伯父の軍歴調査の話(2)

前回につづいて、戦死した伯父の軍歴調査の話。
前回、伯父の場所的な足取りは追いかけることが出来た。
さらに調べていく。

伯父の軍属の立場とは

伯父は陸軍の兵隊では無く、陸軍所属の軍属で発動機の工員であった。
軍属とはどんな存在で軍に徴用されるというのはどのようなことであったのか?
兵隊と徴用された船員の損耗率に次のような数字がある。

太平洋戦争の損耗率
海軍・・・16%
陸軍・・・20%
徴用船員・・・43%

徴用された船員の損耗率43%・・・軍人の倍以上である。
陸軍には以下のような言葉がある、
「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶(ちょう)やとんぼも鳥のうち」
この言葉通り、陸軍に徴用された民間の船員は軽視され、丸腰で輸送船を戦地に送り、米軍の集中砲火を浴びた。
奇跡的に命が助かったとしても船は破壊され、軍の救助は無くそのまま放置された。
伯父は工作船の工員であったので、軍人と共に活動し船には武器も搭載されていたのでましな部類であったであろうが、軍の民間人軽視が見て取れる。

艦船の情報

おれごん丸

おれごん丸の高精細の写真をアメリカ政府資料アーカイブスで見つけることが出来た。
この写真は陸軍に徴用される前の川崎汽船所属時代の写真と思われる。
川崎汽船100年史の社史によれば、日本~ニューヨーク航路向けの高速船であったが、陸軍徴用後は工作船(内部を工場化し、武器が設置)として改造された。

おれごん丸

米国海軍 潜水艦SS-182 サーモン(Salmon)

米潜水艦SS-182(サーモン)についてはWikipediaに記録がある。

SS-182(サーモン)

防衛省へ

ネットの調査

軍歴を調査する中で国立国会図書館や国立公文書館(アジア歴史資料センター)のWebサイトで史料調査を行った。

国立国会図書館デジタルコレクション
Webサイトから会員登録することでネット経由で文献を閲覧できる。
会員登録には本人確認資料のアップロードが必要で利用できるまでに数日かかる。ネットで会員登録すると東京麹町にある国立国会図書館で利用者カードの発行を受けること出来る。東京の他、京都にも存在する。

国立公文書館アジア歴史資料センター
会員登録せずとも資料の閲覧が可能。ただし、すべての資料をネットで閲覧することは出来ないものの軍歴調査の中で一番有用なサイトでした。
特に戦史叢書は役に立った。

防衛省 防衛研究所 戦史研究センター 史料閲覧室

上記のネット経由での資料閲覧が出来ないものについては現地で調査を行った。防衛研究所 戦史研究センターへは事前の予約と入館時に身分証明書の提示が必要です。さすが防衛省なので警備も厳重。
史料閲覧室には相談員の方がおり、「〇〇のことを調べている」と伝えると
短時間の間に関連資料を探し出してくれ、相談にも応じてくれる。
また、一部の史料は自信のスマホで写真撮影が可能である。
自分は何度か市ヶ谷の防衛研究所に通った。

戦時記録

第一船舶工作廠陣中日誌

国立公文書館のサイトにおれごん丸の陣中日誌を見つけることが出来た。
また、この史料の中に伯父の名前を何か所で見つけた。
タイ領内のシンゴラ(ソンクラ)での発動機の修理や日当給付額が記載されており日給3円10銭だった模様。当時の伯父は20歳である。

また、1回目の航海と2回目の航海の間の1か月強、伯父はおれごん丸の中間検査に大阪の藤永田造船所に随行派遣されていることが分かった。
伯父は家族とは会えなかったようであった。
最終的にこの陣中日誌には戦死者として伯父の名前が記載された。

第一船舶工作廠 陣中日誌

第一海上護衛艦隊司令部 戦時日誌

おれごん丸沈没の際の艦隊司令部戦時日誌に記録があった。

第一海上護衛艦隊司令部 戦時日誌

第一船舶工作廠 戦闘詳報

昭和17年11月18日、伯父が乗艦していたおれごん丸の沈没に到るまでの戦闘詳報。雷撃を受けた後、沈没までの約30分間の記録が詳細に記録されていた。なお、戦闘詳報はネットでは公開されておらず、市ヶ谷の防衛省でしか閲覧は出来ない。

第一船舶工作廠 戦闘詳報


雷撃を受けた場所

上記断面図の下甲板、四番船倉(赤丸で囲ったあたり)に伯父の所属していた発動機廠工員居室があった。おれごん丸は船尾に魚雷2発を受けたため、直撃であった模様。

戦闘詳報「戦闘経過」

戦闘詳報 「銭湯経過」P0594以降に以下の記載があった。
(1)11月18日00:20 東経119.45度、北緯14.50度の地点を航行中、本船左舷に居様なる音響(輸送船灰捨「バケツ」の落下音に似たり)を聞き、石炭船倉上甲板に在りたる安井中尉、直に左舷に走り周圍(囲)を点検せしも何等變(変)ることなし。

常時本船は機関部の灰捨作業實(実)施中にして似音多く該音なりと判断し居室に引返さんとするや00:20:30秒、再び左舷に前音を聞き間髪を入れず船尾にて二大爆音、大衝撃とともに火柱爆煙の空中高く揚り木片等の飛散するを見る。

(2)廠長安井中尉、草刈中尉は本船船尾に魚雷二発の命中を察知し、被害調査並防火防水等實(実)施すべく直に現場付近に到るも船内電気設備は激動のため壊滅し三番四番倉口の階梯(段)倉口蓋板及び「ビーム」等は悉く(ことごとく)飛散し、また船底の「バラスト」用土砂船内糧秣等は、爆撃のため下甲板及び中甲板上の各所に亂(乱)積せられ行動の自由意の如くならす暗黒の船底付近より人の叫聲唸聲等聞きたり。

(3)船橋に在りては非常警報を吹鳴し隣船に敵潜水艦に對(封)する注意を喚起しあり。
船は爆発時の衝動により機關(関)の蒸気配管等破損し、「シャフトトンネル」より機關(関)室に浸水せしを以て機關(関)は停止し逐次左舷に傾きつつ船尾より沈没しあるを知り、非常乘艇區分に基き總(総)員乘艇を命し、非常持出機秘密書類其の他を三番船倉中甲板の事務室より豫(予)て準備せる非常元だし搬出索により上甲板上に搬出せり。

(4)三番四番船倉の居室に在りたる下士官以下は逐次船倉内に設備せる非常用縄梯子により上甲板に出て非常乗艇配置に就き大小発動艇泛水に努力せるも本船起重機(※クレーン)配管破損し起重機に依る泛水不能なり。
00:25、四番船尾上甲板は將(将)に海中に没せんとするに當り、機関室上短艇甲板の救命艇二隻を船員必死の努力に依り辛して泛水し、重要書類及一部負傷者を乗艇離船せしむ。

(5)三番船倉に在る下士官以下は縄梯子その他に依り續々上甲板に退出中なり。
四番船倉の浸水は三番船倉に瀧の如く侵入し、0026 既に中甲板を没せり。
0027 船尾の沈下急に速度加え反對に船首は海上に露出し逐次倒立しつつあるを以て救命浮器其の他を海中に投入。
總員飛込を命するや否や船は船橋付近を軸下とし一大破壊音と共に急回轉(転)直立し、機関室より火炎を吐きつつ上甲板上にありたる浮遊物の一部を海面に残し急速度を以て海中に姿を没せり。
時將に0028なり

(6)此の際天祐神助力當廠工員必死の努力遂に報いられ三番船倉上に搭載の大発動機一隻の離船に成功す。
直に人員を救助すべく機関始動を試みたるも被害當時の衝撃に依り故障せるものの如く始動不能なり。
三番船倉口上の小発動艇一隻は爆発當時四番倉口「ビーム」飛来に依り大破し又、二番倉口上の大小発動艇各一は本船倒立傾斜増加のため船橋全面に轉(転)倒し、本船と共に海没せり。

(7)廠長安井中尉、草刈中尉、西少尉は沈没寸前海中に飛込み渦中に巻込まれたるも寸時にして浮上し救命艇に夫夫(※それぞれ)泳着す。
大発一救命艇二を以て救命浮器救命胴衣等に依り漂流中のものを逐次救助せり。

(8)おれごん丸沈没の状況左の如し

おれごん丸沈没の状況

昭和17年11月18日、0時20分に船尾に2発の雷撃を受けたあと、0時28分に完全に沈没した。

戦闘に於ける彼我形成の概要

(1)駆逐艦「刈萱」はおれごん丸遭難を知り00:40被害現場付近に逆航假(仮)泊し、内火艇一救命艇二を以て我か救助作業に協力。01:00漂流者の殆んど全部を同艦に収容せり。

(2)収容者の言に依れば漂流中潜水艦潜望鏡の被害現場付近を移動しあるを確認せり。

(3)01:10 駆逐艦「刈萱」は依然「マニラ」に向い前進中の船団(おれごん丸欠)を追求し銅線団の敵潜水艦に対する安全地域に入りたるを確認し、07:00再び現地に到り未救助人の有無を広範囲に亘り点検捜索せしも救命胴衣に依り漂流中の2名を発見救助せるのみにて他は発見せられず。
09:00同地を出発「マニラ」に向えり。

米国海軍 潜水艦戦争哨戒報

日本側に詳細の記録があるため、米国側にも詳細な戦闘状況の記録があるはずと考え、US Wikipediaのページから以下を見つけた。
SS-182_SALMON 潜水艦戦争哨戒報告書

P153に当該記述あり


以下、翻訳文。
機密事項
U.S.S.サーモン - 第5次戦争哨戒報告。
11月17日(続き)

22:30
北緯14-46度、東経119-44度。119-44E 地平線上、方位約3000Tに2隻の船らしきものを目撃。
コースを3000Tに変更し、約10000ヤードの距離で小さな右舷角度を示す5隻か6隻の船を確認できた。

22:44
潜航し、戦闘配置につき、攻撃を開始した。
空が曇っていたため、潜望鏡による観測は困難であり、形状を確認するまでに時間がかかった。
約1200Tから1050Tに進路を変えたと思われる輸送船団の中に入るように操縦した。
約6000トンの貨物船を攻撃するため、320Tに進路を変更した。 2隻の駆逐艦が左側の列の外側でかなり接近しているのを目撃。
推定射程1200ヤードで、6フィート用の魚雷3本を発射した。
白色光方式でかなり広範囲に発射した。発射から約70秒後に爆発音が1回聞こえた。
2番魚雷が命中したと思われる。

5,000トン程のタンカーを2番艦に発射するように操艦した。
推定射程1200ヤードで、白色光法で4番発射管を目標中央に発射し、発射68秒後に爆発音を聞いた。

その後、左側の列に見える唯一の船を選択した。
それは約6000トンの重積タンカーであった。
DDが進路を変え、高速で列の間を下っていくのが見えた。
推定射程1400ヤードで、白色光方式で6フィートに設定された目標の中心に2本の魚雷を発射した。
発射から約1分15秒後、2つの大きな爆発音を聞いた。 
 

最後の魚雷を発射してから約18分後、後方の2つの異なる方位で、大きなパチパチという音と、船がばらばらになったようなくぐもった爆発音が報告された。
DDはエリアを掃海し続け、音は定期的に停止して聞くために非常に遠くでスクリューを聞くことができた。この輸送船団には約4隻のDDがいたと思われ、被弾した船のうち少なくとも2隻は沈没したと確信している。
時刻:11月17日23時

伯父は今もマニラ沖の海底に眠ったままでいる。
(つづく)


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