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今日まで、明日から。

子供の頃、逆上がりができなかった。
この言い方だと、どこかのタイミングでできるようになったようにも聞こえるので、正確に言っておくと、僕は逆上がりができたことがない。今までの人生で一度も。
今更できるように練習することはないけれど、
小学生のころ、多くの人ができた逆上がりを僕は結局できなかったという自意識は僕自身の人格形成に影響を与えていると思う。

先日、「14歳の栞」というドキュメンタリー映画を観た。
2021年公開の作品だが、
作品の特性上、今後も配信されることはおそらくない作品で、毎年春に再上映されており、僕も3回目の鑑賞だ。
僕は再上映の度に観ておかなければという衝動に駆られる。
ある中学校2年生の3学期に密着した作品で、映画に登場する人物は皆、普通の中学生。
でも映画に出てくる生徒たちは皆、僕自身が中学時代に出会っていたような気になる。もっと言えば、人生の分岐が異なっていたら、僕自身が彼らであったかもしれないと思わせる。
「14歳の栞」という映画は僕にとって、もう過去になってしまって決して戻ることのできないあの頃の記憶を呼び覚ましてくれる人生のセーブポイントのような映画である。
戻ることのできない自分の「あの頃」を振り返るために、来年も僕はこの映画を観ることだろう。

僕は去年大学を卒業してから明日就職するまで1年のブランクがあったので、
フリーターとしてアルバイトをしながらほぼニートの生活をしてきた。
観たいものがあれば観に行ったし、遊びたい時には遊ぶ、まさに人生の夏休みのような1年だった。
そしてそれはこれまでの総括的な1年でもあった。

初めて「学生」などの社会の中で自分を規定するコードがすべてなくなって、単なるひとりとして社会に投げ出された時、
これほどまでに宙ぶらりんになるものか、と思った。
みんなができたのに自分だけ逆上がりができなかったように、
自分にだけコードが無くなったような気がして、
まだ学生である大学の後輩たちと会うたびに、彼らと自分の属性的な隔たりを感じた。
生きていくには取るに足らない違いであろうが、その漠然とした不安に最初は少し戸惑った。

おそらく僕は自己肯定感が低めなんだと思う。
だから「逆上がりができない」ことが気になってしまう。
この一年のブランクは自分自身で決めたはずなのに、先に働き始めた同期に比べて自分は…なんて思うこともあった。

しかし、この一年でそれを乗り越える術を見つけられたような気がする。
自分を定める社会的コードが無くなったことで、自分のペースで生きることが苦でなくなった。

昨年の夏、青春18きっぷで北三陸・岩手県久慈市に行った。
(久慈まで直接JRの普通列車だけで行くことはたぶんできなかったはずなので、バスとか三陸鉄道を使ったのだけど)
きっかけは中学時代に虜になった朝ドラ「あまちゃん」。
当時僕は学校に行きづらくなっていた。そんな時期に一人で夢中になった。
後ろめたくなって、社会から疎外されたように感じていた時期にドラマの世界を通じて社会に繋がっているような気がした。
行ったこともない場所の、聞いたこともない方言が心地よかった。
一年間のモラトリアムができた時、真っ先に「あまちゃん」を見ていたころの自分を迎えに行こうと思った。
何度も画面の中で見たあの景色を実際に見て、そして同じ目的で久慈にやってきたあまちゃんファンと会って、あの頃、ひとりでドラマを見ていた自分が救済されたような気がする。
もしこれから行き詰ったときはあの海で、あのウニを再び食べに行こうと思う。

これまでの自分を少しずつ答え合わせすることで、折り合いをつけられたのだと思う。
多分、生きていける。相変わらず自己肯定感は少し低いけど。
この一年でその予感を得ることができただけで、僕には意味がある時間だったんだと思う。
期限付きのモラトリアムは、他の人には時間の浪費に見えたかもしれないが、僕にとっては必要な時間であった。

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