いつのまにか人を傷つけている。

怖いと思う、ことがある。

どんな条件でも「傷つけていい」許可が下りることはなく、ただ「傷つけてしまった」結果だけが残る。

ちょっと前のnoteでこう書いた。自然と出てきた言葉だから書いた当時は気に留めなかったけど、後からじわじわ後ろ髪を引かれる思いになった。

わたしはたぶん、「人を傷つけてはいけない」強い戒めが自分の中にある。他の人もあるのだろうけど、どのくらいの割合の人がどの程度持ってるかは全く分からない。こういう話を人とすることは少ないし、まして程度の話なんかしないから。

「人を傷つけていないか?」

わたしは、半ば怯えるようにして生きている。自分が傷つく以上に、誰かを傷つけてしまったダメージは深刻だ。自分が直接傷つけていなくても、誰かが誰かを傷つけた様子を見ると心臓がきゅーっと小さくなった感じがして、悪い意味でドキドキしてしまう。

「そういうことで傷つく人がいるのか」「自分に置き換えるとどう感じるか?」「たしかにそれは傷つくかも」「自分もあの人を傷つけていたかもしれない」

さまざまな思考が頭の中をグヮーっと駆け巡り、しばらく落ち着かない気持ちになる。困るのは、なぜ傷ついたのかよく分からないときもあること。どこに地雷があるのかわからない。生きているだけで、黒ひげ危機一髪を常にしているみたいなスリリングさがある。それがどうも心臓に悪い。「こう言ったら傷つくかな」と考えても考えても、穴がある。その穴に間違って剣を刺したら、簡単に人を傷つけてしまう。わたしは多分、知らないうちに人を傷つけている。

誰かを傷つけるとどうしようもなく「ここにいてはいけない」「わたしは存在してはいけない」と感じる。傷つけるまでいかなくても、不快な思いをさせたと感じたら変なスイッチが入って「消えてなくなりたいなァ」と考え始めてしまう。(ネガティブ…)
人を不快にさせず、傷つけずに生きるのは不可能だと、頭では分かっている。人と関わりあって生きるなら「わかりあえなさ」が絶対に生じるし、わかりあえなさは傷を生む。少しでも人生や関係を前に進めようと思うなら、傷つかないことも傷つけないことも不可能だ。

わたしを一番苦しめているのは、自分の中にある「人を傷つけてはいけない」という強い戒めだ。「迷惑をかけてはいけない」は最近やっと緩んできたけど、「人を傷つけてはいけない」はまだしばらくかかりそう。

「どうしたら人をなるべく傷つけずに生きられるのか?」

結論、傷つけながら学んでいくしかないんだろうな。いろんな人のサンプルを集めて、できるだけ多くの、そして正確な仮説を立てていくしかない。わたしが生きていくためには、誰かを傷つけて生きていくしかない。傷つけられて、傷つけて、出来ればゆるしゆるされながら生きていたい。甘えと言われるかもしれないけど、この生き方を選択することはわたしとって修羅の道だ。「わたしは存在してはいけない」に抗いながら生きていく、修羅の道。

踏んばりながら生きていこうと思う。


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