ビジュアル・シンカーの脳 #読書感想文
もう結構前になるけれど、ゆる言語学ラジオで取り上げられていた2冊のうちのもう1冊。
なかなか読むのに時間がかかったのは、自分がビジュアルシンカーじゃないから脳みそへの負荷が大きかったのか、それとも単に怠惰だったのか。
この本を読んでいて一番感じたことは、自分は果たして何で思考することが得意なのだろうか、ということ。
自分はモノづくりなんていうのは小さい頃から本当に才能がないし、抽象的な概念もおそらく人並みには理解できているがそれが得意かと言われればそうでもない。
かといって言語化が得意なのかと言われると、そうでもないなあというのが本心だ。
最近は何事においても言語化ということがもてはやされている風潮にあると感じる。
特に、自分が好きだったと思われる麻雀も、言語化することが偉いみたいな風潮があるように思う。
そしてそれは、実際に言語化できる方が優秀なのかもしれない。
翻って、自分はそれがあまり上手にできないと感じている。
趣味の麻雀に例えたけど、サッカー観戦中に、気持ちの良い後ろからの組み立てを見たとして、この選手がこのポジションを取ることによって相手のこの選手を引っ張ったからここが空いて……みたいなことを、時間があるときにはこうやって文章に起こせてもリアルタイムでそれを喋れと言われると頭の中に絵は浮かんでも口に出せないのだ。
果たしてそんな自分は一体何が得意なのだろうか。
そんなことをこの本を読みながら考えていた。
ずいぶんと自分語りが多くなってしまったし、自分の今までの読書感想noteとは大幅に毛色が違う記事になったけど、そういうのもたまにはいいかなと思う。
ベクトルが内側に向きがちだけど、それくらい、自分はどうなんだろうと真剣に思考に沈んでしまうくらいに、この本には強いインパクトがあった。
言語思考者という分類の他に、視覚思考者という存在があるということが、私の中では大発見だったのだ。
本を読めること、いや文字を読めることはなんにも偉くないし、言語化が得意なことも全く重要ではない。
重要なのは、いろいろな思考様式を持つ人間がいて、それぞれの得意分野を尊重し、苦手分野を補い合うという、とてもありふれた結論なんだろう。
過去の自分を振り返れば、文字を読めないことや言語化してくれない人に対して苛立ちを覚えていたこともあったけど、そうじゃなく、視覚的なコミュニケーションが得意な人からすれば、逆にそう思われていたのだろうという反省とともに、視覚思考が得意な人間もたくさんいるということをこれからの人生で認識しておきたい。