか?ってことがまた書いてあるんですよ。
 ね、そこまではそうじゃないですか。…と思ったんだけど!実際ドストエフスキーが亡くなった時って、ドストエフスキーってもうすごいその当時人気者だったから、何万人がその死で、彼のお葬式というか、彼の死を悼んだんですって。もう本当にムーブメントになったんですって。そのムーブメントになって、人がわぁーっ!って集まったみたいなパワーが結局その皇帝の死を招いたんじゃないか?って。
 ってことは、一周回って──どう言うことかと言うと、ドストエフスキーが亡くなったんだけど、亡くなったことで皇帝を殺すというクーデターを起こすみたいなことは小説としては生まれなかったんだけど、実際それが起こってしまったのは、ドストエフスキーが亡くなったからではないか?みたいな。ね!面白いでしょう?だから本当なのかフィクションなのか、亀山さんの空想かも知れないし、科学者としての分析かも知れないんだけど、そういうところがもう小説として…それ自体がもう小説として、小説じゃないんだけどね、小説として面白いなーみたいなことが書いてあるわけですよ。
 で。それで終われば「ふぅん」なんだけど。「ふぅん」というかそれでも当然面白いんだけど。ただ、もしここで、じゃあ皇帝も死なずに「カラマーゾフの兄弟」の続編をドストエフスキーが書いてたとしたら…死なないでね、書いていたとしたら。そもそも亀山郁夫さんは「カラマーゾフの兄弟」を訳してたんだろうか?あるいはボクはドストエフスキーの研究科になっていたのであろうか?あるいは自分はロシア文学までやっていたのであろうか?みたいなことも書いてあるんですよ。つまりそれってバタフライ効果ですよね。ちょっとした変化が全世界の自然環境で起こるみたいなこともあるけども、人の死とか、人の作品っていうのはバタフライ効果を起こすのではないか?みたいなことが書いてあって。もし、IF みたいな話ってのはすごい空想なんだけど、それを考えていくと、ぐるぐる回ると、結果的に今自分が「カラマーゾフの兄弟」を翻訳し、なおかつ自分がその続編を小説として書いたみたいなことまで行ったのって、その瞬間、そのタイミングでやっぱりドストエフスキーが亡くなってたというバタフライエフェクトがあったからではないか?って言うことが書いてあって。
 まあそんな様なことがもっとあるんだけど、たくさん書いてあるんですよ。こーれ面白いんですよ。これね、絶対読んだ方がいいですよ。あの、ボク、死ぬまでに死んでも見た方がいい映画とか、死ぬまでに死んでも読むべき本みたいなのにこれ、ちょっと認定ですね。ぃいーやぁ、面白かった!でもその後調べたら亀山さん、ドストエフスキーを巡るか、ロシアを巡るみたいなエッセイをたくさん出してるから、もっと色んなものも面白いのかも知れないしね。うん。というような感じです。

ボクのバタフライ効果

 だからそのバタフライ効果みたいな話で言うと、結局話が戻るんだけど。ボクは博士論文を書こうとしてて、そこでウンベルト・エーコとロシアの哲学者バフチンの理論を自分の研究にちょっとこう分析に使えないかなーと思ってバフチンを読んでみたところ、バフチンはドストエフスキーのことを書いてるから、バフチンの研究の前にドストエフスキー読まないでいるのはなんだなーなんて思って読んでみようかなと思ったんだけど、本棚を探したらなかったんだけど、ドストエフスキーで探してたらこれを買ってたことを見つけたという。で、これを買ってたことなんか覚えてない、と。なんだけど、この本棚に、この後ろの本棚にあった!っていう、バタフライ(笑) これもこれで、すごい面白いなーと思いわけなんですよ。
 うん。でね、そのボクがね、なおかつそこで思ったことって言うのは、結局文章で残しましたけど。えーと、どこに残したっけな…Facebookに残したっけな…ちょっと待ってくださいね。
 あの、結局、これ読んでて、亀山さんのナイーブさみたいなのがすごい面白かったんだけど、それを纏めるとこういうことを書きました。

 亀山郁夫さんの『ドストエフスキーとの59の旅』最高だった。
全体に通底する感傷的に生きることへの氏の肯定感が心地よい。あまりに素晴らしくて一気に読んでしまった。ドストエフスキーとまだ出会えてない自分の人生の過去への若干の後悔と、これから出会えるという未来へのワクワクする期待感。

 って書いたんですけど。そう、つまり、そこからボクの話になるんだけど。結局ボクはそんな感じでドストエフスキーと出会えてないんですよね。ボクがもし13歳の時に出会えてたらロシア文学の研究科になってたのかなーとかね、そんなことを思うわけです。で、それは別に今日のタイトル『君の中にドストエフスキーはいるのか?』って言うような意味、という意味もあるし。ドストエフスキーってのは別にドストエフスキーじゃなくてもいいんですよ。誰でもいいです。あなたの中に、それはボクの中に、そういう自分の人生を捧げてもいいっていうような先人っていたのかな?いなかったのかな?と思った時に、なんかこう今これからね、そういう意味でドストエフスキーと出会うというわくわく感は確かにある。これから出会えばいいじゃんっていう。一方で、そんな人に出会えないまま半世紀くらい生きてしまった自分という、若干の後悔。残念感、みたいなものってあるなーと。それに気づいたなっていう。また亀山さんの感傷的なものへの肯定と言っときながら、自分も感傷的になってしまうんだけども。
 例えばそれって…だからもしこれを見る人、見た人、この動画を見た人で、若い人とかがいたら、やっぱりなんか1個、一人に一人じゃなくてもいいですよ?そういうのがあると人生ってのはすごい面白いんじゃないかな。亀山さん今年70くらいかな?なんだけど、つまりドストエフスキーを1回挫折したりとかね。うん、72歳か。なんかそういうのも含めて、自分の人生を賭けてまでも研究しようみたいな人との出会いっていうのってのは掛け替えのないもので。それに13歳で出会うとか、20歳で出会うとか、ボクみたく50過ぎて出会うとかって、やっぱりちょっと違うなーっていう寂寞感というかね。寂しい感じはあるよなーとは思いました。

ボクの中にいるのは、、、

 ボク、じゃあボクの中でそういうのってあったのかなーと思うと、まあ何回もよく言ってますけど、16歳の時に出会ったムーンライダーズっていうロックバンドね。それは好きですね。うん、ムーンライダーズは好きですね。だからボクは今でも思ってる、頭の50%、過半数はムーンライダーズで出来てるなーみたいなのってあるなぁ。16歳の時に出会ってしまったってのはなかなか大きいなっていうのがありますね。で、作家で言うと20歳か、大学1年の時に出会ったボルヘスね。アルゼンチンの作家は好きで全部読んでますね。あと大学後半くらいからアガサ・クリスティとかにはまって、アガサ・クリスティのポワロシリーズ、ボク全部読んでるし。でも、それとは別に小学校の時とかに市川崑監督のね、金田一耕助シリーズを読んで、すごい大好きで、そこから映像みたいなものに興味があって、映画を撮りたいなーとか。で、まあテレビみたいなものにも結局行ったわけですけど。で、そこから金田一耕助も横溝正史も全部読んでるんですよね、とか。そういう風にありますね。
 うん。一方で森鴎外好きなんですよね、大人になってから。30代40代ぐらいになってから。あとガルシア・マルケスとかね。「100年の孤独」とかやっぱり好きだったりもします。音楽には音楽で好きな…で、村上春樹さんは1986年に「1973年のピンボール」を読んでそれは「仕事人生あんちょこ辞典」にいも書いてあるんですけど「仕事人生あんちょこ辞典」を一緒に書いた加藤昌治くんね、博報堂の。彼から教わったっていう。
 (チャット欄)「ストーンズはいつ頃から」あのね、ローリングストーンズを好きになったのはですね、浪人の時ですね。今メッセージ頂いたんで。浪人の時に下北沢に河合塾が東北沢にあって。下北に寮があったんで、そこの寮に入ってたんですボク。家から通うと勉強しないから。で、その時に1989年ですね、ディスクユニオンとかレコード屋さんでレコファンだっけ?とかあって、そこでローリングストーンズとかばかばか買ってましたね。もうつまり自分の浪人のストレスは音楽でしか解消できなくてみたいな。だからローリングストーンズみたいなものは19…18歳、19歳の時ですかね。だからローリングストーンズとかビートルズとかもすごい好きですし、とか。あと岡村ちゃんね。岡村靖幸さんが好きなのは高校…浪人の時だ!浪人の…高3!高3だ。1988年、高3のとき…それも河合塾だけど、横浜の河合塾までわざわざ行ってた時に、横浜の河合塾、今なんて言うんでしたっけ?ルミネじゃなくてビブレのところにレコード屋さんがあって。そこに行ったら──(チャット欄を見て)あ!スティール・ホイールズの頃ですね、まさにそうです、最初に買ったのスティール・ホイールズかも知れない、最近のだから。あとは昔のを順々に買っていったけど。スティール・ホイールズを買ったなー。スティール・ホイールズ・ツアーは日本に来たんでしたっけ?うん、まあそんなことはさておき。
 で、それで岡村ちゃんはね、その時にちょうど「靖幸」ってアルバムが出て。「だいすき」って曲が今井美樹さんがHONDA「today」のCMで使った時に流れていた曲があって、その曲が好きだなーと思ってレコード屋さんに行ったら「靖幸」が面陳されてて、買ったのが岡村靖幸さんのファンの始まりだなーみたいな。
 まあそういう風に色んな出会いがあるんですよ。でも出会いがあるんだけど、なんかボクの中で言うと亀山さんのドストエフスキーまで行ってたのかな?なんかそこまで行くことをちょっと自分の中で止めてたという、こう…つまりバラエティじゃないとダメだなみたいな。一つのところをぎゅーっと行っちゃダメだなーみたいな。ダメだなって思っちゃった自分がアホなんですけどね。でもぎゅーって行って…、当然それも亀山さんもそこから色々よれてるんですよ。よれてるんだけど、結局亀山郁夫はドストエフスキーに戻ってくるっていう感じって言うか。その感じって、なんかすごく……羨ましい。うん。だからもしこれを見ている人だったらね、なんかそういう人を一人でも持って、なんかそれを仕事にしようとか別に研究しようまでやらなかったとしてもね、なんか…なんて言うんだろうね、自分の人生の拠り所みたくなったらすごいんじゃないかなって思いました。
 はい。ボクはボクでね、今、ウンベルト・エーコをそういう風にしてみようかなって、50過ぎになってから思ってるというところではあります。「薔薇の名前」はやっと読み終わったんだよな。今「フーコーの振り子」を読んでるんですけどもね。うん、まあソースは別に小説じゃなくて映画とかでもいいんじゃないかなーとは思いますけども。本当に本当にこの本、一気読みしたのでお勧めでしたというような感じで、今日のICUC知的好奇心向上委員会は終わりにしたいと思います。また。

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文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 …ドストエフスキー?ドフトエフスキー?ずっとスの方で打ってたけどYouTubeの題はフの方だ。検索すると8:2くらいでスの方が多いらしく、どちらも不正解ではないとのこと。また一ついいことを知った。

 亀山さんとドストエフスキー。大学時代に決別してからまたドストエフスキー研究に戻るくだりを聞いてると、角田さんの言う羨ましいが超頷ける。なんだか恋愛のようでもあり、一人の人が一人の人にどこまで真摯に向き合っていけるのか?という人間ドラマが感じられるし、もしかしたら一周回って不倶戴天な気もしてくる。ドストエフスキーはもう天の下でなく上なんだけど、死してなお作品および作家として下界に残り続け、亀山さんを語る時にドストエフスキーを抜いては語れないほど亀山さんの人生に影響を与え続けてきた。だから一番体力のある時に決別して、そうしないと亀山郁夫の人生はドストエフスキーありきで、何だかそれは亀山郁夫本人の人生ではないかも知れない、ドストエフスキーに人生を取られてしまったように思えて、それでもやっぱり気になって晩年になって様子を伺いに戻ってしまう……あれ?なんか角田さんのTwitterで似たこと書いてあったはずと思って探してみたら、「ドストエフスキーとの59の旅」の引用だった。

生きた人間の存在が、ケシ粒のように空しく感じられる空間。逆に、この空間としのぎを削って生きる小説の主人公たちの大きさ。実在の人間は名もなく死に、架空の人々の記憶は、人類の知のタンクに収められて綿々と生き続けていくという、このふしぎな矛盾。

 これは嬉しい。頭を回したら同じ方向に行けたんだ?!亀山さんは人の世の矛盾について書いてるけど、私は亀山さん本人を想って。ほんの少しだけど亀山さんに寄り添えた感じがする、少しだけ。ドストエフスキーや小説の主人公のように何年にもわたって人々に影響を与えるすごい人と、死んだら終わりの人の差。私は人ひとりを思うことは好きで、世界とかこの世とか大きな括りで見るのは苦手だけど、縮図なんだなぁ。

 アガサ・クリスティについて。夫に「アガサクリスティ?アガサ・クリスティ?」と聞くと、分からんけどアガサクリスティじゃないか?と。(教養は夫婦共倒れ確定。私に至ってはアガサとクリスティのコンビかも知れないことも考えたほど。)そこから「なんかアガサクリスティ特集みたいなのNHKでやってたよね」と。そこで夫が「名探偵ポアロとか」と言う。私にはコロンボは違うくらいしか分からない。「同じ高校なのになぜ分かるんだ!」と文句を言うと「テレビで見た」と言う。どんぐりの背比べは何が勝利につながるか分からない。
 漫画でも幅広い情報や教養も得られるけど、文章を読む体験から得られるものはたぶん漫画では難しい。漫画は一種のアートだとも思うし。教科書もろくに読まず、大人になっても本を買わず、読んだところで先のものは押し出されるように忘れる。そのくらい本当に本からの教養も人にも興味がなかった。今も興味があるかと聞かれれば、まだまだ憧れの域を出ない。教養ってなんだろうね?という問いは角田さんを通してみる部分がほとんど。元々の私の頭(A:)はそのままだけど、そこに”角田陽一郎ドライブ(K:)”が増設され、全体としては「(A:)1:(K:)1:(K:)を通した何か1」くらいじゃないかと思う。(大昔はドライブA:があり、次にB:ができ、C:ができ、A:とB:が無くなったからパソコンはC:から始まる、だったかな。A:yaはC:未満か。)

 君の中にドストエフスキーはいるか?亀山郁夫さんの中のドストエフスキー。角田さんの中のムーンライダーズ。コトブキさんが何の話だったかで「角田師匠」と言ったけど、私はそのまま角田師匠を使っている。「考え事の師匠」師匠という呼称だけども、尊敬してるとか、敬愛するとかって意味合いが強いけど。
 ここで「あんちょこお悩み相談Live vol.3」視聴といういいタイミング。正しい(?)師匠と弟子という関係を通ってきた談慶さんのお話面白かったー!!けど…そういえば、豊津さんの仰る絶対他者は師匠とはまた違うわけで…。亀山さんの中のドストエフスキーは絶対他者の方の方が近い気がする。角田さんの中のムーンライダーズやエーコも、私の中の角田さんも。ライブでは師匠と先生の違いについても話されたけど、そこに絶対他者も加えて違いを考えたい。

 師匠とか絶対他者は運命の人とも言えるかも。人じゃなくてモノコトだったりもするけど、ICUCとか自由大学とかで出会った人は割とそんな話が通じるというか、そんなヒトモノコトを既に持ってる印象がある。一方で今までの友人関係を見ると、そんなものは特別な人が持つものだって感覚の人が多い印象。例えば夫も。類は友を呼ぶけど、そのエリアを越えるとこんなにも様子が違うんだってことがよく分かる。(変わったであろう妻を放置できる夫もある意味すごいとは思う。…変わったつもりなだけで本質は変わってなかったか?本質的には変わった後のポテンシャルを秘めてたってことにしよう。)映画でもスラムから抜け出そうとする話とかあるけど、それほどじゃなくとも”上の人”の傍に就くことを推奨する人が多い理由が分かる。

 Facebookから通知が来た。2019年の今日は2019/12/5に自由大学へ行ったという投稿へのコメントを頂いた日だ。

誰かの真似をするのはいけない風潮がありますが、人は生まれて死ぬまで誰かの真似で成長しています。真似をして、受け売りでも、ご自分のものになれば成長です。そこから新しいナニかが生み出せたらスペシャリストですよ。一歩を踏み出せるって素敵なことですね。思いっきり楽しんじゃってください!

 あんたさえいなければ私はもっと別の人生が歩めたのに。あなたがいなかったらどんな人生になっていただろう?抱く感情は違うけど、これって人に備わってる欲なんだろうな。

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角田さんのピアノを聴いて、そうだ書いて貼っておこう、と。

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