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ICUC-103_2022.4.2【エンタメの引退】

【ICUC知的好奇心向上委員会】の私の知的好奇心の向上&趣味の文字起こし。I see, You see ! Intellectual Curiosity Update Committee

角田陽一郎103「エンタメの引退」ICUC知的好奇心向上委員会

約ひと月ぶりに、その間想ったことを話してみます。
エンタメの引退について。

角田陽一郎 オフィシャルwebサイト

mireva channel

動画の内容(+文字起こしメモ&感想)

窓を閉ざすまで

 おはようございまーす。角田陽一郎でございます。知的好奇心向上委員会というのを動画でやっておりましたが、ここ1ヶ月、約1ヶ月ね、配信休んでたんですけども。4月になって、年度も変わって。昨日は新月だったんで、ちょっと始めてようかなーと思って、またこんな感じで喋っております。よろしくお願いいたします。えーと、テーマはですね、「エンタメの引退」ってタイトルにしてみたんですけど…うん。何を話そうかなーとも思いつつ、ここ1ヶ月ぐらい、なぜ休んでたのかなー、…休んでたっていうか何故やってなかったのかなーみたいなところからの話になると思うんですけど。
 3月11日、東日本大震災。3月11日ってまあすごい記憶に残ってる、記憶の澱みの日だなーなんて思いながら。今年もね、11年後の311を経験したりして。で、そこで、それまでもね、ボクが定期的に勝手にやってるエンタメという意味ではこのICUCを週末に30分喋ってますし。それこそ去年の5月からね、「おはようございますSNS」というか、Twitterとインスタとnoteとホームページにおはようございまーすっての毎朝ね、基本Twitterに入る感じだから140字で呟いてたわけです。ただまあ3月11日って本当にね、なんか色々な思いがあったりして。ちょうど3月11日にね、最近絵を描くのにちょっと凝ってるというか一人でハマってるんですけど、なんか311の絵を描いたりして。それがなんかあの日のことを思い出して書いて。…津波でね、三陸海岸の街々が津波は流されて火が吹いている絵をなんか思い出しちゃって。それを書いてて。そしたらその海の色がウクライナの国旗の青と黄色で塗りたくなってしまって。まあそんな、午前中描いたんですよ。

 で、午後。なんか普通に仕事してて。仕事でちょっと悲しいことが起こったりとかして。で、なんかそれでもう…その日、なんかすごい打ちのめされてしまってですね。で、翌朝3月12日。なんか書こうかなーと思ったんだけど、何かこうおはようございますって言いたくなかったんですね。つまりSNSって窓じゃないですか。自分の思いを語る窓。うん、窓を閉ざしたくなったんですね。で、まあ止めてしまいました。で、止めてしまって。そうすると3月11日が金曜日?木曜日だったのかな?うん、金曜日。そうか、だから2011年の3月11日も確か金曜日でしたね。それでそのままね、週末のICUCもなんか語りたくなくて。語らなかったって言うか。ICUCに関して言えばね、2020年の3月の終わりぐらいからやってるから、ちょうど103回?103回か102回か?ずっと何か知らないけど喋ってて。よく喋ってるよなーと思いながら。うん。
 でね、これちょっと面白いなーと思うのは、じゃあそのICUCって2年近くやってて、その瞬間…だから止めた日は3月の11の日ですよね。3月13日の日の自分の気分と、じゃあそれまでの2年間の気分を鑑みても、もっと酷い思いの時、もうこんなの喋りたくないなーって思ってる時とかあったんですよ、たくさん。たくさんあったにもかかわらず、でもそれをやっぱりちょっとアーカイブに残してみようかなと思ったみたいなこととか。自分がバラエティプロデューサーと名乗ってみたいな。YouTubeが人気になるためには一番の秘訣は継続ですよみたいなこととかを…ね、よく企業の方とかと話してると、やっぱりそれってなんか止めてしまうのは惜しいなーなんて思って2年やってきたんですけど。その3月の11日からの翌日、翌々日は、すごく、すごく…喋りたくなかったんですね。

窓を閉ざしてから

 で、喋りたくなくて。3月14日がseasoningっていうね、JFN系列のFMラジオのパーソナリティー…パートナーか、月曜パートナーをやってるんで、まあ喋んなきゃいけないわけですよ。でもね、これはさすがにお金もらってやってることだから喋らないってわけにはいかないからね。行って、むしろ普通に喋るというか。でもまあ市川さんとかスタッフの方にはね、──市川さんというのは番組のMCの女性ですけど、市川美絵さんからは「あれ、なんか今日はおはようございます呟いてないですね」って軽く言われたりして。スタッフからも。でもそん時になんかもう何か自分の意見とか言いたくなくなっちゃったんですよねーみたいなことをちょろっと言ったりしてね、うん。つまりソーシャルメディアってソーシャル…社会に自分の窓を開いて、少なくとも自分の意見を言う訳ですよね?聞いてもらってるか聞いてないかもに関わらず。何かそういう感じでね、自分の意見を言うというのが凄く…、何のために言ってるんだろう?っていう風に思っちゃったんですね。何のために言ってるんだろうって、それを例えばたくさんの人が見てくれたりすると当然「何お前そんな事言ってんだ」っていうのが来ますよね。それはそれで嫌じゃないですか。で、たくさんの人が見てくれてないとすると、それってそもそも言ってるんでしたっけ?みたいな。うん。エーテルの不確定性原理ですよね。誰もいない森の中でね、倒れた木がガチャンと音がしたけど、その音というのは果たして存在したのか?しないのか?みたいなね。だからどっちに転んでもボクなんかが何かを喋ってるってことにそんなに意味があるのかな?意味があるからやってるとかじゃなかったつもりなんだけど、何かすごいそんな風に思ってしまったと。
 ただ一方でね。そんな気分だったんだけど、その3月14日のラジオは何か喋れちゃったっていうか。普通に。あー、なんかそういう意味で「出る人になったなー」とも思いましたね。自分の感情で、感情がいい時は喋れる、感情が良くない時は喋れないっていうのが普通の人だと思うんですけど、何か自分は喋れちゃったなっていうのも思いました。
 で、その週はちょうどあれですよ、木曜日にコトブキツカサさん、映画パーソナリティーのね…と、寿司特をやって。…という意味で言うと寿司特自体は17、24、31と、一応続けてやりましたね。だからつまりラジオもそのまま21日、28日と。で、21日なんてね、ホリデーseasoningだったんでいつもより倍の喋る時間があったりとかしたりとかして…やったんですけど。むしろね、YouTubeとかSNSとか、自分がこう誰とも関わり合いなくやってることは何か止めてしまったというか「やれなかった」みたいな。まぁそんな感じです。
 で、その間ね、ここにこう飾ってますけど、なんか絵描いたりとかね。うん、そう、こんな…こんなのを描いたりとかしてみて。

 この絵とかが…何枚描いたかなー?結構描いたぞ?1枚、2枚、3枚?その間に描いたりしたりとかしてましたね。で、何で喋りたくないのかなーって思ったっかということって、むしろ忘れちゃったな。だからやっぱりアーカイブに残してるってことは意味がありますね。もしその3月の13日とか3月の20日とか、3月の27日とかに喋りたくないなーと思ったとしても喋りたくないなーって思ったって気持ちをやっぱり喋っといた方がいいんだろうなーって今思いますね。だって3月20日にどんな思いだったかって、なんか、忘れてるもんね。うん…忘れてますね。
 で、まあ、そんなことを思いながらもね、4月、ボク一応月の満ち欠けを結構気にして生きてまして。自分がやってるメルマガってのもね、新月と満月の日に書いてるわけです。そうすると何か自分のオピニオンを発信したくないなーなんて思いながらも3月18日は満月だったんでメルマガを書いて。メルマガ”DIVERSE”。で、3月20日は毎号ね、水道橋博士の”メルマ旬報”にボク連載させて頂いてるんのでそれも書いてっていう。だからまあ契約がある仕事は一応続けつつ。3月18日のね、メルマガ”DIVERSE”には自分はなぜSNSを止めたのか?っていう心境をよく分からないのにに書いてみたりとかして。で、なんかこう凄い…その前から言ってるけど、最近絵ばっか描いてんのって文章が書けない。書けないってのは書きたくないっていうのがそもそも1月、2月ぐらいからになってて。で、絵の方がなんか描きたくなってしまうってのは上手い下手とかは置いといて、何でなんだろうなーなんてずっと思ったんですけどね。

眼と精神

まあそんな時にちょうど1ヶ月前の3月1日か抜ける。ミケル・バルセロ展っていう、これ…ミケル・バルセロ展のことを…ミケル・バルセロについて小林康夫さんっていう元東大の教授が書いてる本ですけど。展覧会で買ったんですけど。スペインのアーティスト、もうなんか素晴らしいんですよ。だからその時はまだ311前だから自分はなんとも思ってないんだけど。
 で、この休んでる間にね、「ミケル・バルセロの世界」っていう小林さんが書いてるこの本をずーっと読んでたりして。そしたらなぜ絵画を描くのかっていう…、絵画を描くことはつまり哲学をすることと一緒なんだっていうことを書いてて。そうなんだっていうことがボクの中で読んでて腑に落ちたんですね。つまり絵を描くって自分で見るじゃないですか、この世界を。で、この世界を見たものを表すんだけど、その表す時に自分の手で作品に落とし込まないと表せないですよね。ってことは少なくとも自分の精神で思った、頭脳の思いを身体を使わないと表せないっていう。だから「この世界には自分の身体も存在してるんだけど、その世界を表すのは自分身体だっていうこと」っていうことを書いてて。これをそのスペイン…じゃないや、ミケル・バルセロはスペインのマジョルカ島出身ですけど、フランスの哲学者のメルロ=ポンティがね、言ってるんだと。で、メルロ=ポンティなんてボクは名前とちょっとしか知らなかったんで、「眼と精神」っていう亡くなる前の最後の論考について触れてて。今ボクが言った様なことを書いてるんですよ。で、今メルロ=ポンティの「『眼と精神』を読む」っていう本を読んでるんですけどね。うん、読んでるんです。で、そんな感じで自分がなぜ絵を描いてるのかみたいなことの意味がちょっとだけ分かったんです。で、これを普通だったら言語化しなきゃいけないんだけど、何か言語化そんなにしたくないんだけど。これをね、音楽だと世界を表現するのに足りないんだっていうことをメルロ=ポンティは言ってるんですね。で、絵画、アートだと表現できると。当然、多分、言葉でも表現できるんだけど、その言葉というのってロジックで表現しなきゃいけないからそこがすごく窮屈な感じを受けてしまってるのがボクは書けない理由なんだなろうなーなんて思ったりもしてて。で、それって言葉にして自分が喋るっていうのもある意味ロジックなものですからそれをやらなきゃいけない、それが嫌だなーなんて思ってると。
 でね。まあそんなこと思ったんだけど、本当に4月1日、昨日は新月だし、年度初めだし、じゃあ、まあ、やってみようかなあ?…なんて思ったりして、今週末、今日4月2日ですけど、今喋ってるっていうことです。

「ミケル・バルセロの世界 形という生命/物質と暴力」
小林康夫 著/未来社
「眼と精神」
モーリス・メルロ=ポンティ 著 滝浦静雄 訳 木田元 訳/みすず書房

マスとソーシャルの見たくないもの

 で、じゃあそれでいいのかっていうと。たまたまね、先日なんか色々周りの人と話してて。YouTuber、最近の人気のYoutuberみたいな話を聞いたんですよ。この女の子は人気だよって、見たら何十万人もフォロワーがいて。一個の動画とかもう何万人も見られてるわけですよ。で、その人に何でそれ見てるんだって分析を聞いてみたところ、やっぱりこう…例えばブスでも化粧しても…ブスが何で生きてちゃいけないのかって何か変なツッコミ入れた時に言った一言が素晴らしくて…とか。すごい前向きで…とか。どんどん綺麗に変わっていってるのを多分みんなが見たいから過去の動画も見て…とか。すごいすごいそれが人気な理由を聞いた訳ですよ。で、ボクも一応プロデューサーの端くれなんで、なるほどそういうが人気なんだなーってのも分かるんですよ。で、なるほど、そうやっていってYouTubeで人気になるなーって言うとまた色んな考察もできるんですね。つまりそれって何か明らかにテレビの作り方と変わってってるよなーって思いながら、ね。
 昨日だっけ?一昨日だっけ?ミュージックステーション。昨日か、ミュージックステーション・スペシャルやってたけど、ボク、ミュージックステーションが死ぬほど面白くないんですよね。なんかこうすごい解説が入りますよね?こういうアーティストがこうだとか。あれって何かこう音楽の崇高さとか、音楽のロックの…出てるアーティストが悪いとかじゃなくて、何かを解説しなきゃいけないっていう感じがすごくボクは見てて気持ち悪いから見ないんですよね、音楽好きなのに。でもスタジオとかでの演奏表現とかをどうセットで見せるかみたいなのはカッコイイなーと思う時もあるんだけど、なんかあの構成がすごく好きくないんですよ。
 で、一方でYoutuberのそういう人気の人達の話を聞いた時に、YouTubeで人気になる番組とテレビ…だからソーシャルメディアで人気になる動画とマスメディアで人気になる動画というものはもう完璧に作り方が違ってるんだなーなんてことを客観的には思うわけです。どっちがいいとか悪いとかじゃなくて。ああもうそういう時代なんだなー。たからYouTuberで、ある1人の人が、その人が人気というかそんなに知名度がないただの人なんだけど、ただの27歳の女の子とかなんだけどすごい人気だみたいなのって、じゃあ一方で人気というか誰でも知っているアーティストやタレントさんがYouTubeやってても300回とかしか見られてないとかね。まあボクのこれも…別にボクは有名人でもないけど、ボクのこれも一貫してそうだと思うんですけど──って思った時に、有名とか無名とかってもう関係ないんだなっていうところって一個それはYouTubeの新しさだなーなんて思って、まあ得心するわけです。一方でミュージックステーションとかだとこの曲がこんなに有名でとか、こんなに売れてとか。もう有名だっていうタグをばんばんばんばん、ばんばんばんばん、ばんばんばんばん、ばんばんばんばん貼り付けてくのが気持ち悪いんですよ。だからボクが2016年にテレビ局を辞めたっていうのってその気持ち悪さをボクは作ってくのがもうなんか辟易してしまったのの延長線上に昨日見たミュージックステーションがあるんだろうなーなんて思うわけです。
 だからマスメディア的なエンタメってのはもうなんかボクの中では6年前ぐらいに卒業してるわけですよ。ある意味引退してる訳ですよ。で、一方でじゃあそのYoutuberの、じゃそういうの見てなるほどなーとは思う。で、自分もこんな風に喋ってる。だけど──そこではたと思うんですよ。その人気のYoutuberの動画、死ぬほど見たくないんですよね、ボク。もう全然見たくない。それが解説動画で役に立つからって言われても全然見たくないし、それで勇気付けられるからって言っても全然見たくないし。で、そういう話をその話してる人に言ったら、いやでもそれって別に自分も”ながら”…、だからラジオを聴いてるような感じで見てる、ぼーっと見てるだけだと。多分今の若い人達ってのはそういう風に一生懸命見ないから、そういうことなんじゃないですかって言われて。うん、全くその通りだなーと思う。そうなんだけど、それを自分が見たいかって言うと、もう、全く!見たくなくて。

ボクがボクを否定する

 で、一方でさっき話したミケル・バルセロさんの作品についてはずっと見ていたい。うん、ずっと見ていたい。(本を広げながら)こういう風に作品が出てるんすけどね、ずっと見ていたい。
で、なおかつこの人が何でこういう作品を描いてるかってことを、描いてるかってことを小林康夫さんが書いてるって本は読んでいたい。で、その中にメルロ=ポンティっていう哲学者が語っていることがあって、それを解説する本があったら読みたい。だけどミュージックステーションは全然見たくないし、その人気YouTuberの動画はもう死ぬほど見たくないんですよ。
 で、これって何の否定もしてる訳じゃなくて。ミュージックステーションを否定してるわけでもないし、その人気YouTuberを否定してるわけでもなくて。むしろボク、このボクが否定…ボクがボクを否定してるんだなーともちょっと思うんです。もうね、世間で仮にマスメディアとしてそういう描き方が番組の正解なんだっていうことがあったとして、それを邁進しているエンタメがあったとしても、それボク本当に見たくないわけですよ。で、一方で、じゃそういうのとは違うYouTuberが自分の日常とかを、…マスカラつけながら喋ってるみたいなやつとかは仮に面白いとかその人がすごい人だってことは分かったとしても自分は見たくないんですよ。これ…、もう、ボク引退するじゃないんじゃないかなって思ったっていうか。そう、それが今回のタイトルの「エンタメの引退」っていうタイトルなんですけど。つまり自分がエンタメ…、もうエンタメ、少なくともこの2022年のエンタメに全く興味がなくなっちゃったんですね。
 で、またこれが闇が深いのが色々あるんだけど。まだ自分は…と言ってもプロデューサーをやってるわけだから、その構造みたいなのは分かるんです。そうすることで面白くなるとか、そうすることで視聴者が惹きつけられるだろうなとか。だからそのテクニックとか構造としてはそれを受け入れられちゃうんですよ、頭としては。だからさっきのメルロ=ポンティじゃないけど、精神の方では理解できるんだけど、それと身体として、じゃあ実際クリックして見るかとか、テレビのリモコンをプッと推して見るかとかっていう身体的な行動に本当に行かない。嫌悪感なのか拒否感なのか、それを見るんだったらメルロ=ポンティの哲学書を読んでいたいって本当に思っちゃう訳ですね。と思った時に、闇が深いのは、という風に構造的には分かるけど自分の感情として嫌だなってのが一つと。と言いながら自分はバラエティプロデューサーという名前で仕事をしているわけで。色んな企業さんとエンタメを作っているわけです、今も。そうするとそれって企業さんとやってるという意味ではそのエンタメをやっぱり成功させなければいけないという使命感がある訳ですよね。その成功ってのは何か?って色々あるけど、やっぱり1個はたくさんの人に知られるみたいなところはすごく必要なわけですよ。だからそれを自分の中では嫌悪感を感じてるのに止めてるわけにはいかないっていうジレンマみたいなものをすっごくすっごく感じる訳ですね。
 だからすごい簡単に言えば、もう本当にもう引退したいなと思いました。卒業、引退、引き際。うん、なんかそんな風に思うわけです。だけど一方で、別に自分は何の金持ちでもないし、資産があるわけでもないし、株で儲けてますとかも全くないし。ってことは日々生きてく身銭を確保するためには自分は働かなきゃいけなくて。じゃあ自分が働いて何ができるかっていうと結局プロデューサーをやってきたわけだから、それで、その場で働いてることが一番経済効率がいい、つまりお金が一番もらいやすいわけです。ってことは結局、引退したいなーなんて思いながらも引退するわけにはいかない。引退したら本当に何も食べれなくなっちゃいますからね。いや一方で全然時給換算の仕事、今はボクなんかを雇ってくれる人がいるかどうか分かんないけど、やるって手もあるけど。それよりはエンタメの方で自分がアイディアを出して形にしてる方がまあ得意だし、効率はいいわけですよ。ただ、それを人気にするためにマスメディア的な方式で演出する、一方でソーシャルメディア的なことで演出する、それってね、よく寿司特ではコトブキツカサと「どうやればこのYoutubeが人気になるか?ならないか?」みたいな話もしたりもしてて。まぁ人気にならなくても適当に喋れってればいいかってことでいつも適当に喋ってるんだけど。そういうところがすごくボクの中で見えなくなってしまったっていうのが本当に昨日ぐらい。だから…という意味でそのYoutuberの分析を聞いたのはボクの知らない人がたくさんいたんですよ、何かもう読み方も…読み方は平仮名とかだから読めるんだけど、この名前で合ってんの?みたいなニックネームなのか名前なのか分かんないような人いらっしゃるじゃないですか、うん。で、翻って、そういう人のYouTubeとかを見たくないんだなーって思うんだから、そういう人達のYouTubeを見てる大部分の人って、この(ICUC/mireva channel)YouTubeとか見たいわけないですよね。ってことを考えると先程のそのずっとこのほぼ1ヶ月間更新してなかった自分の気持ちとそこはそこで重なる訳ですね。そもそも喋ってることって意味があるんだっけ?自分が人に何かの意見を言うことって意味があるんだっけ?みたいなね、そんなことを思うわけです。

尊敬するプロデューサー

 一方でね。ー昨日4月1日、シス・カンパニーっていう堤真一さんとか、三谷幸喜さんとか、大竹しのぶさんとか、杉本哲太さんとか、高橋克己さんとか、八嶋智人さんとか、たくさんの俳優さんを抱えている芸能プロの社長であり、そういう方々をバンバン使ったすごい名作をバンバン…元々夢の遊眠社の製作であった北村明子さんっていうプロデューサー、ボクが尊敬するプロデューサーがいて。金スマでね、大竹しのぶさんがキャスティングしてる時からの知り合いだから2001年からの知り合いなので、もう20年以上可愛がっていただいてるんだけど。昨日対談してきたんですよ、1時間ぐらい。うん、北村さんとね。そうすると何で彼女が演劇をやってるか?みたいな話とか。その演劇の中での役者の構造とか。演劇とテレビの違いとか。バラエティ番組とは何なのかとか。ワイプ画面とか何なのかとか。これちょっと書籍にしようと思ってるんですけど。北村さんと話して来て、すっとい面白かったんですよ。で、一方でね、今ボクはこんな感じで引退だとか言ってる割には、ボクなんかよりも20個も年上の北村さんとかはバリバリと。まだ私はこんだけやりたい芝居があるのよ!って言って、すっごい嬉々として喋ってて。何でこういう芝居がやりたいの?だって自分が見てみたいから!みたいな。ただそれがこの小屋とね、この役者さんと、この演出家とかとマッチング出来るか?みたいなのでなかなか決まらなかったりして。なかなか出来なかったりするとか仰ってるけど。でもそれをね、このコロナ禍でも邁進してボンボン作ってるわけですよ。まあすっげぇカッコイイ女性なんですよね。うん。そういう話を聞いてるとね、ボクなんかが何かマスメディアとソーシャルメディアの中での、エンタメの中での自分の宙ぶらりんの状況をみたいなものでね、嘆いてる、ぼやいてる、腐してる…みたいなことを土曜日の朝から喋ってることなんてね、「全くもう!ナイーブいね。」「バカね。」とかって(笑) 北村さんには言われちゃうんじゃないかなーなんて思ったりもするんですよね。思ったりもするんだけど、なんかそんな感じでね、そのYoutuberの現状みたいなのを聞いて、…何かエンタメ…何か自分はもう関わってる場所じゃないんじゃないかなっていうのは思ったってのは事実ですね。
 演劇なんてのはね、むしろ前から思ってるんですよね。そういうこそ2016年とかにはですね、吉本新喜劇の佐藤太一郎とか、しずるの村上さんとか、キングコングの西野さんとかの舞台を一緒にやったりしてね、演出とかやらせていただいて。舞台とかすごい楽しいんですよ。すごい楽しいんだけど、一方でね、シス・カンパニーの舞台とか、ケラさんのとか、三谷さんのとか、野田さんの芝居とかを観に行くと圧倒的に素晴らしくて。大人計画とかね、観ていくと自分なんかがね、ヨーロッパ企画とかね、自分なんかが関わってるレベルじゃないなっていう。だからボクみたく色んな所にいっちょ噛みしてる様な人間がやってるレベルのものじゃないよなーなんて思ったりするから。演劇なんてのはむしろ数年前からもう自分観る方だけでいいやと。いやいや、あの…演しましょうっていう話があったらくださいね?(^^) それはやりますけど。
 うん、まぁそんな風に思ったりもしてるんで、演劇に関してはそうなんですけど。こと映像に関してもねぇ、何かもう自分がやりたい事っていうのが仮にやったとしてもそれは絶対ウケないなっていう…。今ウケてるものを作りたいなっていう気持ちがもう本当にないなっていうことだけが分かったっていう。それがエンタメの引退っていう。エンタメの引退って言うのはボクの中でエンタメを引退するのか、エンタメ業界の中でボクが引退するのか、みたいな様なダブルミーニングなので「エンタメの引退」ってタイトルにしたんですけど。うん、でもね、本当に、本当に本当に凄い色んなことを考えるこの休止期間ではございました。
 はい。そんな感じで久しぶりに喋ってみましたけども、どうでしょうか?うん、まあ、来週とかも喋ってみようかなーとは思っております。結局今思ったことを形にするということをやってくしか自分はね、生きていけないっていうのは分かってる訳で。だから引退と言っときながら引退できない自分もいるんだけども。でも気持ちはそんな感じっていうことでございました。バラエティプロデューサー角田陽一郎、ICUC知的好奇心向上委員会でございました。すいません、1ヶ月休んでしまいました。またよろしくお願い致します。

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文字起こし後の文字寝かし

(好き勝手に思った感想を書き残しておくことを文字寝かしと言うことにしました)

 スタッフの方々におはようございますSNSがなかったね、と。スタッフの方とはいえ、もしかしたら仕事の一環かもとはいえ、即バレするとはスタッフの日常に角田さんのSNSがあったということ。
 仕事と日常、公と私の境界が薄い。副業や個人事業をよく聞くようになってからは、誰でも日常の呟きが仕事に繋がっていく可能性がある。そうすると悪い意味で全てが仕事になってしまうときもあるんじゃないか?スマホもSNSも中毒という言葉を使われることがあるけど、窓を閉ざす恐怖という幻想で窓を閉ざす私の時間が、夜が来て寝る時間がなくなる様なものじゃないか?ただ、いい意味で境界線がないのがseasoningスタッフなんだろうと思う。

 ボクが見た世界を描くこと”に”落とし込む。描くこと”で”落とし込む、か?言語化ではロジカル過ぎて表現するには緻密で途方もなくて、音で表しても…そうか、百聞は一見にしかずは言語でも音楽でも耳から入るもの全てが一見に及ばないのかもしれない。見るには観るや視るや診るがあって、つまり見るには幅広い体験するって意味が入ってる。聞くは効くや利くなど音が同じなだけでちょっと”見る”の範囲ほど広くないし、能動的に聞き入れる姿勢があってこそな気もする。百聞は一見にしかず。百見は一考にしかず。百考は一行にしかず。百行は一果にしかず。自ら見たものを考え、描き、絵画にする。

 311の絵を描いていたら、海の色をウクライナの国旗の色で塗りたくなってしまって。
 ダリ。シュルレアリスムとは深層心理を絵に表す手法だけど、ダリの絵はシュルレアリスムではないとシュルレアリスムを発足した人たちは言っていたそうで。対してダリは心理学者のフロイトに「ダリの絵は理解出来るが、他のシュルレアリスムと言ってる人たちの絵は全く理解できない」と言われたため、自分こそシュルレアリスムだと言い返したらしい。
 シュルレアリスムのオートマティスムという手法は、雑に言えば薬や酒で意識が朦朧とした状態で描いたものから深層心理を読み取るそうで、なんだかロールシャッハテストのようだ。一方ダリは、雑に言えば彼の絵は分かりやすい絵であり、はっきりと自分の過去や思いを表現として絵に落とし込んでいる。酩酊状態で描いてはいない。
 とすると、角田さんの絵はダリの手法の方に近いのか?もっと適切なカテゴライズがあるのかも知れないけど、私の知識の内ではダリに近いとしておく。

 止めてしまうのは惜しいと2年やってきたけど止まった。つまりそれまでどんなに今より気分が優れなかったとしても窓だけは閉じなかった。窓を閉じようと考えたことはあるかもだけど、だって窓こそ角田さんのライフワークだから。その窓を考えではなく思いで閉めたのが今回だったのかなと。確か論文にもテレビという窓って話をしていたけど、窓がなくちゃ角田陽一郎ではないという感じがあって。でもそのせいで今矛盾で困ってる。窓を閉じる準備段階が直接窓に繋がらない絵を描くことだったのか?右脳左脳で言えば右脳と言うか、今まで使えないと思っていた土地に鍬を入れてみたら、知らない芽が出たような。

 世界には自分の身体も存在してるんだけど、その世界を表すのは自分身体。蛙が異物を食べると口から胃を裏返して出す、つまりすごい方法で吐き出すんだけど、そのことを思い出した。自分が見た世界を自分の中で消化し、その消化したものを材料としてよく見て創る。

 メルロ=ポンティの「目と精神」と書いてから、気になって検索し、「眼と精神」と書き直した。目と眼の違いが何かあってわざわざ「眼」を使ってるんだなと再検索。目はまつ毛や瞼なども含むもの。表す範囲が広い。眼は眼球そのもので、眼鏡が目鏡でないのは視覚矯正という眼球の能力についての矯正器具だからなのだとか。瞳は思っていた通り瞳孔、黒目の部分のこと。今回は瞳は関係なかったけど、「目は口ほどにものを言う」ってことわざを思い出した。口は聞かないし耳は話さないけど、目は聞くし話すんだ。

 エンタメはもう自分が関わってる場所じゃないんじゃないかって思う。それって以前から仰っている俳優をやってみたいとか、自分をプロデュースしてくれる人が欲しいとかってことじゃないかと感じた。コトブキさんによく言ってた「自分は出役じゃない」というのは、出たいと思い始めたら辛い思いをするぞという自分への戒めだったりするだろうか。
 色んなところにいっちょ噛みしてるボクは演劇は観る方でいいやというのも、つまりエンタメの中での専門性。私に置き換えて見ると、手で何か作ることは好きだけど、もう少し言い方を変えると手を動かしている状況が心地いいとも言える。自分の手がすいすい動いてくれる心地よさ。だけど思う様に手が動かない難しいものは、その難しさを克服してやりたいという想いが必要になるし、手を動かすことなら何でも心地いいわけでもない。例えば料理や掃除は好きじゃないみたいな。好き嫌い、出来る出来ないの分かれ道はどこにあって、何を基準に選んでるんだろう?

 わ!佐藤太一郎さんは同学年だったのか?!特技:メガネのフィッティングってなんだろう?メガネ屋さんにお勤めしてたことでもあるのかな?新喜劇でのすち子さんとの「ぬんぬんって言ってない!テッテレって言ってない!」の掛け合いが好き。

 今回の画像、すごくコントラストがしっかりした画だった。しっかり拭かれて綺麗な状態のパソコンのレンズだったのかな?さらに陽当たりのいい時間帯だったんだろうな。

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