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『アメリカン・スナイパー』 イーストウッドと戦争

 今年の5月31日に現役映画監督の中で最も尊敬を集めていると言っても過言ではないクリント・イーストウッドが御年90歳を迎えました。

 去年日本でも公開された『運び屋』では監督兼主演として世界最高齢(2018年当時88歳)でした。

 同じ1930年生まれの現役映画監督にはフランスの映画運動、ヌーヴェルバーグの旗手ジャン=リュック・ゴダール、『精神0』の想田和弘監督が影響を受けたドキュメンタリーの巨匠フレデリック・ワイズマン、亡くなった監督では『仁義なき戦い』、『バトル・ロワイアル』の深作欣二がいます。

 過去に『許されざる者』と『ミリオンダラー・ベイビー』で2度もアカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞を受賞しながら今現在に至るまで映画制作のペースは衰える事を知らず、年に1〜2本のペースをずっとキープし続けています。

 イーストウッドの映画は枯れるどころか時々センシティブなテーマを扱う為、近年でもしばし論争を呼ぶ事があります。

・アカデミー賞受賞の問題作『ミリオンダラー・ベイビー』

 アカデミー賞を受賞した『ミリオンダラー・ベイビー』でも論争を呼びました。本作は前半『ロッキー』の様なスポ根サクセスストーリーから一転、後半は尊厳死を巡る主人公達の葛藤が描かれます。

 本作の問題点はまず自死を罪と見做すアメリカの一大勢力、キリスト教右派から猛バッシングを浴びた事です。また障害者団体もこの作品に対して抗議運動を起こしています。ラストの主人公の決断は当事者からしてみれば不快に思う事もあるでしょう。

 ただラストの展開は決して正しい事として描かれている訳ではありません。イーストウッドも自身の安楽死に対する意見を反映させた訳ではないと反論しています。

・戦争賛美!?『アメリカン・スナイパー』

 センシティブな題材を扱いながらイーストウッド作品は白黒ハッキリさせないグレーな語り口なので、この様にしばし議論を呼びます。

 アメリカでは記録的大ヒット、日本でも話題を呼んだ『アメリカン・スナイパー』は特に大論争を巻き起こしました。

 イラク戦争で160人以上殺した狙撃兵、クリス・カイルの手記を元にした本作を観たドキュメンタリー映画監督のマイケル・ムーアはTwitterで「狙撃兵は卑怯だ。英雄じゃない。」と批判しました。またナチのプロパガンダ映画の様だと揶揄されたり、クリス・カイルが9.11のニュース映像を観てイラク戦争に志願する場面は、テロとは関係がなかったのにも関わらずアメリカが攻撃をしたイラクがまるで9.11テロを起こした犯人かの様に印象操作をしていると指摘されもしました。

 共和党の政治家で元副大統領候補、サラ・ペイリンはマイケル・ムーア達を「英雄に唾を吐く左翼ども!」と批判。保守系の論者は『アメリカン・スナイパー』を批判する人々に対して「この国から出て行け!」と言い放ちました。

 クリス・カイルの手記にはイラクの人々を野蛮人と呼び、「悪人を殺したのだから後悔は無い。もっと殺せば良かった。」といった趣旨の内容が書かれています。

・イーストウッドとPTSD

 「アイロニーに満ちた良いストーリーだと思った。」

 好戦的な内容が書かれているクリス・カイルの手記を読んだイーストウッドはストレートな武勇談としては受け取りませんでした。

 クリス・カイルはPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいました。イラク帰還兵の5人に1人が鬱、不眠、怒りを抑えられないなどの精神障害になり、自殺や身近な人(配偶者の場合が多い)を射殺したりするケースがあとを絶ちませんでした。この辺りの話は、亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズの『帰還兵はなぜ自殺するのか』に詳しく書かれています。本書のあとがきには後方支援にあたった日本の自衛隊員の中にもPTSDによる自殺が少なくなかった事が記されています。

 イーストウッドは過去にもPTSDによる帰還兵の苦悩を描いています。『父親たちの星条旗』では硫黄島に星条旗を立てた兵士たちが政府のプロパガンダで英雄として祭り上げられるが、彼らは戦場のフラッシュバックで何年経っても苦しみ続けます。

 『グラン・トリノ』ではイーストウッド演じる偏屈で差別的、孤独で家族からも疎遠な老人が実は朝鮮戦争従軍による心の傷で誰にも心を開けない事が分かります。

・『ダーティハリー』の宿敵、スコルピオ

 クリント・イーストウッド主演の大ヒット作『ダーティハリー』1作目に登場する無差別連続殺人鬼スコルピオの役に当初、オーディ・マーフィという役者がキャスティングされる予定でした。

 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』でレオナルド・ディカプリオがブラッド・ピットの事をオーディ・マーフィと呼んでからかう場面があります。オーディ・マーフィは第二次世界大戦で200人以上のドイツ兵を殺した戦争の英雄ですが、彼もPTSDに悩まされ怒りをコントロール出来ずに暴力事件を起こしていました。つまり、あのやりとりはブラピ演じるクリフ・ブースの背景を示唆している訳です。

 結局オーディ・マーフィは『ダーティハリー』撮影前に亡くなり、別の役者がキャスティングされました。イーストウッドはインタビューで「彼は怒りを抑制できなかったと聞いているが、天使の様な顔だった。」とオーディ・マーフィの印象を語っています。

・隠蔽された戦争による後遺症

 オーディ・マーフィとの出会いもあり、またイーストウッド自身も戦場には行かなかったものの陸軍に在籍した経験からPTSDに対する関心が深まっていったのでしょう。

 「第二次世界大戦の頃は概念がなかっただけで、実際は多くの兵士が苦しんだ。ドイツでも日本でもそうだったと思うよ。みんな戦争で心を傷つけた。」

 Netflixに配信されている第二次世界大戦後の帰還兵のPTSD治療を記録したドキュメンタリー、「光あれ」という作品があります。米軍の依頼で製作された物で治療の結果良くなりました。という風にはまとめているものの、患者たちの様子があまりにもショッキングなので政府により本作は戦争後遺症の存在も含めて封印されてしまいました。戦争後遺症の存在が公になるのはベトナム戦争で問題になってからの話なのです。

・無音のエンドロール

 さて『アメリカン・スナイパー』論争に話を戻します。左からは戦争賛美と批判され、右からは同じ理由で擁護された本作。

 イーストウッドは共和党支持でタカ派と言われる事もありますがイラク戦争には反対でした。

 本作では劇中、クリス・カイルは子供を射殺します。ハリウッド映画の主人公が子供を殺すのは異例中の異例でしょう。この時点で彼の事を単純に英雄とは呼べない様に描かれています。

 その後も、クリス・カイルが敵を狙撃する度に心の中に何かを溜め込んでいくのは、みれば明らかです。そこで名作『許されざる者』のイーストウッドが言うセリフを連想させます。

 「人を殺すってのは地獄さ。」

 除隊後、クリス・カイルは自分と同じPTSDに苦しむ帰還兵をサポートする運動を始めますが、それがきっかけで彼は皮肉な結末を迎えることになります。それは映画が制作される直前に起こった事実を取り入れています。そこで映画はどよーんとしたまま終わり、それに輪を掛ける様にエンドロールが無音で流れ、劇場がなんとも異様な空気だったのを筆者の忘れがたい映画体験として記憶しています。 

 余りにも唐突な悲劇で終わり、無音のエンドロールが始まる時、私達観客はイーストウッドの問いかけに思考を促される事でしょう。

 戦場で160人以上殺したクリス・カイルの結末に対してイーストウッドはインタビューでこう語っています。

 「カイルは運命につかまっちまった。」

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