伯父の軍歴調査の話(1)

昨年の今頃からとある理由で家系図を作りだし、その過程で戦死した親族を知り軍歴調査をし始めました。
以前から母から父(自分の祖父)の軍歴調査をしてほしいと言われており、祖父の他、家系図調査で自分が存在すら知らなかった親族二人が戦死していたことを知り、祖父を含めて3人の軍歴調査をしたのでその話を記録したいと思います。

3人の軍歴調査結果のまとめ(一人あたり80~150ページ)

X(旧Twitter)でつぶやいたところ興味ある方がいらっしゃったので少しづつ家系図や軍歴調査の仕方をご紹介します。

今回は軍歴調査を行った二人目の親族である伯父(父の兄)の話です。

戸籍の記録から軍歴簿入手まで


戸籍の記載

入手した戸籍には「昭和17年11月18日0時20分 マニラ沖約40浬の地点に於いて戦死。陸軍運輸部長〇〇〇〇 死亡報告。」とある。
伯父は陸軍所属であったようだ。
まずは陸軍の軍歴簿を請求するところから始めます。

軍歴簿の請求は大きく海軍と陸軍で異なります。
海軍は国所轄の厚生労働省。
陸軍は終戦時に本籍があった都道府県の社会福祉担当部署。
早速伯父の本籍のあった某県庁の福祉課へ電話で調査をお願いしてみる。
問い合わせ先はネットで「〇〇県 軍歴調査」で検索すれば、県庁のサイトがヒットするはずです。
※各都道府県の軍歴証明関係担当課はここにも記載があります。

県庁の福祉課から「記録無し」との回答。

数日後県庁の担当課から電話があり「県庁には記録が無い」とのこと。
「もしかしたら厚生労働省にあるかもしれない」とのことだった。
陸軍なのに厚生労働省?とは思ったものの問い合わせてみることにした。

厚生労働省への問い合わせは郵送での請求となる。
ここから情報開示請求書をダウンロードして厚生労働省 社会・援護局援護・業務課調査資料室へ郵送請求してみる。
なお、請求には申請者(自分)と調査の対象者(伯父)との関係を証明する書類が必要で以下の証明書も合わせて郵送を行った。
・申請者(自分)の本人確認書類の写し(マイナカード、運転免許証謄)
・申請者(自分)の住民票(申請日前30日以内に発行されたもの)
・対象者(伯父)と申請者(自分)が遺族であることを証明する書類
 (続柄が確認できる戸籍謄本等)
 自部の場合は両親の戸籍と祖父母の戸籍(伯父が記載)の2通を送った。
・対象者(伯父)の死亡年月日が確認できる書類(上記で貼った戸籍謄本)

厚生労働省からの回答

郵送(速達)して数日後、厚生労働省から電話があり「軍歴簿がある」との連絡。現在軍歴請求が多く、順次送付するので待っていてほしいとのことだった。電話の応対はとても丁寧でした。
約1か月後、厚生労働省から書類が届いた。
余談だが、戦死した2人目の親族は海軍だった。その親族も厚生労働省に調査の依頼をしたのだが、その時は約3か月かかった。
調べてみると、数年前公開の映画「永遠の0」や艦隊コレクションのヒットで軍歴調査増えているとのことだった。
祖父の軍歴知りたい…厚労省に「軍人履歴原表」開示請求3割増

両面で8枚の記録が送られてきた

軍歴簿の読み取り

厚生労働省には以下の書類が保管されていました。
・第一野戦船舶廠留守名簿
・第一野戦船舶廠死亡者連名簿
・死亡者連名簿(〇〇県)
・戦時死亡者生死不明者名票
合計8枚の資料が両面コピーで送付されてきた。
これとは別に送付票に簡単な戦没状況が記載されており、「戦時死亡者生死不明者名票」の戦死状況を要約してくれていた。

戦時死亡者生死不明者名票

上記の写真で右から2枚目の赤茶けた資料には以下の記載があった。

官等級:工員(昭和16年11月21日宣誓)
死亡場所:東経119度45分、北緯14度50分 付近海上
死亡事由:
「昭和17年11月18日、陸軍工作船おれごん丸(第一船舶工作廠乗船)は船團(団)編成の上、駆逐艦直接護衛し、馬公(※台湾馬公市)出発「マニラ」向航海中、東経119度45分、北緯14度50分付近海上に於いて敵潜水艦の雷撃を受け、本船沈没の際、生死不明となる。
死體(体)を発見せさるも爆風衝撃のため即死し、その儘(まま)船體(体)と共に海没せしに依り戦死確認。」

また、右から3枚目の資料の左上に「軍属の部」とあり、その下には「野戦船舶本廠」とある。また、上記写真には写ってないが、別の資料には「暁第2951部隊」とあった。

伯父は陸軍の兵隊では無く、軍(第一野戦船舶廠)で働く軍属の工員であった。

伯父の足跡をたどっていく

伯父の存在を自分は全く知らず、母も知らなかったよう。
少しでもどんな人だったのか知りたくなり、ネットで調べ始める。
伯父が乗艦していた船の陸軍工作船「おれごん丸」は簡単に見つかったもののそれ以上の情報が見つからない。
調べてる中で兵隊ではない徴用されて戦死した船員を慰霊している団体「日本殉職船員顕彰会」を知り、Webホームから問い合わせをしてみた。

日本殉職船員顕彰会からの回答

2週間程して顕彰会から郵送物が届いた。
顕彰会に保管されていた記録によると伯父は「発動機工」で靖国神社にも合祀されていることがわかった。
顕彰会が靖国神社に問い合わせてくれ、靖国神社の回答書も送付頂いた。
また、敵潜水艦(米海軍SS182 サーモン)の名前も判明した。
顕彰会には少額ではあるが寄付をさせて頂いた。

伯父の足取り(1回目の出撃:マレー半島)

おれごん丸の記録と伯父の徴用以降の記録をGoogle MAP上にプロットしてみる。伯父は2回の航海に出ていたようだ。
1回目は昭和16年11月25日、太平洋戦争勃発の起因となる真珠湾攻撃(S16.12.8)の直前に門司港からマレー半島に向った。

1回目の航海は約10か月間マレー半島各地でおそらく艦船の発動機の修理・整備を行っていたと想像している。

伯父の足取り(2回目の出撃:台湾~マニラ)

1回目の航海から10か月後の昭和17年9月23日、門司に帰港。
1か月強の昭和17年11月5日、再度文字から台湾馬公を経由してフィリピンのマニラに向った。
昭和17年11月17日、マニラ沖で敵潜水艦(米海軍サーモン)の雷撃を受け沈没した。

出港までの約1か月の間、伯父は母(自分の父方の祖母)や家族と共に時間を過ごせて居ただろうか。

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