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『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』 夜は短し走れよ乙女

 1868年、南北戦争終結から数年後に出版された『若草物語』は映画だけでも、1917年以降に7回も映像化されています。

 控えめで大人びた性格の長女メグ、作家志望で活発な次女ジョー、病弱で繊細な性格の三女ベス、芸術家志望でワガママな四女エイミーの4姉妹を描いた物語は後半、「結婚」という「女性の幸せ」を彼女達は押し付けられる事になります。(病弱な三女のベスは闘病の末に死んでしまうのですが。)正確には当時の価値観を押し付けられる形になったキャラクターは次女のジョー・マーチです。

・世界で活躍する女性達の愛読書『若草物語』

 『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』の監督グレタ・ガーウィッグは、『若草物語』を愛読書と公言する女性達が様々な分野の第一線で活躍している事を指摘しています。『ハリー・ポッター』の著者、J・K・ローリング、フランスの哲学者で女性解放思想の草分け的存在、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、パンクの女王パティ・スミス、アメリカで「女性初の大統領」の有力候補と言われたヒラリー・クリントン、そしてグレタ・ガーウィッグ監督自身も『若草物語』に魅せられた内の1人なのです。

 その魅力は次女ジョー・マーチのキャラクターにあります。小説家志望の彼女は自立心と野心に溢れています。彼女の存在が多くの読者にとって特別なのはやはり原作者ルイーザ・メイ・オルコットが自身を投影したキャラクターだからでしょう。

・走ることについて語るときに彼女の語ること

 『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』の日本版パンフレットでコラムニストの山崎まどかさんが興味深い事に言及をしています。

 本作は冒頭、ジョー・マーチが雑誌に原稿が売れた喜びのあまり、19世紀のニューヨークの街を全力疾走する所から始まります。この場面で示唆する事が2つあります。

 1つ目は原作者のルイーザ・メイ・オルコットが村上春樹よりはるか前の走る作家だったという事です。彼女はランニングが仕事や執筆の間のルーティーンに組み込まれていました。

 2つ目は監督のグレタ・ガーウィッグが主演兼脚本を手掛けた自伝的作品、「フランシス・ハ」でグレタ・ガーウィッグはジョー・マーチと同じくニューヨークの街をデヴィッド・ボウイの『モダン・ラヴ』に乗って全力疾走します。グレタ・ガーウィッグの監督デビュー作『レディ・バード』は彼女の青春時代を回想した、これまた自伝的内容です。『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』のジョー・マーチを演じた、シアーシャ・ローナンは青春時代のグレタ・ガーウィッグを投影したレディ・バードも演じています。ここで原作者のオルコットを投影したジョー・マーチというキャラクターにグレタ・ガーウィッグの人生も重ねられている事が分かります。

 19世紀当時は今よりも女性にとって抑圧的な時代でした。社会的地位だけではなくファッションもです。ウエストをコルセットで締めつけられているので全力疾走は出来なかったでしょう。ですが『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』のジョーはコルセットをつけておらず、スカートの下にはズボンをはいています。

 ジョーは原作でもおてんばに描かれていますが、オルコット自身もアクティブだった事はルーティーンのランニングから容易に想像がつくだろうと思います。それはオルコットの父が急進的な人だった事が少なからず影響を与えているのかもしれません。

・4姉妹の家には父親がなぜ不在なのか?

 『若草物語』の4姉妹の家には父親がいません。南北戦争に従軍しており稼ぎ手が不在の為、経済的に困窮しています。  

 ルイーザ・メイ・オルコットの両親は1800年代にしては進歩的な急進派で「超越主義」と呼ばれる哲学者でした。奴隷制度の廃止や環境保護、女性の平等な権利などを主張するリベラルな理想を掲げていました。父が創設したコミューンが失敗に終わり家族が経済的に苦労する羽目になった経緯が『若草物語』に反映されています。

 オルコットは小説家として別の道に進むのですが、『若草物語』で貧しい為、4姉妹にはプレゼントのないクリスマスの日に、唯一の楽しみだった家族の朝食を自分達よりも更に恵まれない家族に分け与えるという描写から、奉仕の人だった父親の影響が垣間見えます。また環境保護を訴えていた両親同様、自然への愛情と尊敬の念を抱き続けていました。

・古典の現代的解釈を超えたグレタ・ガーウィッグのオルコットに対するリスペクト

 グレタ・ガーウィッグのインタビューを掲載してるニューヨークタイムズの記事には『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』の試みをこう評しています。「ガーウィグの映画は「アップデート」というよりも「古典の発掘」だ。」

 筆者は本文の冒頭、ジョー・マーチが当時の価値観により「結婚」を押し付けられたと記述しました。要するに作者のルイーザ・メイ・オルコットにとっては不本意な展開だった訳です。それは何故か?

 オルコットは生涯独身をつらぬきました。ジョー・マーチはオルコットの投影なのでジョーの結婚は彼女のシナリオにはありませんでした。『若草物語』の続編を担当する編集者の、ジョーが結婚をしなければ本は売れないという判断からオルコットは妥協してしまいました。当時は結婚が女性にとって最大の夢とされていた時代だったのです。

 グレタ・ガーウィッグは『若草物語』の「奥のほうに隠れているもの」を見つけるまで、オルコットの人生を研究しました。彼女は『ストーリー・オブ・マイライフ わたしの若草物語』についてこう述べています。「これはアートと女性とお金についての映画」であると。

・過激なフェミニズム思想に偏らない多様性

 結婚に縛られない自立した女性ジョーとは、一見、対照的に配置されているキャラクターの長女メグが結婚する際、ジョーは彼女に結婚に対して否定的な意見をぶつけます。するとメグはこう返します。「私の夢があなたと違うからって、重要じゃないわけではないのよ。」

 メグを演じるのは『ハリー・ポッター』シリーズのハーマイオニーでお馴染み、エマ・ワトソン。彼女は女性の権利や女性への偏見に関して声高に主張してきた活動家でもあります。

 エマ・ワトソンはメグの結婚に対してこう言及しています。「フェミニストは結婚を否定し、女性らしさを拒否しなければならないと言われる。でも重要なのは、自分が何を望んでいるかなのよ。メグの選択は母親になりたい。妻になりたいという、フェミニストの選択よ。」

・メタ構造のラストの意図(※具体的な内容は伏せますが、ネタバレ注意)

 本編のクライマックスはメタフィクション的な展開が挿入されます。それはジョーの結婚にまつわるエピソードの中にです。グレタ・ガーウィッグはインタビューで「小説の中で書かれている事とオルコットは実はこうしたかったんじゃないか、という私の解釈の折衷案」と説明しています。

・性別を超えて...

 これまで女性についての物語である事を強調してきましたが、本作は男性が観ても元気が出る映画だと思います。

 僕が本作で最も好きな場面は、小説家を挫折しそうになっていたジョーが病弱な三女ベスの死をきっかけに自分達4姉妹の物語を書き始めるところです。昼夜問わず喪失を穴埋めするかのように彼女は創作に打ち込みます。

 まあ、好きな事に打ち込む姿は性別問わず誰でも魅了的のものですよね!

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