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改訂版「察する」を分解してみる

昨日公開した記事の改訂版を、記事の更新ではなく、別の記事としてアップする。もったいない精神でもあるし、思考がこんな道筋を辿っていることを残せる点が個人的には面白く思っている。

さて、察するを分解すると以下の3つのプロセスにまとめられると思う。

  1. 観察する(状況把握)

  2. 観察した内容から(相手やその場が期待していることを)推測する

  3. 推測した内容に合わせて(自分よりも相手やその場の期待を優先した)行動する

次に3つのプロセスごとに、「できない(しない)場合の原因」の話をしてみよう。

1.観察する(状況把握)

  • 相手や状況を観察をしていない

  • 観察が足らず情報を把握していない

  • 観察はしているが解像度(理解度)が低い

  • 環境や過去の情報を失念している

上記のような観察が不足していたり、気付いていない、把握していない事柄があるとその後のステップの精度が下がるし、そもそも次のステップに移らないこともありうる。

2.観察した内容から推測する

  • 推測する精度が低い

  • 誤った状況認識により推測を誤る

  • 推測の際に情報の優先順位を誤る

推測の精度が低いと、相手の期待がわからなかったり、外れたりする。

またこのプロセスの時にはよく「質問」という手段を使う人も多いと思う。それによって「察する」から「指示する」という状態に変化するのである。

  • 推測するために不足している情報を得られる

  • 相手が期待しているものが何か?を明確にして無駄を省ける

ただこういったコミュニケーションはめんどうくさい時も多々ある。自分自身が何を期待しているのか無自覚の人や言語化が苦手な人からは正確に聞き出すことができない時もある。私の場合は確認したのに漏れがあるというのは、すこぶるダルくなってしまう。

3.推測した内容に合わせて行動する

  • そもそも言語化もされていない相手の期待に応えようと思わない

  • 相手の期待よりも自身の都合を優先する

  • 期待されていることは分かるが、叶えるアイデアがない

  • 期待されていることは分かるが、能力やリソースなどが理由で実現できない

期待されていることを把握したとしても、応えるかどうかも選べるし、相手の期待に応える行動を実現できない(アイデア不足や能力不足)ことだってたくさんある。

まとめ

察するということに対して好みは人それぞれだと思う。
私は親しい人に対しては察することをしたくなる時があるし、内容によっては察していても「ちゃんと言葉にして頼んでよ」と思うときもある。ケースバイケースだ。

個々の自由なので、やりたければしたらいいし、やりたくなければやらなければいい。この記事を通して「察するべき」とも「察しないべき」とも主張していないと明記しておく。

他人に対して「察しが悪いな」と思うことはあっても、それは「相手にとっては情報不足か、そもそも意欲不足である」というだけの話なのだから、その場でできる解決策はコミュニケーションしかない。

察することができているのに、わざと相手の期待にすぐ応えずコミュニケーションをとって、相手に自分が何を期待しているのかを自覚してもらい、要望を言語化させるパターンが一番面倒くさいと思ったりもする。子育てや教育をしている人たちからこのケースはよく聞く。頑張ってるみんなえらい。
人間は生まれた時点では察してもらって生きるしかないので、スタートは100%察してもらうところから始まる。察してもらう楽さからどのくらい離れているかは人による。

明日の私は、できれば気が利く人でいたいし、親切な人でいたいし、理解ある人間でありたい。
それと同時に思う。「都合の良い人間になってたまるか」と。


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