つれづれ…なるままに。48。

太平洋戦争が始まる少し前に、名古屋市内に引っ越し、母は「札束が立つほど」のお金を払ってもらい、某女学園に編入しました。

しかし、すぐに授業らしいことは無くなり、毎日旋盤工場に行かされていたそうです。

「勉強したかった。英語を習いたかった。」が口癖でした。

当時は、敵性語と言われていたので、英語には憧れがあったようです。

母は戦争中のことは、多くは語りませんでした。私が覚えていることは

校庭に500キロ爆弾が落ちたこと。

茄子のすいとんが御馳走だったこと。

祖父の骨董品やら大切にしていたものを、わざわざ疎開させて土に埋めたのに、空襲にあって焼け野原になりみつけられなかったこと。

ぐらいです。話したくないことばかりだったのでしょう。

しかし、私が英語の成績が悪いと「私は勉強すらさせてもらえなかったのに!あんたは!」と言われて(今からでも勉強すればいいのに)と思ったものです。
終戦記念日には、必ず茄子だけのすいとんがでてきて、お昼ご飯になっていました。

戦後は、兄妹はそれぞれ成人して、母もアルバイトのような感じでいろいろ働いていたようです。
そして、お洒落をして外国映画をたくさん観て、ダンスホールに行ったりと、遅れた青春を謳歌していたようです。

祖父は昭和30年代に狭心症で、亡くなりました。いろいろあった人生でした。

それから、しばらくして。
その、芸者さんの息子が現れました。
かなり、時がたっていましたし、親族は詳しく知らなかったようで、しかも実質「長男」になるので

てんやわんやの大騒ぎになったようです。

なぜ私が詳しく知らないかというと。
叔父叔母、母たちが子ども(従兄弟たち)に何も言わなかった。内緒で事を進めていた。とのちに知りました。

母はというと、勤めた先の父と出会い、結婚します。35歳でした。遅い結婚だなあと思っていましたが、

できちゃった婚だったんですって!

と、のちに知りました。

そして、私が産まれたわけです。

我が家の小さい木に、鳥のために果物を時々置きます。メジロが来たり可愛いのですが、最近ヒヨドリが邪魔をします。

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