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[PTA] 「子どものため」は、誰のため?

「子どものために頑張ろう!」

良く見かけるお決まりのフレーズ。
PTA活動においては当たり前すぎてあまりこのフレーズについて深く考えたりしないかもしれません。

PTAの活動目的ってものすごくざっくり言葉にすると、

『保護者と学校・先生が協力し合って子どもたちのためになることをする』

という感じだそうですね。たぶんPTA活動に勤しむみなさんは「まぁそうだろうね」という受け止めをされるかと思います。

だから、“お決まりのフレーズ”は非常に身近なものですよね。

でも現状のPTAにおいては、このフレーズの使われ方にちょっと含みを感じたりしませんか?

それは、身も蓋もない言い方ですが「子どものために我慢しましょう!」ということですね。

この必殺のフレーズは、それを言われてしまうと何も言えない…みたいな空気を高確率で演出してくれます。

そんなニュアンスを感じながら引き受けてしまった場合は、やはり多くの人が「やらされている感」を抱いてしまうことになるだろうと思います。その上、入ってみてやることが例年通りのテンプレ作業だったりすると、どんどんやらされている感が増してしまい、結局「こなす」ために活動してたりするわけですね。

嫌われるPTA活動、最大の原因

そんな感じで「伝統」の枠組みがガチガチに固められていって、本当に何十年も前からPTAは大きな変化もなく来ているような気がします。(もちろん良い方向に変化しているところもありますが)

だから、多くの人に「PTAってそんな感じでしょ?」という刷り込み・思い込みがある中で、そんなのやりたくなるわけないですよね。
でも「平等だから!」というこれまたお決まりのフレーズで否応なしに飲み込まれていく…。

PTAは、この『自分もやったんだからあなたもね』という見えない鎖に古来よりガッチリと繋がれていて、やらざるを得ないと思い込んでいる人も多いでしょう。だから学校に入る前からストレスに感じてしまうことに…

中にはそのように言われても「絶対やらん!」と押し通す剛の者もいると聞きますが、そういう人は大抵「村八分」的な扱いになり、また押し通した側もそれでかまわないもんだから、保護者間の関係性は険悪に。その上こどもの関係にも影響したり…。

これって本当に望ましいPTAの在り方なんですかね?
僕にはとてもそうは思えません。

このような事例を鑑みても、PTA活動を「平等に全員参加する」仕組みには無理があるでしょう。この考え方こそがPTAへの嫌悪感を生む最大の病巣ではないかと感じています。

「平等」を当たり前にしないために

仕事の都合で学校に関わることが難しい人、なんらかの理由で家庭環境にゆとりのない人、子どもとの関わりで手一杯の人。それぞれのご家庭でそれぞれの事情があると思います。そういう背景を考慮せずに「平等に」という考え方はあまりにも理不尽です。

もっと言うと、「なにがなんでもPTAに関わりたくない人」に「関われ!」と強制することもただただ不毛です。誰も幸せになれないですよね。

PTA活動を改善するための第一歩は、この「強制性を無くす」というビジョンを持つことだと強く感じます。「PTAは嫌々やるもの」という長年に渡って堆積してきた固定観念を払拭しないことには、PTAはいつまでたっても嫌われ者のままでしょう。

やりたくない人がやらなきゃいけない活動じゃなくて、やりたくなる人が自然と増える活動を目指すべきですが、きっとそれは誰もがわかっていることなのだと思います。思っていてもできないのは、PTAの活動を維持することが目的になってしまっているからではないでしょうか。

「平等」という考え方は変化を必要としないので、仕組みとしてはある意味ラクなんですが、ラクだからこそ考える機会を奪っています。

とにかく一度リセットして、「このPTA活動は必要なんだっけ?」と根っこの部分を手入れすることが、強制性を無くすという考え方に繋がります。

強制性を無くした先には、本当の意味で子どものためになるPTA活動とはどのようなものか、考えるきっかけが芽生えているはずです。

「子どものため」だけでなく、子どもを介して「自分たち保護者のため」になる活動を意識することが、自然と「学校のため」「地域のため」の活動となると僕は信じていて、だからこそ、これからのPTAは平等ではないという前提で取り組むべきだと思っています。(子どもたちにはもちろん「平等」でなきゃいけませんけどね!)

コロナ禍によってPTA活動も変容せざるを得ない状況ですが、いっそのことこれを「好機」と捉え、大きく舵を切ってみてもきっとバチは当たりませんよ!

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