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ICUC第32回(篭もって第26回)2020.9.20【流体の人生と森の生活】

今週もゆったり知的好奇心のアップデート【知的好奇心向上委員会 ICUC】趣味の動画文字起こしメインのメモ。

今日の推薦図書
『森の生活 ウォールデン』 (上)、H.D.ソロー、飯田実訳(岩波文庫刊)

動画 (ICUC先行公開後に一般公開)
ICUC#26「流体の人生と森の生活」
人生ってつくづく流体なんだと最近よく想う。 時化もあるし凪もある。 サザナミもツナミもある。 自分が渦になることも、自分が渦に巻き込まれることもある。 急流だったり、清流だったり、濁流だったり。
「その日の生活を質的に高めることこそ、最高の芸術にほかならない。すべての人間は自己の生活を細部に至るまで、精神が最も高められ研ぎすまされた瞬間の観照にも堪えられるものにしておくべきである。」『森の生活 ウォールデン』by H.D.ソロー
ということを話しています!よかったらご覧ください。

[CAMPFIRE] ICUC 知的好奇心向上委員会

ICUC note

ICUC主宰:ヨウイチロウ web サイト

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動画の内容
・修士論文/じっくり書くは苦しい/文化資源学者になりたい
・本当は6冊連続6社から/新刊で啖呵を切る/自分に暗示をかける
・物件が見つかる/森の生活/歳を取っても情報の森に行ける人
・最新より今接する過去/都会に住む意味がなくなる
・旅は道連れの面倒さ/生活の質こそ芸術
・丁寧な暮らし、丁寧な作品/2行で変わる本の醍醐味
・真理は変化や偶然に揺らがない/真理は身近にある
・どう生きてもいいからどう生きるか/人生は流体
・僕の始まりの311/森の中に居る流体のわたし
メモという名の私の感想

修士論文/じっくり書くは苦しい/文化資源学者になりたい

 おはようございまーす。バラエティプロデューサーのヨウイチロウでございます。先週は角田陽一郎って言っちゃったなーって、今ふと思い出しました(笑)。まあ角田陽一郎なんですけどね、ヨウイチロウと改名してからそんなに評判が良くなく(笑)「えぇ〜、なんかいかがわしいじゃないですか」とか言われ続けております。よろしくお願いいたします。

 ICUC知的好奇心向上委員会の9月20日版でございますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?私は東京大学大学院の修士2年でございますから、こう見えて、歳食ってますが、修士論文を12月までに書かなきゃいけない。だからあと2ヶ月半ぐらいでやらなきゃいけない。そんな中でですね、今週の水曜日に中間報告会ってのがあって、つまりその学科、文化資源学専攻のみんなの前で今、論文をこんなふうに考えているというのの中間報告をしなきゃいけなくてですね。で、まあそれをなんとか乗り切りまして(笑)。
 乗り切ったと言うか、これなかなか難しいのはですね。伊達に50年生きてないものですから、その場をどう乗り切るかみたいなことは、何て言うんでしょ…テレビマンとして、プロデューサーとして、その番組の収録現場とかでその場で乗り切るみたいなことを身につけてしまったものでございますから、報告会みたいなものを乗り切るためにこういう喋り方をすればいいとか、こういう資料を用意すればいいみたいなのは、何となく分かっちゃうんですね。それはもう自分中の社会人としての持ち味ではあるんですけど、これって良く言うとすごい現場機動力が良い、悪く言うとその場で何かとりあえず乗り切っちゃうみたいなところが…ねぇ。まぁテレビなんで、そういうところなので。
 なのでじっくり論文を書かなきゃいけないっていうときは、結構苦しいんじゃないかなって自分では思っております。なのでこれから2か月半、結構ね、本当に頑張んないと。いやあの、構想自体は面白い論文が書けそうな気がするので、それをですね、あとはどれだけ自分が突き詰められるか?突き詰められたってあと2ヶ月ちょっとしかないから突き詰められないんだよな。ただね、せっかくこの歳で大学院チャレンジしておりますから、文化資源学者になりたいので(笑)。この歳から学者になろうと思ってるってのも中々面白いかなと思ってるんで、頑張ってみようかなーなんてて思ってます。

本当は6冊連続6社から/新刊で啖呵を切る/自分に暗示をかける

 でね、そこまではいいじゃないですか。だったんですけど、ある編集者から「あの新刊どうなりました?」みたいなね、メールでちょこちょこ来てるんですけど。この前、水曜日の修士論文中間発表会前々日、月曜日にメールが来て、どうなってるんですか?みたいな感じが来て、どうなってるって言うか、もうなんか年内に出しませんか?と。角田さんのその本、出したら売れるんでって言って頂けてですね。そんなふうに言って頂けるの嬉しいんで、月曜日にはその修士論文の用意をカチャカチャやってたんですけど、何となく水曜日の発表の準備はできたものですから、その時にそのメールが来たもんですから、じゃあもう明日、つまりその論文の発表は水曜日だったからその前日の火曜日に、1回ちょっとzoomで会議しますかってことで編集者と会議をしたわけです。そこで色々と編集者と話してるうちにですね、修士論文を書くのが12月の第1週目までなので、それ終わってからか書くってやってると、どう考えたってその本って今年出ないわけですよ。でもどう考えても今年中に出した方がいいし、遅くても1月にくらいには出した方がいいですよねーみたいな。だってそもそもで言うと去年の10月ぐらいに出そうと。
 去年、本当は僕6冊連続で7月から7、8、9、10、11、12月と出す予定だったのが7、8、9月で1回止まっちゃったんですね。6冊連続6社から出そうっていうのはなかなか難しいんだってとことが分かったんだけど、7、8、9月って出して、その後3冊が出せなくて、今年の1月に「読書をプロデュース」を出したのが4冊目じゃないですか。で、まもなく10月13日に「天才になる方法」ってのが5冊目が出るんで、1月、10月ときて、次のやつをどうしましょう?みたくなった時に、そもそもね、その論文の流れでいうと、9月16日の中間発表会が終わって、9月中に論文の構成を整理して、10月から毎日書こうと、うん。
 だから10、11月と毎日書こうって思ってたわけだから、その本の編集者と話してて、ってことはむしろ10月までにその新刊を書けばつじつま合うわけですよ(笑)。なので編集者にもうなんかそこまで言われちゃったんで「分りました。もう9月中に書きます!」みたいな。ついzoomで啖呵切っちゃったわけですね。そしたらもう、むしろ編集者は驚いて「えー!マジですか?本当ですか?全部書くんですか?」「全部ったって、いやあの、すいません、原稿はなんとなく第一稿は出来てるんですけど…あの、第一稿しかできてないので、そこからどう肉付けしていくかみたいなところがまだ足りないなってところなんですね。でもそれをやりますよ。」みたいな。
 やりますよって言っちゃったんですよ。で、言っちゃったのはまだ9月の2週間あるし、この日曜日もそうですけど土・日・月・火と4連休、シルバーウィークじゃないですか。ここでちょっと頑張れば大丈夫なんじゃないかなーなんて思って、やります!って言っちゃったんですね。
 で、言っちゃったんだけど、今日、今、土曜日の夜、これは日曜日にアップしてますけど、シルバーウィークも半分過ぎようとしてるのでございますがまだ手ぇつけてない(笑)。大丈夫かなーとか思いながらね。ただまぁ…そんなもんでしょ(笑)!

 そういうふうにね、こう締め切りがないとやらないタイプってのは昔から。僕は浪人してるんですけど、浪人ってそうなんですね。締め切りがあればやるんですよね。で、テレビ局って基本は締め切りがないとまあ…(顎を掻きながら)こうポリポリしてるけどなんか嫌だな(笑)。あの、締め切りがないとやらないという、むしろ締め切りがあるからなんとなく完成させるっていうふうにずーっと22年間やってきたものですから、とりあえずもう9月にやるって言えばやるだろうみたいな。自分を暗示をかけるみたいなね、ことをやってるんですけども。でも頑張りますみたいな。で、頑張りますと思いながらまずこの動画を撮っちゃったほうがいいなーなんて思ってね。この動画でまた宣言することでさらに暗示に暗示をかけるみたいなことをやってるという次第でございます、と。はい。

物件が見つかる/森の生活/歳を取っても情報の森に行ける人

 あとね、今週で言うとですね。何回か言ってますけど引っ越そうかなと思ってやっと物件が見つかりましてですね。大丈夫か引っ越しなんかして?みたいな。(後ろの本を指差して)これ運ぶの、全部持ってくのか?みたいな(笑)。全部持って行こうと思ってるんですけどね。

 ただまぁね、それこそね、もう今日の本を紹介しちゃいますけど。今日ですね、この本を紹介したいと思うんですけど。(本を画面に移そうとして)逆光…光…大丈夫か?…これで大丈夫か?難しいんだよなこれ。
 『森の生活 ウォールデン』H.D.ソローという方が書いた本なんですけど。これ有名な本ですよね。有名な本で、つまり森の中で生きるみたいなことだから、なんかすごく憧れるような本だなーって思って。これ見ると1995年に出てるんですよね。僕は1994年入社なんですけど、これ96年に買ってるんですよ。96年版を買ってるって事はたぶんイメージでいうと、94年にテレビ局に入ってADとかやらされて、もう本当にずーっと働いてて、森で生活したいなって(笑)、思ったから買ったんだと思うんですよね。そうなんだけど、やっぱりちょっとなかなか読めなかったんですよね。だからずっと積読というかこの本棚に入ってて。
 これ上巻なんですけど下巻持ってなかったんですよ、今は持ってるんですけどね。ということはつまり上巻読んでから下巻を買おうと思って、上巻ずっと読んでないままだったんですよ。だから下巻は最近買ったんです。だから下巻は2019年版なんですよね(笑)。

 まあそんなことがあってこの本を読んでたらですね、まあ簡単に言えば僕も森で生活したくなったっていうことをすごく思ったっていうか、都会で生きる意味がないなって元々ちょっとだけ思ってますよね。元々思ってるんだけど、森の生活っていう意味でいうと、情報の森に、人の森と言うか、インフォメーションフォレストと言うか、やっぱりその森の中に自分がいないとプロデューサーができないんだろうなと思ってた。だからいつかは田舎に行ってみたいなーなんて思ってるんだけど、なかなかそれも現実的じゃないよなぁなんて思ってたわけです。
 一方で情報の森がないと仕事ができないってのもあるし。例えば住みやすさランキングみたいなのって北陸地方とかが1位とか2位とかになったりするじゃないですか。富山とか福井とか。富山とか僕大好きなんです。魚津ってところで自分の映画「げんげ」を撮ったりしてるから、行ってみるとご飯もおいしいし、すごい住みやすいし、本当に風光明媚だし、人もいいしみたいに思うんですけど。ただ、じゃあそこで住めるかって言うと、やっぱり僕が自分が住むところに価値を見出してるものって演劇だったり、ライブだったり、つまりその街じゃなきゃ観られないもの。だから下北沢に本多劇場があるとか、そういうところで観られるものってやっぱり北陸じゃ見られない。見に来りゃいいんですけどね。だから自分は歳とっても下北沢とかに行けるような人でいたいなあなんて思ってたわけです。

最新より今接する過去/都会に住む意味がなくなる

 ところが、このICUCでは言ってないかも知れないですけど、なんかね、もう新しいもの見なくてもいいかなってちょっと思ってて。興味はあるんですけど、演劇とかライブとか見なきゃいけないってのは色んないろんな理由があるんだけど、それよりも僕が知らなきゃいけないもの、経験しなきゃいけないものって、例えば後ろにこれだけの本があって、でもまだ読んでないものがたくさんあるわけですよ。でもこれなんてほんの一部なわけで、世界のあらゆるものって僕らが全部見ることなんかできない訳じゃないですか。その時に僕の有限な時間、人生の中で、最新の演劇やライブを見るよりも、過去にあったのもので見といた方がいいもの、見といた方がいいかどうかは自分次第だと思うんですけど、それに接する時間の方が大事かなあなんて思ったりしてて。なので何か新しいものは積極性に観なくてもいいやってのは、なんか今年ぐらいから思ってたんですよね。と思ってたらコロナになっちゃって本当に観られなくなっちゃったというのは悲しい出来事なんですけど。
 でもまあ事実観られなくなったなと思う一方で、配信で観られるようになったじゃないですか。だから今年だけでも舞台で言えば三谷幸喜さんの大泉洋さんが主役の大地ってのを観られましたし、ケラリーノサンドロヴィッチさんのちょっとヘンテコな(笑)舞台も観られましたし。ライブで言えばムーンライダーズなんて…ムーンライダーズを観たし、ハーフムーンライダーズみたいなのを2回観たし、山下達郎さんも観られたし、サザンオールスターズも観られたし、アジカンも観れたし、ガガガSPも観られたし、サカナクションも観られたし…とか考えると、今言ったものなんて、もし本当に観ようと思ったらチケット取れないじゃないですか。そうすると街に住んでても実はアクセスできないもの、プレミアムチケットだからみたいなものとかが、結果配信で観られるじゃんってなった時に、当然現場に行った方が楽しいみたいな、FUJI ROCKは今年はなくなっちゃったから残念だなみたいなこととかありますけど、何か僕はもう、もし配信で見られるなら配信でもいいやってちょっと思ってて。まあ僕も年だからですけどね。
 と考えると、元々観なくてもいいやと思ったし、むしろ都会にいなくても観られるじゃんと思った瞬間に、本当にここは都会のど真ん中なんですけど、都会のど真ん中にいる必要ないなーって思い始めました。

旅は道連れの面倒さ/生活の質こそ芸術

 で、思い始めた時にこの「森の生活」という本を思い出してパラパラパラパラ読んでたらですね、いやー、これ…だから今読んで良かったのかなってまた思うんですけど、本当にここにこう色々…僕読んだら大体こう折っちゃったりするんですけど、結構色んなところ折れてますけど、ずごい良い言葉がたくさんあったんですよ。僕自分の読んだ本とかのちょっと良いコメントみたいなのは自分のホームページ、noteでなくてホームページの方のブログってところに書いてるんで、もしこれ見て…全部読むのは大変だけど、こんなこと書いてあるんだっていうことが知りたければぜひ僕のホームページ見ていただければいいんで。今読みますけど、例えばですね、

「ひとりで旅立つものは今日にも出発できるが、連れ立って旅立つものは相手の準備がととのうまで待たなくてはならず、出発までにはずいぶん時間がかかるものである。」p.129

 う〜ん、そうなんですよね。これは旅と言ってますけど、旅も本当にそうだし、ビジネスだって仕事だってやりたいことだってそうで、仲間で行きましょうって言うと仲間に合わせなきゃいけないって結構、結構初めはなんか仲間と行くと楽しいなと思うんだけど、旅なんて何日も一緒にいたりすると本当に億劫になっちゃったりとか、やりたいことが違ったりするじゃないですか。そう言う時に無理くり合わせてることって本当に意味があるのかなってのは、まぁよく皆さんも経験されてると思うんですけど。これ仕事でもそうじゃないかななんて思った時に、自分が何かやりたいことをナントカちゃんがやるのを待ってようってやってると、まあ連れション的な?なんか永遠にできないことが多いんじゃないかなあなんて思ってたところで、こういうこと書かれてて。
 だからこのソローって方がね、本当に19世紀後半、日本でいうと明治維新くらいなんですけど、New England、アメリカの北部の都市から森の中に入って一人で生活するんですね。その時の体験談がみたいことが書かれてるのかなと思ってたんだけど、というのもあるけど、今読んだような哲学的な考察みたいなことも結構書かるてて、あぁ本当にそうだよなぁなんて思うわけですね。あともう一つ読まさせていただくと、

「その日の生活を質的に高めることこそ、最高の芸術にほかならない。すべての人間は自己の生活を細部に至るまで、精神が最も高められ研ぎすまされた瞬間の観照にも堪えられるものにしておくべきである。」p.162

 これね、僕、この言葉は本当にこれを読んだときに衝撃的で。それ以来ですね、本当に料理とか作ろうと頑張るようになったし、お米研ぐようになったし、コーヒーも自分で入れるようになったし、スムージーの機械でスムージーを作りながら飲むようになったし、なんか部屋もちゃんと掃除するようになったんですけど。
 つまりどういうことかというと、僕がやってることが芸術かどうかは分からないけど、何か物を作る事ってあるじゃないですか。それが音を奏でれば音楽だし、文章を奏でれば小説だったり評論だったりエッセイだったりするし、ペイントだったら絵を描くみたいな。つまりそういうメディアというか、マテリアルを何に使うかってことで、たぶん芸術ってものが色々なジャンルに分かれてる。そんなときに自分は何やろう?絵なんか描けないし、音楽もできないし、文章だけはちょこっとやれるな、テレビは一応、映像はやってたけど、じゃあそれがピクサーに比べれば遥かにダメだし、日本のすばらしい映画監督に比べたら全然稚拙なことしか出来ないし。みたいなことをやってたときに、なんか芸術的なもの、アーティスティックなものをやりたいなぁなんて思いながらも果たしてやれてるのかなぁなんて迷いもありつつ、自分もせっかく50歳になったんだから最後ちょっとチャレンジしてみるかなっていう風に思ってるってのは、前々から思ってるんですね。
 そんな中でこのソローの書いてる「森の生活」に書いてあるのは『その日の生活を質的に高めることこそ最高の芸術だ』って言うんですよ。この考え方僕には無かったんですよね。むしろ自分の生活、日常の生活をなんか滅私奉公というか犠牲にしてまでテレビを作ってきた。さっきのADの話じゃないけど、みたいなことをずっとやってたものですから、なんか自分の生活は棚に上げて、自分の生活は二次的に考えて何かを作るってことこそ芸術だなあなんて思ってたんだけど、日々の生活を最高にすることこそ芸術だって、その空気とか。だから掃除って大事なんだと思うとか、食べるものを気にするとかね。あとは単純に気持ちいい気分でいるとか、1日、毎日毎日。

丁寧な暮らし、丁寧な作品/2行で変わる本の醍醐味

 うん、それがすごい大事なんだなってことを気づかされて。だからなんか、なんだかんだ言って1か月ぐらいそういうのは結構自分で頑張ってやってると確かになんか…眠ぅ〜、眠ぅ〜、とか言いながら机汚いけどとりあえず適当にスペース空けてチャカチャカチャって文章を書くより、まず掃除してからやるとかね。例えば朝起きてまずコーヒーとかを適当に作って淹れるんじゃなくて、ちゃんと豆から挽いて淹れて。お湯を沸騰するまで待って、ちゃんとミルに入れて…とやってると…
 ぶっちゃけそういうのに憧れてる自分がいたんですけど時間がもったいないなーと思ったんです。そんなことなら早くさっさと作業しちゃった方がいいなと。ところが実際そうやってみて分かったのは、例えばクイックルワイパーみたいので床をゴシゴシゴシとやってるだけでもいいんですけど、それやってる間って意外に色んなこと思いつくじゃないですか。今日はコレやろうとかアレやろうとかね。だから結果、それが終わってから机に座ってさぁ何かやろうと思った時に、やり始めるまでの速さが速いんですよね、手をつけるのが。
 だからコーヒー淹れてる時も、このコーヒー淹れてるときに今日は何しようかなっていうの具体的に考えたりするから、今まではそういうのがもったいないからってことで早めに机に着いてたんだけど、結果Twitter見始めちゃったりとか、メール返さなきゃ、このメール面倒臭いんなーとか思いながらずーっとやってたりすると、結局結局、机に座ったはいいものの、なかなか始まらないみたいなね。そういうことが多かったのになーと思うと、実はその日々の暮らしを丁寧にちゃんとやることの方が、結果自分がやろうと思う仕事とか作品も丁寧になってくんだなってことが分かったって言うか。
 だから高々この2行ぐらいのこの文章だけで、なんか自分がこう何か感じたことがね、なんかこう、考え方が変わるみたいなのって、これって本の醍醐味だなーなんて思うんですよね。

真理は変化や偶然に揺らがない/真理は身近にある

 で、色々書いてありますけど例えば、

「自分と子孫のために財産を築きあげようが、一家族、一国家を建設しようが、よしんば名声を獲得しようが、われわれはみな死ぬ運命にあるのだ。ところが真理を扱うことになれば、われわれは不滅となり、変化や偶然を恐れる必要はなくなる。」p.179

 そうなんですね。まあだから、先月親父が亡くなって、みんな死んじゃうんだみたいな虚無感の中で、確かに自分の名声を上げるために、お金を儲けるために何かを作ろうとやっても、どうせ死んじゃうんだよなぁとかと思ってたんだけど、ただ自分がこう真理というものを考えるって事は、これってもしかしたら不滅になるっていうか。変化や偶然を恐れなくていいんだっていうのってなんか、なんかなんかちょっと分かる感じがすごいするんだよなーって思ったんですよね。
 あとはね、これですね。

「ひとびとは真理が、太陽系のはずれとか、いちばん遠い星のむこうといった、はるかかなたに存在するか、アダム以前なり、最後の人間のあとに存在すると考えている。──

 つまりその真理ってのは色んなところ、自分の近くにないだろう、すごい太陽系の外れとかずーっと先にあったりするとか、アダム以前、つまり自分が生まれる遥か昔とかね、最後の人間のあと、つまりすごい未来とかにあると思ってるでしょ?と。自分のところに真理なんてないと思ってるでしょ?と。でもね、この後続けると、

 ──永遠の時間には、確かに真実で崇高なものがある。けれども、そうした時間や場所や機会はすべて、今、ここにあるのだ。神自身もいまこの瞬間、栄光の頂点に達している。
 あらゆる時代が通りすぎてゆくあいだも、神がいまほど神聖なときはふたたびめぐってはこないだろう。したがってわれわれは、自分をとりまく実在の世界をたえず内部に浸透させ、そこに身を浸すことによってのみ、崇高にして気高いものを理解することができるのである。宇宙はいつだって素直にわれわれの思索に応えてくれる。いそいで行くにしろ、ゆっくり行くにしろ、われわれの軌道は敷かれているのだ。そうであるなら思想を懐胎することに生涯を費やそうではないか。過去の詩人や芸術家がどれほど美しく気高い構想を抱いたにせよ、少なくとも、後世の人間がそれを完成させることができないということはあり得ないのだ。」p.174

 つまりその真理ってものが自分の中、自分の近くにあるんだって事をたぶん言ってるんですけど、じゃあその真理が自分近くにあるってのは、さっき言いましたけどその日の生活を質的に高めることが最高の芸術だというのは、つまり自分の日々の暮らしを丁寧に生きるみたいなことが結果的にその真理に近づくことができるんだって言うね。
 この感覚ってのは僕の中ではなかったですね。でもある方はあるんでしょうね。だからやっぱい自分は全然見えてなかったんだなって思います。職人さんとかってそういうことが分かってるから日々の暮らしをちゃんと良くして良い作品を作ってるんだろうなと思うと、なんかこの言葉から僕はすごい色んなことを身に感じました。

どう生きてもいいからどう生きるか/人生は流体

 だからこれってこの本を一冊を読むだけでそんな変わるんだなって事が僕はすごい面白いなあと思うんですよね。面白い。何て言うんだろ、自分がどういうふうに生きてもいいんだと思うんですよ、別にそんなの。どういう風に生きてもいいんだけど、じゃあどういう風に生きるかって時に、やっぱり他者の目線みたいなものを気にしてたんだろうな。それは仕事で言うと視聴率みたいなものがあるし、売り上げみたいなものがあるし。自分もこういういい暮らしとか、そういうものを考えた時に、それって結果的に他人(ひと)の目から見ていいもの、みたいなね。
 だからこの人と仲良くなりたいってのも、本当にこの人と仲良くなりたいというよりも、この人と仲良くなってるという俺すげえ、私すごいわ、みたいなものを人は多分求めてるんだろうなーなんて思うんだけど、それってさっきの真理って話で言うと全然真理じゃないんじゃないかなっていうことにようやく気づけたかなと思うんですね。それがこの「森の生活」を読んだから気づかせてもらえたとも言えるし、やっぱり自分が50になってとかもあるし、父が亡くなったことからちょっと気づかされたことで言うと、何か大きなものを、大きな真理を自分の中で頂けたのかなーなんてことを思ったりもするんですよね。

 はい。で、そんな風なことを思いながら、僕は4日前にこんなこと書いてるんですけど、Twitterにですね。

人生ってつくづく流体なんだと最近よく想う。時化もあるし凪もある。サザナミもツナミもある。自分が渦になることも、自分が渦に巻き込まれることもある。急流だったり、清流だったり、濁流だったり。上流だったり下流だったり。どうせ流されるなら、どう流されるか?どこに流れるか?

 ってこと書いたんですけど。うん、そういうことなんだなあなんて思ったんですね。なんか自分はもともと川のような人間でいたいと思ってるって話はよくしてるんですけど、なんかそう考えると改めて自分という確固たるものがあって、そこが個体ではなくて流体であって、それが人に流されたり、あるいは自分が流したりとかもするし、すごい濁流に巻き込まれてわぁーってなってる時もあるし、すごい清流で静かなとこにいる時もあるなと思うんだけど、だから自分の場所がどういう水面なのか、水なのかっていうのって、自分が決めるしかないんだなーなんて思うんですよね。で、それが決めたけど、流される方向がどこか分かんないし、激しくなるかもしんないし。
 だからなんか本当に波だなって。今日の調子が良い悪いってのを波って表現するけど、確かにすんごい何やっても上手くいかないって凪ってなんだな。なんか全然動きがないなって時もあれば、今日はこんなことが!こんなことが!あんなことが!って、どんどん襲ってくる時化の時もあるし、それが起こり過ぎると津波のようにそんなの耐えられないよ!みたいなことが起こって、こう流体である自分みたいなものがなんとなく感じられるわけです。そうなった時に流体である自分が都市というコンクリートジャングルにいるのか?田舎の森みたいなところにいるのか?っていうのって、結局水というか流体の自分がどこにいることが流体の自分として楽しいんだろうな?気持ちいいんだろうな?っていうことを考えたわけですね。

僕の始まりの311/森の中に居る流体のわたし

 それがなんとなくもう今は都市に居る必要がないのではないかなーなんてことを思ったりもしてると言うか。それがこうなんか自分の最近のなんか流れかなって…うまいな!流れかなって言ってる(笑)!流体だけに!なんか自分で言っといて自分で気づいちゃった(笑)
 そうそうそうそう、だから流れとか波があるとかって、元々人の人生って流体で表現してるんですね。で、僕もね、ボルテックス=渦って話をよくしてるんですけど、だからビジネスはフレームじゃなくて渦になる、自分の思いを中心にした渦にどんどん人とかお金とか情報をどう巻き込んでいくかみたいなこととかを考えてるし、なおかつ、いつも文化という波に、カルチャーという波に波乗りしてたら楽しいなーって思ってテレビ曲入って、やれ、さんま師匠だ、中居正広さんだ、EXILEだ、いとうせいこうさんだ、ゆーすけサンタマリアさんだ、ザキヤマさんだとかって、そんな感じで番組とかを作ってきてたんだけど。あの311、2011年3月11日のあの津波の映像を見た時にね、自分がこう波乗りしてる場合じゃないなって気づいたとこから今の僕が始まってて。
 うん、だから波乗りしてる場合じゃないってことは、波と対峙しなきゃいけなって思った時に、自分が波と対峙するっていうのは戦うとかじゃなくて、自分が波なんだなっていう…うん、巻き込まれてるといかね。その巻き込まれて自分が渦になるのかね、時化でもなんでもいいんだけど、それはどういう場所でどういう風に流体として生きるか?みたいなことを、なんか考えてるんだろうなーなんて思ったりしますね、うん。

 はい、そんな感じですかね。あのもっと色々話そうと思ったことあったんですよね、あのほら首相が菅首相になったじゃないですか。で、その中で何て言うんだろう、色んな不満とか色々改善してもらいたいこととかもあるなぁと思いつつ、じゃあ野党ってのはどうなのかなと思って、この前、野党のなんかね、結成のやつの記事を見ていたらなんか代表と代表代行と代表代理と副代表ってのがなんか選出されてて、代表ってのはそもそも僕らの代表みたいなことで変わりって意味で「代」が付いてるのに、その代表にも代行っていう代わりに行う人がいて、それとは別に代表に代理ってのがいたりして、でも補佐をする代表補佐ってのは副代表ってのがいるとか。何なんだこれ?みたいな。つまりそういう風にポジションをみんなに分け与えましょうみたいなことだと思うんだけど、みんなに分け与えましょうみたいなことをやってるところが、野党なのにそれでいいのか?みたいな、むしろなんか自民党よりひどいんじゃないかなってちょっと思っちゃったっていうこととか、思ったりとかね。
 そういうことをちょっと話そうかなとも思ったんだけど、まあ、すいません、森の中にいる流体の私としてはそんなことが話せないまま今日のICUC知的好奇心向上委員会は終わりを迎えつつあります。

メモという名の私の感想

 「流体の話」を聴きながら、私は「凧の話」を思い出し、何となく不安を感じていました。私は凧の話が好きなので「出世のススメ」を本棚から出して読み返しましたが、私のいい加減な覚えで間違いで良かった。表現の対象が違いました。凧の話はネガティブだけど前向きであるとか、自分の帰属というか拠り所についての話で、流体は人の生きる時間や暮らしに見える人の在り方。
 凧の糸の先が地面にある=自分の拠り所があるから自由に風を受けて飛べるはずなのに、流体=水の話では(私がそこにあると思い込んでいた)船と錨の描写が出てこなかった。どうもそんな風に感じて不安に思ったらしい。思い違いでよかった。

 だけども私がイマイチうまく流体をイメージ出来ない。スライムが出てきちゃって思考を妨げてる(笑)(初ドラクエで3マスほど移動、スライム5匹相手に全滅した思い出のせいかな)。間に合わせとして移動可能な川、移動可能な流れのある湖をイメージしておく。私はまだまだ水溜り。何かを自分に通す、流れを作るを…まずは読書からだなと思う。

 数ページだけど「出世のススメ」を読み返してやっぱりよかったなと思ったところは、ヨウイチロウさんの拠り所は背景に映る本棚にたくさん眠っているということ(P.49から推測)、「決め事なんて瞬間の思い込みでしかない。そういう意味で僕らは自由です。」(P.53、54)。そうそう、思い込めば今月中に執筆が終わるし、引越しもできるし、修士論文も書ける。決め事は決めたい時に自分で使う暗示。

 本文の「自分という確固たるものがあって、そこが個体ではなくて流体であって…」確固って確かな固まり。それが流体って面白い。ヨウイチロウさんは角田は角い田んぼととも言ってたし、フレームとボルテックスの話をするとき、絵を描くと角い=四角いテレビの様なフレームを描いた。言葉や名前の固さ角さと対照的な流体、固さ角さは流体が使う道具になったのかもしれない。
 こじつけになるけど、私たちが皮膚の表面と思うその表面、そこより内が自分と認識しているそうだけど、右脳にはこの分ける感覚が分からない、時間も空間も分けられないのだとか。そうだとすると、流体がちょっと分かる気がする。ここにある、混じったり馴染んだりする部分もあるけど、この辺からこの辺までは自分の範囲というか。

 それで、自分はどうしたいか?を考えてみる。私には早く崩したいと思う結構頑丈な枠がある。例えば背が高い方が良いとして、身長なんかで比べられないのに、意識しないと背が低い人をみて「大変だな」なんて思っちゃうような。この人は背が低いけどコレがあるから…なんて思っちゃうような。
 この半年くらい、あと一歩で崩せそうな感覚だけはあるので、外れた時の自由を想像しつつ、きっかけを見逃さない様にいろんなものに触れていこう。

ICUCは
一人一人の知的好奇心がくすぐられるような
さまざまな「ヒト・モノ・コト」を
皆で持ち寄って
話して聞いて調べて楽しんで
自分の知的好奇心をアップデートしちゃおう
って集まりです。
(by 角田さん)

[CAMPFIRE]知的好奇心向上委員会 ICUC

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