見出し画像

勇者ライディーン第49、50話(最終回) エネルギー資源戦争

 半分くらい無料で読めます。

 最終回は堂々の斧谷稔(富野由悠季のペンネーム)コンテ。監督は富野喜幸から長浜忠夫総監督に交代しましたけど、やはり最後の演出は富野。よって、これも堂々たる富野作品として認定すべきでしょう。


あらすじ
http://www.wowow.co.jp/anime/rydeen/epi10/index.html
http://chai-chau0347.moe-nifty.com/blogbox/2006/12/49_b7f6.html
http://chai-chau0347.moe-nifty.com/blogbox/2006/12/50_6e6f.html


壮絶なネタバレを含みます。

49話。「バラオ最後の賭け」


 タイトルで妖魔大帝バラオが賭けをしているということで、バラオも不安だと主張している。バラオが絶対悪や絶対的に強いものではないということ、彼も追い詰められているということだ。
 妖魔大帝バラオが自分の体の一部と巨烈兄弟の首を使って、最後の巨烈妖魔獣守り竜バラゴーンを生み出した。


画像1




真(チェンジ!!)ゲッターロボの真ドラゴンと完全に一致。


 そんな怪獣がライディーンの基地、ムトロポリスに全面攻撃を仕掛け、防衛壁や迎撃砲台が破壊され、ライディーンは倒れる。
 この話の見所は、そのように巨大な敵に対しての洸たちの選択だ。
 洸の母のレムリアがムー帝国の遺跡である必殺兵器のラ・ムーの星を使うと、念力を吸い取られてレムリアは死ぬ。レムリアが死ぬか、ライディーンが死力を尽くして戦うかの二者択一となる。
 洸はやっと再会できた母親を大事にしたいので、レムリアに自己犠牲兵器は使わせたくない。
 そして、レムリアは妖魔帝国を討ちたい。で、洸は母にガールフレンドのマリが作ったストールをプレゼントするも、母のレムリアは厳しく追い返し、戦わせる。
 そして、レムリアはマリに言う「厳しい母と思いますね。私も洸に笑ってやりたい。でも、厳しくしないと、あの子を守ることにならないのです。今あの子に必要なのは優しい母ではなく厳しさなのです」と。
 ここら辺は長浜忠夫の星一徹の女バージョンって感じがする。
 アムロ・レイの星飛雄馬のように試練の連続だったからなあ、そういう風に系譜が続いているのかも。


 で、ライディーンは基本的に1話の中で敵と2回戦うのだが、今回はライディーンが敵に負けて、海の底で気絶してしまう。
 母は念力で洸に呼びかけます。でも、なかなか目覚めないライディーン。増大する被害。ラ・ムーの星を使わなくてはいけないのか?
 やっと洸が目覚める。
その彼が見たものは、爆弾を満載し、バラゴーンの口に自分から飛び込む神宮寺力の戦闘機だった。
 感動!


 母の力で目覚めたが、洸が奮起したのは母の念力だけではない。神宮寺の男らしい自爆を見たから、仲間の死を無駄にしないために、と、精神力を増したのだ。

 序盤の12話の神宮寺力回で、神宮寺が洸と反目しつつも共闘する所とか、神宮寺には事故で死んだ弟がいるから人一倍家族を死なせることを嫌がるとか、前半の伏線が生かされている。
 神宮寺は家族を亡くしているから、洸が母親に死なれる事を避けようとしているんだ。優しい。
 でも、自分は自爆するなんて言う所を最後まで見せずに、ブルーガーに乗りこむ時にはマリに微笑んで軽口を叩きながら出撃した。ライディーンが倒れ、基地は半壊しているので、絶望的な状況だったが。
 機動戦士ガンダムのスレッガー・ロウの特攻にも通じる。特攻精神は富野アニメの伝統なんだなあ。鉄腕アトムのアニメ版の最終回は手塚治虫コンテだけど、あれも特攻だった。
 ホント、富野は特攻を描くのが上手いなあ。しかも、富野の特攻は、特攻が特攻の場面だけじゃなく、その前後の展開と有機的に繋がっているからドラマとして上手い。他の特攻は特攻シーンだけで感動させようとするけど、富野の場合は特攻もドラマの大きなうねりの中だからな。スレッガーの恋しかり、ゴメス艦長の転向しかり、コレン・ナンダーの変節しかり。
 このライディーン49話は富野コンテじゃなくて安彦良和コンテだけど。
 今回の特攻は、神宮寺力がひびき洸と反目しつつも共闘してきたということの帰結としてドラマになっていた。また、神宮寺は長浜忠夫総監督になった後半では脇役になることが多く、あまり名前を呼ばれなかったのだが、今回の神宮寺はマリや洸に「ミスター」「ミスター神宮寺」と呼ばれていて、前半からの神宮寺らしさが復活している演出だった。安彦良和先生はキャラクターデザインだし、前半から一貫して絵コンテも手掛けていたからね。ライディーンらしさが染み付いてる。
 だから、神宮寺が洸の母を守るために自爆するという展開に説得力とか一貫性があって、感動するのだ。
 49話だしなあ・・・。神宮寺はニヒルで単独行動を好む人だけど、自分の仕事である戦闘にはプライドと責任感があって、実は心の奥底はすごく優しい。泣ける・・・。単に死ぬから泣けるんじゃなくて、そういう生き様全体が良いんだよ!
「神宮寺力、最後の仕事だ!」
 仕事と言い切るのが男らしい。
 だが、神宮寺は家族を亡くし、そして地球が妖魔に支配された世界で、ライディーン以外では最強の戦闘機に乗っていた男だ。彼だって妖魔を憎む気持ちは強いはずだ。だが、それを「恨み」や「使命」ではなく「仕事」と言って自爆する所に、神宮寺の最後の最後までのカッコツケが感じられて、ニクイ男だぜ。


 で、洸が母の呼びかけだけでなく、神宮寺の散りざまを見て発奮し、神宮寺が敵に与えたダメージを足がかりにして勝つというのが、良い。洸が母を恋しがるだけでなく、戦友との関係を持つ戦士となっている。良い。
 そして、精神力でエネルギーを増大させたライディーンは言うまでもなく敵を粉砕する。完膚なきまでに引き裂く。これは爽快。


 だけど、怪獣を倒した後に「神宮寺に胸張って言おうぜ、俺たちは勝ったって」と洸が言うのが、切ない。
 そして、レムリアが「まだ最大の敵、妖魔大帝バラオがいます」と厳しく告げる所が、戦争のしんどさだ。



最終回。第50話。輝け!不死身のライディーン


堂々の斧谷稔(富野喜幸)絵コンテ。素晴らしい。
最初から最後まで、巨大なバラオとライディーンの死闘が繰り広げられる。すごい迫力の連続。


画像2




 妖魔大帝バラオが自分の島から出てライディーンの町に迫っただけでこの津波。
 南南東400kmにいるだけでこれ。怖い。この世の地獄を見せるつもりか。


 それに対して洸は「俺のライディーンで戦うんだ!」と飛びだそうとする。レムリアがラ・ムーの星を使って自己犠牲攻撃をすると言うと洸は「嫌だ!俺がいる限り、母さんにそんな事をさせるものか!」と戦おうとする。
そこで、


画像3




親父の鉄拳。
「まだわからないのか洸!今は、俺が、母さんが、等と小さい事を言っている場合ではない!我々の方には全地球人類の命がかかっているのだ。軽率な行動は慎むんだ!」
 ヒーローで主人公の洸に対して、最終回でこの現実の突き付けっぷりの親父。
 レムリアは「洸、母さんも父さんも覚悟はできています」との事。やっとのことで再会できた家族なのに、一家団欒の暇もなく、ただ戦争に勝たなければみんなが滅ぶという現実の前に戦おうとする人々のリアルさ。冷徹さ。富野演出だなあ。
 冷酷な戦場と、家族の情を絡ませるあたりは長浜ロマンでもある。


 それでも、近づいてきた妖魔大帝バラオの姿を見たら、洸は父と母を振り切って出撃する。
「バラオは俺が倒す!父さん、母さん、勘弁してくれ!」
 敵のボスと戦うと言うのは、すごく勇敢な台詞なのに、「勘弁してくれ」という情けない台詞とセット。この絶妙なバランス。洸が無敵のヒーローと無力な少年の狭間で、最後までハラハラする。


 あと、レムリア王女にして見ると、一万二千年の時を越えてラ・ムーの星を使って妖魔を討ち滅ぼすと言うことを使命として父である偉大なラ・ムー皇帝に言われていたわけだ。レムリアは自分の命を使って妖魔を滅ぼすという観念に取りつかれていたのか、洸のライディーンを戦力として見なしていないようにも見える。半分現代の人間である洸をなめているムー帝国王女のプライドなのか。それとも、子供を危険にさらしたくないという親の気持ちなのか。両方だろうか。


 最終決戦なのに洸が期待されていない出撃というのは・・・。
しかし、その果敢な洸の姿を見て、レムリアは「あの子はバラオの力を知っても戦うと言うのです」「短い間でしたけど、幸せでした。」「私にはあの子を見殺しにはできない・・・」と、夫ひびき一郎博士に抱きついて泣く。レムリアもラ・ムーの星を使って死ぬ事、家族と離れることに葛藤が在るようで、その心情が複雑で、良い。良いドラマだ。
 そして、洸も「俺が死んでもバラオの息の根はとめてやる」と言う。自己犠牲と言う点では、この母子は同じだな。


 また、同じという点では、実はバラオとライディーンが驚くほど似通っていると言う事も富野ファンとしては見逃せないポイント。
 バラオもライディーンに向かって「お前のせいで滅びた一族の恨み、今日こそ晴らしてくれる」と言う。これは、海のトリトンのポセイドンと同じだ。主人公の一族も敵の一族を殺したという点では同じなのだ。善悪は相対的なのだ。ムートロンと言う超エネルギーでの独裁的発展を占有していたムー帝国と、それを妬んだ妖魔帝国の戦争はエネルギー争奪戦争であり、善悪ではない。ただの生存競争なのだ。


 その同列性は映像的にも、ライディーンとバラオが格闘の中で何度も上手と下手の位置関係を変えることで表現されている。基本的に下手の悪の側から、バラオが接近しているのだが、ライディーンのゴッドバードが空を飛ぶので、バラオの周りでライディーンが位置を変えるんだな。
これは、富野由悠季の映像の原則での論理の応用パターン。

画像4



上手下手で印象が変わると言うのを逆手にとって、悪役も主役も上手下手を何度も交代させて、同一感覚を生み出す。上級テクニック。


画像5



画像6




 また、このように何度も敵味方が上手下手を交換しあうことで、「混戦」「互角」「予測のつかないハラハラ感」も効果的に演出しているし、戦闘に緩急をつけている。ほとんどずっと戦っている最終回だが、構図やアクションの速度に変化を付けることで、退屈しない作りにしている。


また、


画像7



画像8




 バラオもライディーンと同じく弓やブーメランを用いて戦うのも、この勇者と魔王が同一の存在と示しているのではないだろうか。
 富野アニメにおいて、戦争とは善悪で決せられるのではなく、あくまで立場の違いであり、戦う両者は同一の業を背負った存在なのではないか、というテーゼがある。その上で力と力のぶつかり合い、殺し合いでなければ結論を出せない、というバトルストーリーの冷徹さを描いている。
 これは、トリトン族がポセイドン族を奴隷にしていたという海のトリトンでもそうだし、フランスの民衆が最後にマリー・アントワネットの子供を殺そうとしてラ・セーヌの星に殺されたというのもそうだし、ジオンも連邦も同じ人間だったというガンダムもそうだ。
 だから、勇者ライディーンはスーパーヒーローでスーパーロボットであると同時に、完全な善ではなく敵と同レベルの争いをするリアルな人間だということが示される。富野らしい。


 そして、それが、王女レムリアがラ・ムーの星を使いたがらなかったり、ライディーンと洸を十数年も放置していたこと、ライディーンを終盤まで助けなかった事にも繋がっているのではないだろうか。
 つまりどういうことかと言うと、ムー帝国が絶対的な善で妖魔帝国が絶対的悪ではないということだ。単に妖魔帝国はエネルギーを独占するムー帝国に反旗を翻した反乱分子で、ともに滅びた同じ古代人だと言うことだ。そして、ラ・ムーの星の正体は偉大なるムーの王ラ・ムーの念力と超エネルギー物質ムートロンの力でライディーンを巨大化させるものだった。


画像9



(ウルトラマンの巨大化と同じ音w)
(ムートロンをライディーンなしの単体で使ったら、バラオが予想したように、全てを津波で押し流す広域破壊兵器になり、ムー帝国が滅亡したのと同じような災害を起こしたのではないだろうか?と、予測する)


そして、ライディーンにラ・ムーの星の力を与えて巨大化させる時、洸は母に「ラムーの星を使うな」と言ったのに、レムリアは「ラ・ムーの命令です!母の命令です!」と叫んだ。


画像10




この高貴な顔のフォーカスアップ!富野コンテ!
 そして、この瞬間、ひびき洸は「日本人の洸」から「ムー帝国王族の洸」としてラ・ムーの眷属の末端として命令をされる王子になったのだ。だから、洸は母に素直に従ってラ・ムーの星の力を受け、巨大化した。高貴なのだ。ノブレス・オブリージュなのだ。コスモ貴族主義なのだ。
 そして、レムリアが一万二千年に及ぶムー帝国と妖魔帝国の覇権争いに現代人である洸を巻き込む事を自覚した瞬間なのだ。レムリアは今まで、自分一人だけで妖魔帝国を倒そうとして10数年も夫と息子とライディーンを放置していた。それは、過去の帝国間戦争の因縁を現代人に持ちこまないためだったのだろうか?
 しかし、レムリアは洸がそれでも命をかけて戦おうとする姿に、現代人の洸にも戦う気概を発見し、ラ・ムーの星だけでバラオを殺すのではなく、ライディーンの洸に力を分け与えようと決心したのではないだろうか?
 もちろん、富野アニメらしくそういう心情説明は明示されない。だが、そういう風にも見える。

母親は「家族と一緒に暮す」為ではなく、「はるか昔から、自分の命と引き換えに、自分の責任で、この闘いを終わらせる」ために帰ってきた、と言う事実。
http://chai-chau0347.moe-nifty.com/blogbox/2006/12/post_cf3a.html
この「妖魔帝国バラオ」と「古代ムー帝国」の戦いが、実は一万二千年前からの因果だとしたら、「将来に禍根は残せない。けりは必ず自分の手でつける。」と母様が心に固く誓っていたのはガチだろうし。そういう使命を持った女性を妻に迎えた父様も、いろんなことを受け入れることにしたんだろうし。子供が出来た時点で、「托すこと」と「後方の憂いを絶つこと」を決めたのだろうし。
http://chai-chau0347.moe-nifty.com/blogbox/2006/12/post_e903.html



 この色・彩(いろ・いろ)さん((ほぼ唯一と言っていいライディーンの感想サイトさん!))の見方は正しい。レムリアは自分でけりをつけようとした。だが、ラ・ムーの星だけでバラオを葬らず、ライディーンに力と同時に命令を与えた瞬間、レムリアは禍根に洸を巻き込んだのだ。


 だから、ライディーンは勇者になると同時に、敵対勢力を屠る戦士としての業を背負ったのだ。
 戦争とは、そういうことなのだ。綺麗な正義ではないのだ。


画像11



「ライディーンめ!」


画像12




「バラオめ!」


 最後の一撃の直前、この両者が向かい合い、同じ中央ポジションで両者を罵る。この時、敵味方は善悪を越えて同じ存在となり、決闘するのだ。
 子門正人の挿入歌で「正しい心と、歪んだ心。ぶつかるぶつかる火花を散らし」というが、どちらが正しいかということは相対的なのだ。富野主義だな!

ここから先は

2,966字 / 12画像

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

サポートのおかげで、これからも執筆活動などができます