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ICUC-043(週間037)2020.12.06【研究と研究のふり】

I see, You see! Intellectual Curiosity Update Committee【知的好奇心向上委員会 ICUC】今週もゆったり知的好奇心のアップデート&趣味の動画文字起こしメインのメモ。

今日の推薦図書
─なし─

ICUC#37「研究と研究のふり」
今回、大学院に入学して、修士論文を書いてみて、自分が学んだ大切なことを話しました。
「研究には研究と研究のふりしてる研究があり、学者には学者と学者のふりをしてる学者がおり、教育には教育と教育のふりをしてる教育があること。若い頃はふりでもある意味、何かを学べるだけ意味はあるのだけど、歳を重ねるとふりだけしててももう意味はあまり無い。人生で何を学ぶか?」
もしよかったら、まあ見てみてください。

[CAMPFIRE] ICUC 知的好奇心向上委員会

ICUC note「ICUC知的好奇心向上委員会とは?」

ICUC主宰:角田陽一郎webサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

毎年色々あるけれど/論文を書き終えてほっとしてる

 おはようございまーす。バラエティプロデューサー角田陽一郎と申します。知的好奇心向上委員会、Intellectual …あぁ、Intellectual Curiosity Update Committee(笑) の、動画でございます。よろしくお願いします。
 12月6日でございまして、2020年も12月に入りましたですね。みなさんいかがお過ごしでしょうか。ね、2020年は色々ありまして、私も色々ありまして(笑) まあ、そんな感じですが。
 でもいつも色々あるんですよね。いつも色々あるんだけど、今年は色々あったなって。今年は本当に色々あったと思うんですけど、去年とかは今年よりは色々なかったけど、たぶん去年の年末とか「今年は色々あったな」と言ってたと思うんですよね。だからその瞬間その瞬間に色々あったなと思うのが、まあ、人間なんですよね。
 今、朝収録してるんですけど、なんか曇ってるなと思ってたら。目の前に鏡(※窓の言い間違い)があるんですけどね。今、話始めたら急に太陽が出てきた!うわ!すごい明るくなった(笑) 僕あれなんですよね。あ、なんかすごい!なおかつここに、こう、何て言うんですか?窓枠の影がちょうど十字になってますね。(※額の辺りで十字になってるので右へ左へ動きながら) うん、どうしようかな、このまま進めるか。あ!なんかすごい眩しくなってきた(笑) まあいいか!
 はい。ということで、始めたいと思いますが。あ、すごい!ほら!(※明るくなったので)始めた時より後ろが見えなくなりましたよね。まぁ、どうでもいいんですけどね。僕、今すごい眩しいですね。目の前に窓があって、ちょうど南向きなんですけど。いや、そこでこう机を置くというのはやってみたいなと思ったのが、今回の海街への引っ越しの一つの目的であったんですけどね。ここで、まさに明日締め切りなんですけど、修士論文の提出の。で、一応書き終わりまして。
 出来上がりました、と。今、だからぼーっとしてる、ホッとしてる?ぼーっとしてる?ほぅっとしてるの「ほ」に点々で「ぼ」ってやると、全然感じが変わるってのが面白いですね。だからまぁ、ほっとしております。ただぼーっとしております。なので今日もぼーっとしたままお送りしております。ご了承ください(笑)

海街に越してパツパツでギシギシでズキズキでセコセコを、

 修士論文を書き上げてですね。昨日、一昨日か、指導教官の教授と色々お話ししたりして。なんか色々、今回「論文を書いてみる」というのをやってみたっていうのは、なかなか色んな意味で深〜く、深〜い色んな意味で勉強になったなーっていうのは、すごく思いますね。
 ちょうどね、2週間前ぐらい。11月の半ば、上旬か。3週間前か。東京を引き払って、海の街へやってきたんですけど。最初、教授的には「え?引っ越し…大丈夫ですか?」っておっしゃってたんですよね。論文書かなきゃいけないのに?と思ったんですけど。
 結論から言うと、最後の論文書くときの2週間くらいは、この海の街に篭ってたってのは、僕的にはやっぱり正解だっかなーなんて思いますね。なんか、結構心はパツパツだったし、ギシギシしてたんですけど、でもどうせパツパツでギシギシにはなるじゃないですか?どの場所にいても。特に東京のど真ん中とかにいると、よりなりますよね。で、パツパツでギシギシな上にちょっとテレビつけるとね、コロナの数が日に日に増えていくみたいな。またなんかこうズキズキしますよね。パツパツでギシギシでズキズキするみたいな感じの中で、で、東京にいるとセコセコするというか。だから少なくとも東京のセコセコだけでも無くなったのが僕の中では大きかったかなと思いますね。

製本の機械と、MVPはプリンターに

 論文、お見せするのもなんなんですけど。自分でちゃんと製本してね。まだ表紙付けてないんですけど。製本して、100枚くらい書きました。こう、わーっと、お見せしてもあれなんですけど。見えるかな?こんな感じ、こんな感じ。
 いやぁ、勉強になりましたね。勉強になりましたっていうか、製本とかも。製本の機械を自分で買って。製本の機械といってもそんなに高くないんですよ。5,000〜8,000円で買えるやつなんですけど、それも自分で買って。
 プリンターもね。もう、プリンター頑張ってましたね。後ろにあるプリンター、普通の家庭用のプリンターなんですけど。全部で4部出さなきゃいけないんですけど、100枚くらいだから400枚くらいやんなきゃいけないんですけど。当然ミスプリみたいなのもあるから、700〜800枚くらい結局印刷してる気がするんですよね。そうすると、最後プリンターがウィーン!ウィーン!って音が(笑) なんかこう、大丈夫かな?最後まで行き切ってくれるかな?みたいなこととかを思ったりすると。今回の論文を書いたときのMVPはプリンターなんじゃないかな(笑) なんて思いますね。

教育とは考えたものを手で成すこと/僕は研究者の端くれ

 でも本当あれですよね。そういう製本やって頂けるようなキンコーズ的なところで製本するっていうのがスタンダードみたいなんだけど。諸先輩方のエピソードを聞いたら「自分でやりますよ〜」みたいな。あと研究室に製本の簡易的な機械があるから、それでやってみるのどうでしょう?とか、色々書いてあって。ああ、そうか!自分でやるってことを…、自分が25年前の大学の時どうだったかなぁ?生協かなんかの製本屋さんに出したんだよな、確か。で、今回もそういうことかなと思ったんだけど、そうすると締め切りまでにやらなきゃいけないとか、原稿を差し替えるとかなかなか難しいじゃないですか。なおかつ僕は東京から離れちゃったんで。そうすると、むしろ簡易的な製本機買っちゃった方がいいなみたいな感じで(笑) 製本機を買い、直前になってインクが足りない!みたいなの嫌だから、インクも大量に発注し。紙も大量に発注し。Amazonで届き、自分でしこしこ印刷するみたいなのを、ここ2日間ほどやって。で、出来上がって。提出して。1部残ってるという感じでございますが。
 製本みたいなことまで自分でやるっていうことが、すごい大事なんだなってこととか、思いましたね。それ先週もちょっと言いましたけどね。Wordとかのデザインをどうするか?みたいなことまで考えるって。
 なんか、自分の手に、考えたものが”こうなる”みたいなことって…、これが教育なんじゃないかなーなんて思いましたね。だから当然この書いてある文章が良くなきゃ、良くないとというか、ちゃんと論理的であるとか、研究として意味があるとか、そういうことが必要なんだけど。という必要なものを締め切りまでに書き上げて、それを実存したもの、「こういう紙ベースのものにちゃんと完成させられるというスキル」とも言えるし。精神力みたいなものってのが求められるなーと思ったときに、それは本当だったら25歳くらいの人がやるわけですよね。23、24というか。このスキルというのをそのときにやってるっていうのは、すごい価値があるんだなと思いますね。
 だから修士って修めるって、修める士って書きますけど、そういう気がまえとか、研究方法を修めた人という意味で言うと、本当に研究者の端くれなんだなーなんて思いましたね。それこそ大学院行くまでは、大学院とかにいけばもう研究者だろうなんて勝手に思ってましたけど。いやいや、そんな甘いもんでもないというか、別に甘いか?甘くないか?というより、なんかぱっやり、ある一定の自分の考えを実存化させるということって、ある種の…ルールとは言わないけど、なんかそういうものがあって、それを身につけないとやっぱり出来ないんだなっていうことかな。なんかそんなことをすごい知ったなって意味で、一番の勉強になりましたね。

大学院に入ろうと思った理由/研究者と教授

 あともう一つは、これもう言ったっけ?すいません、先週、先々週とかで何話したかとかはっきり覚えてないので…。そんなに、覚えてないんですけど。研究でいいなって思いましたね(笑) すいません、意味が分からないと思うんですけど。
 大学、僕も修士に、大学院に入りなおそうと思ったのが1918年で(※2018年の言い間違い)。で、19年から、去年から1年生やって、今年2年生やってて。来年からは受かればですけど、博士に行ってみたいなーなんて思ってますね。それはなぜか?というと、やっぱり学問をやってみたいなと思ったときに、学問をやってる人って、なんかこう、すごい馬鹿っぽい言い方したら「教授」とか「先生」みたいな方じゃないですか。だから僕が大学院に行こうと思ったのって、やっぱりそんなに意識してなかったけど、教授みたいなものになりたい、あるいは、なるんだろうな?研究者になるということは…っていう風に思ってました。
 一方でね、数学者の鈴木まさおさんなんてのは、独立研究者なんて言ってて。その独立研究者って大学に属してないから独立って意味なんだろうなーなんて思ったけども。逆に今、その独立研究者って名乗ってる方の意味が分かったのは、つまり研究者って「研究でどう食べて行くのか?」みたいなことが結構大事なんですよね。
 研究者でどうやって食べていくのか?って、いち研究で食べていくってのがあるんですけど、それってその研究で生み出したものが利潤を生むものじゃないと、研究機関がその方にお金を渡さないと言う意味で言うと、当然そういう研究機関はたくさんあるし、なんなら企業もあるし、そういう公的な機関もたくさんあるとは思うんですけど、やっぱりそういうところに必要なものしか研究されないとすると、僕なんかがいる文学部系、人文社会学系とかってのは、比較的利潤を生み出さないものらしいですね。
 そんなことも薄々は思ってましたけど、なるほどと思ったりしたのは、実際入ってみて分かったってことなんですけど。そうすると研究者として食べていくためには、科研費という、国というか、科学技術の研究のお金なのかな?科研費ってね、そういうものを、自分の研究はこういうものだっていうを申請して、その研究費が出ればそれで研究していく、みたいなことなんですよね。そうすると、そのために論文を書いたりとかするみたいなことだと思うんですよね。
 一方でそれが研究のお金になるんだけど、それってあくまで研究のお金だから、どうやって生きていくんだ?っていうところで、教育者になると思うんですよね。だからつまり、研究者と教育者というのが一緒に、イコールになってるじゃないですか。それが大学の先生、教授とかなんですよね。だから教授って、それこを幼稚園とか小学校とか中学校とか高校とかの先生と比べれば、遥かにスケジュールに空きがあるっというのは、教育者というのは一つの側面であって、もう一個は研究者ってことで、研究の部分をやりましょうみたいなところが、ひとつの生き方なんだなってことは分かった。分かったっていうか、元々分かってたつもりなんですけど、新ためて感じたというか。

教育者兼研究者と教育者でない研究者/だってまだまだ学びたい

 そうなったときに、研究と教育っていうのを一緒くたにするパターンもあるし、一緒くたにしないパターンもあるよなって、なんか思いました。つまり、教育者になって、そこである意味、身銭というかを獲得して、研究をしていくというのが大学の先生というスタイルだとすると、僕は一応バラエティプロデューサーとして、一応働いてるわけで。まあ大したもんじゃないですけど。で、そこで一応、科研費的なものが生み出せれば、別に教育者になる必要はないんだなってことが、今回すごく分かったんですね。だから研究者にはなりたいけど、教育者になりたくないわけではないです。オファーが来たらなんでもやるのがバラエティプロデューサーの信条なので。積極的に自分からなろうと思わなくてもいいなっていう風に思ったって言うのが、今回すごい気づいたことですね。
 で、そうすると、じゃあ自分は教育者を目指さないのか?というと、えーと、だから、話が来たらやりますけど(笑) くらいな、すごいアバウトな。もう一個あって。むしろその教育者って、先生とか教える方みたいな意味で教育者って言ったとすると、学生でいいやって思っちゃったっていう(笑)。つまり、学生で良いのではないかな?って、今回思わせて頂いたのが1番の収穫というか。
 だってまだまだ学びたい。学びたいというか、知的好奇心を刺激したいってのが僕の中での根本的な生きる活力だとすると、人に教えたいとかじゃなくて、やっぱり自分が学びたいんだな。学ぶためには学んだことをアウトプットしないと、さっきも言いましたけど、論文化するとかして、印刷してとか、印刷しなくてWEB上でもいいのかもしれないし、本を出版するとかでもいいんですけど、そういう風に形にしない限り…。
 うん、だから、なんて言うんでしょうね、本を何冊も書いてますけど、それってやっぱり違うとは言いながらも、自己顕示欲みたいなものが根底にあったんだなって。ところが論文を書くということは、自己顕示欲というよりは、自分が研究してきたものを形にしないと研究ではない。だから自己顕示欲の前にある一つの段階なんだなってことに気付かされたというのが大きいですね。じゃあそれを今後も続けたいなーなんて思います。
 この話、前もしたかな?したかも知れないですね(笑) うふふふふふ、あぁ!また、すごい陽が!陽がすごい出てきた!なんかこう、自分の中に十字みたくなってますね。なんか、はい。ちょっと、避けますか。ああ、なんか眩しい。まあ、そんなような思いがあるなーなんて思いました。

研究のふり学者のふり/ふりから研究・学者へ行ける

 でね、僕Twitterで呟いたんですけど。そう思うと、それこそ先生と論文を提出したあと雑談で「どうもお疲れ様でした」「いや、こちらこそご指導ありがとうございました。」みたいなお話しをしてたんですけどね。してるときに色々と今みたいな話を自分からしたと言うより、先生の方から、むしろそういう学問というのはどうか?みたいな話をされたときに、今僕が言ったような見解とちょっと似てるようなところを仰ってて。あぁ面白いなって思ったんですね。それを僕Twitterに書いたんですけど。

今日学んだこと。研究には研究と研究のふりしてる研究があり、学者には学者と学者のふりをしてる学者がおり、教育には教育と教育のふりをしてる教育があること。若い頃はふりでもある意味、何かを学べるだけ意味はあるのだけど、歳を重ねるとふりだけしててももう意味はあまり無い。人生で何を学ぶか?

 っていう風にかいてますね。これあの、Twitterって140字だから色々誤解を孕むというのは大前提として。誤解なきように言うと。「ふり」と言ってるとずごい悪いことを言ってる気がするんだけど、実は悪くもないなと思うんですね。
 研究と研究のふりというものがある。研究のふりをしてる研究ってのも一方である。研究と、研究のふりをしてる研究とがあって。研究のふりをしてる研究って良くないのか?っていうと、良い意味で言えば研究に入る前段階をやってくれてるから、ちょっとマスが獲得出来ますよね?ちょっとそこに興味がある。ちょっと宇宙に興味があるからちょっと研究してみようというのと、すごい本格的に研究してる研究してる方との差っていうのは歴然としてる。それって、実は学問の種類にもあるんだなってことを分かったというか、先生とお話ししててそうだなーなんて新ためて思うわけです。
 そうすると、僕が今回修士論文を書いたこととかって、もしかしたら研究のふりかも知れないんですよね。ただその研究のふりをするから研究の方に近づけるというか。それが意味があることなんじゃないかなと思ったという。
 だから同時に、学者って名乗ってても本当に学者なのか?学者のふりをしているだけなのか?っていうのがあって。別に学者のふりも悪いことじゃなくて、学者のふりから学者に…。目指してもいいし、目指さなくてもいいんだけど。ふりのままでいても。…ふりのままで偉い学者になっちゃったら問題がありそうな気がちょっとしますけど。基本は学者のふりをしてる学者と学者ってのがいる。

教育のふり/ふりというきっかけから学ぶ/ふりを乗り越える

 で、同様に教育と教育のふりをしてる教育ってのがやっぱりあるんだなーなんて思いますね。たぶん受験勉強みたいなものは基本的に教育のふりなんですよね。教育のふりだから受験勉強なんてよくないよって言う議論って一方であり、それは一方で真実なんだけど、ただ、伊藤賀一先生とかね、日本史のプロの予備校の先生というますか、日本一の社会科の生徒数をかかえる先生。よくお話しさせていただきますけど。やっぱりそんな捨てたもんじゃなくて、受験勉強って。そこで学べるものというか、そこでふりでもいいから覚えちゃった方が絶対得…うーん、得するというとまた語弊があるな。その人生のふりから、本気、ふりから本当になれる一つのきっかけみたいなものって、ある意味学べるところがあって。で、もう一方でそれを乗り越えるということをやるというのが、先程の修士論文を書いたみたいなことと、ちょっと、根底は似てるんだけども、やり切るということをやってみるということ。あるいはやり切れなかったとして、まあ失敗しちゃったとしても、失敗しちゃったからもうダメだって、自暴自棄になるというか、そこからどうリカバリーして、生きていくか?みたいなことまで学べるから、つまりその行為って成功しても失敗しても、たぶん色んな意味ですごい学べるんだと思うんですね。
 だからふりというのは、何回も言ってますけど、否定してるわけではないです。なので、ここに書いた「若い頃はふりでもある意味、何かを学べるだけ意味はあるのだけど、」って書いたのはそういう意味だと思います。
 だから、僕はもう若くないので、若い人はそれでいいんだなーなんて思うと、ふりでもいいから勉強してるのってのは、なんかすごい好感を持てるなと思いました。だからふりでいいんじゃねぇかな?いいからやってみようよ!っていうことが、結構、実は大事なんじゃないかな。それはふりだからやめようぜって言っちゃうと、ふりじゃない人たちの、ちょっと傲慢さというか。

自分だけ良ければでもいい

 結果、自分だけよければみたいな話しになっちゃうと、自分だけよければっていう生き方も、別にそんなに否定もしてないんだけど、結果、自分の存在する社会、世界が、どんどん荒んでいくので、自分にとっても、結果、よくなくなるというのが今の社会だったり、日本だったり世界だったりするような気もするんですけどね。
 ということは、自分がいいようにしたいっていうのを大前提にしながらも、この社会とか世界とかがどうなっていくといいのか?ってことを考えた上で、そっちの方に行った方が、結果、自分もいいとういう。フィードバックできる、回帰できる、みたいなことが、意味があるのかなーなんて、まあ思ってるわけですよ。
 だからやっぱり自分のことばっかり考えててもいいんだけど、自分のことばっかり考えると、一周回って他者のことも考えるってことになるんじゃないかなってことが大事なんじゃないかなーなんて思うんですけどね。
 で、そういうときに、若けりゃふりでもいいんだけどと思ったときに、いつ死ぬか分からないというか、死を間近に感じるからということでも全然ないんですけど、もうそろそろふりじゃないものやらなきゃなって思ったっていうのが、今回の修士論文を書いてて一番思ったことですね。

僕の研究と学者と教育とエンタメ

 だから「僕は」ってことかも知れないですけど。僕はもうふりじゃなくて、ふりじゃないものをやらなきゃいけないなって思ったっていうか。だから研究には研究のふりをしてる研究ってのがあるって言ったけど、まあせっかく、何かのタイミングで東大の大学院にいて、今、修士論文を書いて、このまま博士とか進もうかなと思ってるという意味では、もうふりじゃない研究をやってみたいなって思う。
 学者には学者と学者のふりをしている学者って書きましたけど、別に先生になるということはないし、研究者…、うーん、学者…、分かんないですけどね。その辺が。何が学者で何が研究者とか。その辺もよく分かんないんだけど。まぁ、ちゃんとやってみようかなと思ってるってことかなっていうことに今回も気付かせて頂いたと。
 3つ目の教育と教育のふりをしている教育という意味で言うと、僕は教育に手を出しても教育のふりをしちゃうなーなんて思ってるんで。自分が教育の方はそんなに。まあ話し来たらやるんですけどね(笑) お待ちしてます(笑)
 ただ、そういうことよりも教育という意味じゃなくて、もうちょっとエンターテイメントの方に居たものですから、結局そこを無くしてしまうとただのぐちゃぐちゃ喋ってるただのオヤジになっちゃうんで。
 やっぱりエンターテイメントというものをふりじゃなく…、今までふりだったかなぁ。個人的にはふりじゃないつもりでやってきたけど。ふりじゃないものにしたいなーなんていう思いがあるかな、と。まぁ、そんなことをすごい気付かされたというのが、今回の論文を実際書いてみて、自分が思ったことかなーなんていう風に、感じますかね。

ぼーっとしてても物事は進む/きちきち→たんたん/腹を据える

 誤字脱字とかね。そいういうのとか、言い回しとかがとかが、こんだけ本書いて割には言い回しとかの語彙がないなーとか、すごく思ったりとかね。うん、そんなようなことをすごい感んじさせてくれて、すごい、すごい、勉強になったなーなんて思いますね。
 で、修士論文書き終わったらやんなきゃいけないなと思って、結構後回しにしてた仕事もそうだし、仕事じゃないものも色々あるんで。順次それをやろうかなーなんて思ってるんですけど。この土日は本当に、それでも休もうかなと思って。昨日とか今日とか、なんかある意味ちょっとぼーっとしてる。ぼーっともなかなか出来なくなってることも、今回、それでまた気付くな、みたいな。あぁでも、ぼーっとした方がいいんだなーなんて思って。比較的ぼーっとしてますね。
 でも比較的ぼーっとして、と言いながら、ちょっとこう返事を返してなかったものにメールを返したりとか、ちょっと色々やらなきゃいけないものを整理とかしてると、ぼーっとしてても物事は進むんだってことが、むしろ分かったというか。だからきちきちやらないと進まないって思ってることも意外にダウトで、そんなにきちきちやらなくても、淡々としてても、自分の中でこう…、あぁ…、それ、今回学んだな。
 論文書いててもそうですね。本当に3週間前くらい前までは「やべぇ、何日までにこれを書かなきゃ!」「この字数を書かなきゃ!」あるいは「この内容を…」とか「これだけの作業を」「あぁーこの量に途方に暮れる!」みたいことがあったんだけど。1週間切ったくらいなったときに、もう、ちょっと腹が据わったというか。だって急いだってどうせ…、急いでパニクった方が終わらないとするなら、ちょっと一回冷静になってみようと思って。一回こう、なんか、ちゃんとこうお茶を淹れて、飲んで、みたいな。そんなような感じでやった方が、結果的にその時間、大した時間じゃないけど、それをやった方が結果、論が進むってこととかは、なんか理解できましたね。だからそれはなんかすごい大きかったですね。

最速で身につく日本史/褒められたら嬉しいを越える

 Twitterに投げましたけど、12月18日に「最速で身につく日本史」っていう本が出るんですね。来週その話をちゃんとしようかなと思ってるんですけど。その最速で身につく日本史の校了も、実は一昨日だったという。
 つまり、論文と全く、ほぼ重なって「出来るのか?!」とか思ったんだけど。という風に、論文の時もあぁなんとなく1回形になったぞって、形になったぞってのは本当に形になってるかというより、自分が形になったぞを思えることが大事というか、形になったぞって思った瞬間に、ちょっと「ふぅ〜」っていう。そのふぅ〜ってときに、今度は日本史の方の校了、赤入れをやるみたいにやると、なんか、出来ました。
 出来ましたし、まだ書いてない、ちょっと書き足して下さいみたいな、何箇所かみたいなこととか、編集者さんとかに言われた部分とかもあったんですけど。「書けるかよ?!」とか思ったけど、なんか書けたんだよなぁ、今週の月曜日とか。火曜日が締め切りだったんですけどね、自分的な。だから結局、火曜日、その編集者さんとリモートじゃなくてリアルで会ったんですけど。「それまでに、終わらせられるところまで終わらせます!」みたいに言ったけど、結果全部終わったもんなぁ。
 そこはそこで、ちょっとだけ褒めたいですね、自分をね。まぁ、褒めてくれる人がそんなに周りに…、でも褒めてくれたら嬉しいのか?ってこともちょっと超越したってことも、今回知った上で、でもお疲れ様とか、すごいですねとか、言われると、それはそれでやっぱり嬉しいんだなってことも、新ためて思いましたってことが…、うん、面白いですね。

大学院に行こうと思った選択は絶対僕の人生に意味があった

 結果、大学院に行こうと思った選択っていうのは、僕のなかで絶対的に、ここは本当に言っちゃっていいんですけど、絶対的に人生に意味があったなと思いますし。もし、行ってなくて、今年の2020年のコロナみたいなことが仮に、仮にというか起こってますけど、だから仮には違うか、起こってるときに仮に大学院に行ってなかったとしたら、今年の1年どんな風に暮らしてたんだろなーなんて、思いますね。8ヶ国語、語学習わないもんな、とかね(笑) サンスクリット語に興味出ないだろうなとか。宗教とかに興味があったけど、でもそれも関連の本とかを読んでるだけだったかも知れないしな。
 むしろそれってバラエティプロデュースの方がメインだったとすると、リモートになって、バラエティプロデュースが撮影できないじゃん!みたいなこととかが…、別に撮影したいかどうかというより、撮影できないじゃんみたいな閉塞感みたいなもので、結構参ってたのかなーなんて思うと。この週間ICUCなんて始めたのも、そもそも閉塞空間になったから始めたということだし、その閉塞空間を東京から海街へ移動させたってのも今だし。なんかそういうような閉塞された中で、ちょっと学問をやってみようと思ったってことは、なんか色々な意味で大きかったかなと思います、と。

 はい。今日のお話、役に立ってるのかな(笑) まあ役に立ってるか役に立ってないかは僕の人生という意味もあるし、これをご覧の皆さんのという意味もあるし、ICUCのメンバーのという意味もありますし。まあそれはそれぞれの人生でございますから、がんばりましょうということでございます、と。
 はい!12月6日のICUC知的好奇心向上委員会でございました。昨日は雨だったんですよね〜。今日は晴れて、ちょっと昨日より温度が高いし。すごい晴れてるわけでもないんだけど、さっきからね、眩しかったり、眩しくなかったりとかやってますけど。今日はこのあと、ちょっと海まで歩いて行ってみようかな〜なんて思っております。そんな感じで、みなさん、あと1ヶ月。師走でございますが、よい1年になるように、体に気をつけて、コロナに気をつけて、がんばりましょう。ということで、知的好奇心向上委員会でございました。

文字起こしメモ&感想

 論文、無事に終わって本当によかった!プリンター君もお疲れ様でした。教育者兼研究者ならぬ、プロデューサー兼研究者だ!それにしても先生はお引っ越しを心配してらしたのか(笑)

 ギリギリにならないとやれないと言うと、余裕を持ってやればいいだろ!と言われがち。思うにこれは仕方ないこと。だってそれがその人の馬力の出し方がそうなのだから。だから角田さんの場合は、結果、これが最善ルートだったはず。
 という意味で言うと、自分には想像出来ないとか、仕上がりを信用できないやり方って、きっとたくさんある。当然、自分にも自分のやり方があるはずだから、それを自覚しておくということは、すごく大事なことなんだろうな。それを自覚できるだけの乗り越え経験は持っておかなきゃ。どうしよう、持っておかなきゃ…(爆)

 東京のセコセコ感。Twitter?で仰ってましたけど、おしゃれなパン屋さんは入りづらいから普通のパン屋さんがいいとか。私がICUCに参加するときの支払いタイミングに「その主婦感覚いいですね」と仰ったこととか。なんか矛盾、なんかイメージと対照的だなと感じていて。
 4週前の19歳の時の話にもあったけど、エンタメ情報に接する機会の多い、憧れの東京に拠点に構えることに満足感を持ってらっしゃるように見えた。見えたけど、実は素朴で、華やかで刺激の多いところより、田舎とか、のどかな雰囲気で心身を回復させるタイプの人なんだろうな。だからこそ、対照的な華やで新しいものに憧れ、それを仕事にもできた(そこがすごい)。
 その仕事になんか区切りのようなものができて、実はもう一つ欲しかったものがあったと25年ぶりに思い出し、海街に移る。続いているのに区切りもあるし変わっていくのは、切れてない糸なのに、色も素材も変わっていくみたいで、不思議だ。

 「ふり」の意味を検索してみると「様子、しぐさ、見せかけ、揺れ、きっかけ」。きっかけは「本題に入るための」と書いてあった。それっぽいもの、見せかけは、本物への入り口だというのは、言葉の意味としても正しい。それに角田さんはずっとフリとオチのお話しされてたなと考えると、それも面白い。
 「今までのエンタメはふりじゃないつもりでやってきたけど」と仰ってたけど。エンタメはエンタメのふりではなかったけど、エンタメが学問のふりだった可能性は?学問再開へのふり。学問への回帰線というか。すると学問がオチか?ふりはそういう垣根は超えていく気がする。
 というのも、若いときにやり残したことをふと思い出す頃合い。思い出したはいいけど、これ以上年齢を重ねると実現できない、やるなら今しかないと思う頃。それは40代以降なんだとか。今しかないけど、なんでも未経験という年齢でもないから、行動した人は結構ちゃんと軌道に乗せるのだとか。
 月いち京都ってカッコイイ!から始まったのに東大へ。京都の大学へ行ってたら、そんなにたくさん講義、取ったろうか?…あんまり人様のことをあれこれ勝手に想像しては失礼だな。すみません。

 自分本位で望む方へ生きて、回帰して、結果周りも良くなる。ぐるぐるスパイラルする強運、いいなぁ。いや、ぼーっとしながら別の作業をやる方法、ドラゴン桜って漫画に描いてあった。勉強の休憩は歴史漫画読むんだって。それと同じだ。強運いいなぁじゃなくて、運が使えるようになるためには、そういうところだ!
 私は憧れの行きたい場所なんてあったろうか?でもふりはこの2年でなんとなく済んだ気もするから、どっち方面でもいいから、いいと思う方に、どうにかこうにか進まなければ。

余談。
独立研究者の鈴木まさおさん、検索失敗。
「独立研究者 数学」で検索すると、森田真生さん。鈴木じゃなくて森田。
「数学者 鈴木」で検索すると、鈴木治夫さん。マサオじゃなくてハルオ。
「独立研究者」で検索すると、MANA独立研究者。国際ナノアーキテクトニクス研究拠点という文科省が設立した研究機関。
ということで、確率高そうなのですずきは鈴木、お名前はひらがなで。

ICUCは
一人一人の知的好奇心がくすぐられるような
さまざまな「ヒト・モノ・コト」を
皆で持ち寄って
話して聞いて調べて楽しんで
自分の知的好奇心をアップデートしちゃおう
って集まりです。
(by 角田さん)
[CAMPFIRE]知的好奇心向上委員会 ICUC
ICUC note

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