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無敵超人ザンボット3第22話、第23話(最終回)感想前編

 半分くらい無料で読めます。


 最終回三部作の後半二つである。連続した戦場である。ザンボット3も22話の冒頭に合体したまま最終回まで戦い続ける。なので、続けて視聴した。
名作である。色々と言いたいことはある。
 まず「美しいとしか言いようがない」との感想を抱いた。

 連作映画作品として(途中作画がおかしかったり貧弱な部分もあったものの)美しいフィルムとしてまとまったラストだった。だが、蛇足ながら感想を書く。
 まず、形而下の具体的な所から感想を書いていこうと思う。概念的な考察的な部分は後編で書こうと思う。



第22話 ブッチャー最後の日
脚本:五武冬史 絵コンテ・演出;貞光紳也


最終回 燃える宇宙
脚本:五武冬史 絵コンテ:斧谷稔 演出;広川和之


お世話になっている名無しA一郎さんのあらすじ
https://higecom.web.fc2.com/kingbial/story/story22.html
https://higecom.web.fc2.com/kingbial/story/story23.html
https://higecom.web.fc2.com/kingbial/story/last.html

どんでん返しに次ぐどんでん返し


 最後に大どんでん返しがあるのだが、そこに至るまでの過程もどんでん返しの連続だ。
 この、次々と事件や敵が繰り出されていく感じが、最終回のテンションの高まりとして面白さを倍増させている。すごい。繰り出される事件の一つ一つはそれだけでも1エピソードになりそうなものだが、それを2話に凝縮している。この密度!富野アニメらしい圧縮の効いた迫力だ。
 敵の中枢に侵攻するにつれて敵の反撃パターンが変わってきたり、味方の戦力が削がれていったり、と色んな変化や事件を畳みかけている。そのどんでん返しの連続が戦記もののような迫力を生み出し、ゲーム的なレベルアップ感覚と同時に戦争の戦術的なリアルさを増して表現している。
 そして、その勢いのまま最後まで駆け抜けるのが素晴らしい。富野作品の終盤の「意味は分からないがすごい」という状況がインフレーションしていく感覚はたまらない。
 ガンダム、イデオン、ダンバイン、Zガンダム、Vガンダム、ブレンパワード、∀ガンダム、キングゲイナー、いずれも終盤数話は同一の戦場の中で戦局が変化し高まっていってラストになだれ込んでいった。
 やはり富野作品らしい終局への連続性と物語性の高まりがあると分かった。さすが名作!



以下ネタバレ

第22話


 冒頭、神ファミリーは薬で眠らせた非戦闘員を脱出カプセルに載せ、地球に向けて射出して帰らせる。
 この脱出カプセルは新世紀エヴァンゲリオンのセカンドインパクトの時に葛城ミサトが乗ったものに似ている。庵野秀明監督はトップをねらえ!5話でもザンボット3のオマージュセリフをノリコに言わせている。
 最初っから女子供は乗せなければいいだろ、と思ったのだが20話でレーダーを巧みに操った花江は乗りたがったのかなあ。
 また、前回のラストで長老、神江兵左ェ門と神梅江が宇宙戦艦ビアル2世を敵戦艦バンドック突撃させ特攻死したので、神ファミリーの男たちは改めて決死作戦であると思って女子供を帰したのか。前回ラストは全員に源五郎が修理作業を命じた所で終わったのだが、その修理作業が終わって人手が不要になり、最後の決戦でもはや次の修理も補給もないと予見できたので、戦艦内での生活業務や偵察を受け持っていたであろう女子供の役目はもう終わったということだろうか。
 神ファミリーが一致団結して戦うというのが、このザンボット3という作品の特徴なのだが、その家族が解散する、と言うのも一つのどんでん返し。
神江兵左ェ門と神梅江の特攻死を目の当たりにして、神ファミリーの男たちはもはや帰れない戦いであると察し、背水の陣を敷いて気力を奮わせるために女子供を守るべき地球に送り返したのだろう。
 愛犬の千代錦は不憫としか言いようがない。しかし、別れのあいさつのシーンを見るに、勝平だけは死ぬつもりが全くなかったようだ。なので、勝平は千代錦をいつものようにザンボエースに載せたのかと思われる。千代錦はとばっちりであるが、結果的に死ぬつもりが無かった勝平だけが生還した。「千代錦をなぜ殺したのか問題」はザンボット3ファンの間で長年議論されてきたことだが、私の考えでは、勝平にとって最終決戦であっても死ぬつもりは全くなく、いつもの通りに千代錦を乗せる癖だった、ということだと思う。それは最終決戦になっても勝平の幼さとか配慮の足りなさが残っている、って言うことなんだと思う。地元の暴走族中学生に過ぎなかった勝平は特攻する大人たちや人間爆弾作戦を見て、成長した部分もあるが、やはり子供っぽい部分がある。なので、「ザンボット3は勝平の成長物語」と言うのは一面では正しいのだが、それが完遂されたわけでもない、と言うあいまいな部分が残っている。なんだかんだ言っても中学二年生ですし。


 対して、ガイゾックはメカブーストを超える守護神、赤騎士デスカイン、青騎士ヘルダインを復活させ、その強大な二体と、部下を失ったブッチャーが一人で操縦するバンドックの頭部が神ファミリーのビアル戦艦に突撃する。
 デスカイン、ヘルダインはこれまでの怪獣的なデザインのメカブーストとは全くデザインのレベルが違い、圧倒的にかっこいい。カッコいいと同時に神話的。宇宙をさまよい、知的生命体を狩る機械の神のガイゾックの守護神らしく、西洋甲冑の騎士の上半身に、下半身は馬の頭部とキャタピラー(無限軌道)を持つ戦車と言う、恐竜戦車とモビルスーツのギャンとゲルググが融合したかのような機械的であると同時にオーディンのように神秘的、スマートであり恐竜的な迫力のあるデザインだ。
 五月人形のような日本の甲冑姿をしたザンボット3に対する最後の敵ロボットとして非常にふさわしい。
 この、怪獣性と機能性の融合も、ある意味どんでん返しとも言える。敵のロボットが主人公ロボットと同格のカッコよさや、対称性を持つ、と言うのは驚きの一種がある。(勇者ライディーンの巨大プリンス・シャーキンやコン・バトラーVのガルーダロボなど、かっこいいライバルロボットと言うのはその前にもあった。アトムにもプルートー、鉄人28号にはブラックオックスがいた)
 とにかく、今までのメカブーストが知能や自我を持たない機械怪獣だったのに、ガイゾックの守護神を名乗る騎士のカッコよさは終盤のインフレーションをビジュアルで感じさせる。


 そして、非戦闘員を戦艦から脱出させる作業の最中に騎士とブッチャーが進行してくる。ピンチ!残っているカプセルは勝平の母、花江のものだった!母を守れ、勝平!妻を守れ、源五郎!
 母を守るエピソードはロボットアニメには結構多いモチーフであり、これだけでも1話作れるのに、最終決戦の1シークエンスだけに使ってしまうのがザンボット3のスピード感である。
 花江のカプセルを発射するために、戦艦ビアルは1世と3世に分離する。1世は地球周回軌道へ、3世はその盾になるために加速し上昇。地球に向けて発射すればいいというのではなく、最適な角度のために周回軌道から投下しなければ燃え尽きる、という宇宙ロケットマニアの富野監督の作品らしい、リアルな描写がSF心をくすぐる。同時に、それは戦線の具体的なイメージとして視聴者に宇宙空間での立体的な戦場がどうなっているか感じさせる効果もある。
 ザンボット3と源五郎の操るビアル3世が前線に立ったおかげで、カプセルは射出された。源五郎は被弾して昏倒。だが、敵は戦艦とザンボットに背を向け、眠っている花江のカプセルを狙う!卑怯!
 戦局は変転する。
 そして、花江のカプセルを守るため、ザンボット3は奮闘する。だが、赤青の騎士は無敵。鉄壁のバリアーと無限の攻撃力を持つ。
 なんとか花江は地上に降り立ち、先に目覚めた香月たちと合流する。
花江は自分の無事を知らせる通信を宇宙に送る。
 それを聞き、後事を花江に託した源五郎は最後の会話に満足そうに、重傷の体を立ち上がらせ、青騎士に体当たり。ヘルダインを大質量で粉砕するも、ビアル3世も衝撃で装甲がぐちゃぐちゃになり、源五郎のいる操縦室からも空気が漏れる。
「まだまだぁ!!」
 眼球が光るほどの金田伊功作画で気迫を見せる源五郎は瀕死の体と機体をデスカインにぶつけ、ともに爆発四散!


 その爆発光は地上に降り立った神ファミリーの女子供と勝平の友人の香月、ミチからも見える。
 地球と宇宙の戦場を繋ぐ家族の絆をビジュアルで示す。これは、後の逆襲のシャアでのハサウェイ・ノアのセリフにもつながりますね。
 また、その前に香月のカプセルが流星となって大気圏に突入する時、なんと、5話で死んだと思われていた香月の妹のかおると両親がその摩擦光を流れ星として見て、かおるは「生き別れになったお兄ちゃんと会えますように」と祈った。香月は両親と妹は死んだと思っていて、妹代わりの女の子を世話していたこともあった。視聴者である私も完全に両親と妹は死んだと思っていた。5話はそんな演出だった。だが、かおるは生きていた。
 多くの人が無残に死んでいったザンボット3の中で、死んだと思われていた少女が生きていた。もちろん、この少女が最終回の手前で再登場しても、戦争には何の影響も及ぼさない。香月との再会も予感させるだけで、劇中では描かれない。
 だが、「香月の妹が生きていてくれてよかった」と、戦力とか損得とは関係なく視聴者の私は思った。この、「ただ生きてくれさえすればいい」という直接的な命の重みや生きていることの素晴らしさというテーマの根幹にかかわる部分を、声高に主張するのではなく、「あ、流れ星!」と言う少女の数秒のシーンだけで感じさせる。これが映画なんだ!
 そして、その「ただ生きていてくれたらいい」と感じられるのはもちろん、それまでに生きるという事だけもできなかった哀れな戦争の犠牲者や人間爆弾にされた香月組のメンバーや、アキの無残な死の積み重ねがあって、引き立っているものであり、その残酷性とも裏表なのである。命の価値を感じるには、死の辛さを見なければわからない、と言う視聴者の我々の認識力も試されている演出だ。そして、それはガイゾックの正体にもテーマ的に連動している。一つ一つのシーンやシークエンスが組み合わさって大きなテーマやメッセージのシルエットを構築している。実に映画的だ。


 そのように、命の重みをじっくりと感じさせられたのに、勝平には父親の死を嘆き、泣く暇も与えられない。コックピットのガラス面に手と顔を押し当て、父が消えていった爆炎を凝視して泣きじゃくる勝平に、従兄の宇宙太と従姉の恵子から叱咤の声が飛ぶ。
「勝平!悪いが泣いている暇はないぞ!バンドックが攻めてきた!」
「勝平!お願い!戦って!」
 嗚咽を噛み殺し、勝平は鬼神のごとき形相となり、画面も演出的に白く発行する。勝平の気迫が光になったかのように、その光は必殺のビームの光となる!
「ザンボット・ムーン・アタック!!!」
が、バンドックには効かない!


どんでん返しだ。



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