今年の総括/「足りなさ」について
年末になると、なんとなく今年の総括をしたくなる。
そして、総括には、2つのパターンがある。
ひとつめは、
今年はどんなことがあったのか?どんなことにチャレンジしたのか?
もうひとつは、
今年はどんなわたしだったのか?
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今年、わたしがどうだったのかを言葉にするためには、
昨年や一昨年のわたしと比較するしかない。
一昨年、
わたしは「足りない」ひとたちに囲まれていた。
もちろん、わたしも「足りない」ひとのひとりではあるのだけど、
それでも、少なくともわたしには、「足りなさ」が見えているのだから、
その「足りなさ」に対して、なんらかのアクションを起こす責任があると思っていた。
いま考えれば当たり前のことなんだけど、
自分や他人の「足りなさ」ばかりに目を向けているわたしの人生は、
むしろ「足りなさ」を求めている人生でもあった。
どんなにがんばっても、足りることはない世界。
それどころか、どんどん「足りないひと」も「足りなさ」も増える一方で、それは陳腐な表現だけど底なし沼の奥へ奥へと進んでいるようで、
怖くなったわたしは、その場を逃げ出した。
昨年、
場所を変えても、わたしはまだ「足りなさ」を求めていた。
ひとの「足りなさ」を、自分が凡庸でないことを証明するために必要としていた。凡庸な自分に価値はないと思っていたのだ。
同時にわたしは、ひとの「足りなさ」がとても美しいことに気づいていた。
自分の「足りなさ」だけが許せない。許せないことがしんどい。
そういう自分にまるごとOKを出すことに成功したのは、昨年の秋のことだった。
今年のわたしにも、
まだ「足りなさ」は見えている。
でもそれは、今のわたしにはジグソーパズルのピースのようにみえる。
「足りなさ」も「過剰さ」も、誰かの「足りなさ」「過剰さ」と繋がるために必要なもので、それがあるからこそ愛が発生するのだと気づいた。
「足りなさ」と「過剰さ」の価値は等しく、美しく、愛しいものだった。
そして確かに、
わたしは一昨年と違う世界にいる。
数週間前に、長年やっていたインスタの(鍵)アカウントに入れなくなってしまった。そこだけで繋がっていた人間関係も、不必要なものになってしまったのかもしれない。
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次回のライティング・ライフ・プロジェクトは、来年1月10日開始予定です。
募集は12月24日からです。
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