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トイレのあの張り紙の効果について。

わりと最近まで、「感謝」というものが嫌いだった。

意識の勉強をし始めて、その道のパイセンたちの記事をみにいくと
みんな率先して「感謝」していたし、「感謝日記」なるものをつけると、
すんばらしいことになると力説されていた。

半信半疑で一か月だけ「感謝日記」をつけたことがある。
毎日「○○のご飯がおいしかった。ありがとう!」とか「○○さん、美味しいご飯屋さん教えてくれてありがとう!」とか、食いしんぼうのわたしらしく、食べ物に関することが多めで、あとは、会社で誰かに何かを教えてもらったとか、「ザ・親切」みたいなことに感謝していた。
一か月は続いたけど、毎日、判で押したように食べることばかり書いている自分の小ささが嫌になって、そこでやめてしまった。

***

なんで、こんなに「感謝」って言葉でイヤな気持ちになるんだろうと、記憶をたどってみたら、思春期ごろに母に言われたセリフに到達した。

「あんたを捨てへんかったことに感謝しいや。」

母は、事あるごとに、怒りながら自分に感謝するように言った。
父が蒸発という中途半端なカタチで家を出てから、年子の二人姉弟を育てるのが本当に大変だったんだろうと、今ならわかる。
本来なら母のしんどさをねぎらい、それを少しでも軽くするために助けるべき私は、しかし毎日のように癇癪を起こす母にうんざりし、本の世界に逃避するのが常だった。

その言葉を投げつけられたのは一回ではなく、
わたしはそのたびに自分の内側深くに閉じこもり、「捨てられた方がマシやったわ」と心の中で毒づくのだった。

***

というわけで、
わたしの中で「感謝」という言葉には、上から押さえつけられてアタマを下げさせられるようなイメージがついてしまっていた。

それが、
変わった。

さいきんでは、いろんなことに感謝をしすぎて、涙ぐむときもある。
例えば、マンションの修繕工事の足場とか、
犬を散歩させているひととか、
空に浮かぶ三日月とかに対して。

なんで、こんなことになってしまったのかというと
世界中の全てが、わたしという存在を歓迎している世界で生きよう、と決意したからだ。
みんながわたしを歓迎しているかどうかを確認するすべはないけど、
ただひとつ、わたしにもできることがある。

それは、ときどきトイレに貼ってある、アレである。

「きれいに使ってくださって、ありがとうございます。」

これからまさにその場を汚そうとするときに目に入るあの言葉。
先にお礼を言われると、きれいにしないといけないような気持ちになってしまう。

わたしは、このテクニックを自分のよき人生のために使おうと思った。

トイレのあの張り紙は、トイレに入ったただ一人に向けられているものだけれど、わたしは世界に歓迎してもらわないといけないので、対象も多い。
イメージ的には、引退コンサートの安室ちゃんみたいな感じだ。

「み ん な、ほ ん と う に、あ り が とーーーーー!!!!(涙)」

ここまでおかしなテンションになると、
わたしの住むマンションがスムーズに修繕されるのも、
かわいい犬の後ろ姿でわたしが癒されるのも、
美しい三日月に見惚れてしまうのも、
すべて、世界がわたしを歓迎し、わたしが毎日充実した毎日を過ごせるようにセットしたものだと思えるようになってきた。

でも、この感覚になってからというもの
不思議なぐらい運がよくなったのも事実だ。
雨には合わないし、
エレベーターは迎えにきてるし、
ちょうどいい場所の駐輪場は空いているし、
時間の調整がすごくスムーズにいくことが多い。

***

これは、わたしの話だし、
もし「感謝日記とか書いたほうがいいですか?」なんて聞かれたら
わからない、って答えると思う。

ただ、トイレのあの張り紙の効果は
絶大なような気がしてる。




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