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「翻訳練習雑記帳」

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翻訳練習、英語学習で気づいたことをシェアできればと思います。
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記事一覧

「人様」という日本語は、周囲への気遣いを匂わせる。あまり自分が入っているという響きではないが、自分も「ひと」だから含めてみればどうか。周囲も自分も大事にできれば一番いい。「自分も人様のうち」と考えるようにしてみようと思う。

本棚に布をかけています。心身の調子が悪いと、寝床から背表紙が見えるのもしんどいから。『すごいよ! マサルさん』は関係ありません。たぶん。

数年前、ネット記事で翻訳家の方が「democracy を民主主義と訳すのは誤り」とされていて得心した。同様の論はいま増えている。確かに、この誤訳による議論の混乱は大きいだろう。未読ながら、『歴史を変えた誤訳』という本もある。言葉の使用にも解釈にも、時には慎重を期するべきだと思う。

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漢詩三選

「沈黙は金」とは限らない

「沈黙は金」という言葉がある。「雄弁は銀」とも言うから、「沈黙は雄弁に勝る」という意味なのであろう。筆者もそう思う。だが、それだけではない。雄弁に劣る沈黙もまた、あるのではないか。違いを明確にするために「金の沈黙」、そして銀の雄弁に劣る「銅の沈黙」と、二つに分けて考えてみよう。 「金の沈黙」は、いわばノンバーバルコミュニケーションのひとつだと言える。言葉で表せない真理が、言語を超越した態度などで伝わるということだろう。では、「銅の沈黙」とは何か。言葉にしたくても出てこないこ

「さようなら」随想録

 日本語の「さようなら」が実はとても淋しい言葉なのだと聞いて、不思議に思ったことがある。ほんの幼いころ、姉が教えてくれたのだ。姉は当時小学校高学年ぐらいで、教育熱心な両親に強いられて受験勉強をするなか、そういう知識を身につけたのだと思う。私は違和感を拭えなかった。そうした感覚は何十年も経って四十歳を目前に遅い遅いアメリカ留学をしたときも、それからさらに五年ほど経って独りで入院している今も、あまり幼いころと変わらず抱き続けているといってよい。さようなら、の何がいけないというのだ

「あはれ」は一体感、「をかし」は分離感ーー古語妄言

「もののあはれ」(「あはれ」)を顕著に示したのが『源氏物語』、「をかし」の理念に基づいて記されたのが『枕草子』だとよく対比される。このふたつの違いを明示するとすれば、どのような説明が考えられるだろうか。ひとつの提案として前者を「一体感の美意識」、後者を「分離感の美意識」と考えてみてはどうだろう。以下、『枕草子』をテキストに考えたい。(「あはれ」を「しみじみとした趣のある様子」、「をかし」を「対象を興ありとする感情」と説明するだけでは、どうもわかりにくい。) まず「あはれ」か

「ガンダーラ」という楽曲でイメージされている理想郷は、普通に考えれば西方浄土だろう。西にあるとされる極楽浄土だが、死後の世界でもある。だから「生きることの苦しみさえ消え」ているし、「旅立った人はいる」けれど「あまりに遠い」のだ。理想の世界も、精神的な次元で捉えるべきかという解釈。

「困り感」という日本語にモヤモヤする。「困惑感」などのほうが座りが良いのではないだろうか。外国語でこれに当たる言葉は何で、どう日本語に訳されてきたのか。専門家の方、ご教示いただければ幸いです。言葉は確かに、市民権を得たもの勝ち。とはいえ、名状し難い違和感に「困って」いる。

英語における「甘え」の語彙

精神分析家の土居健郎は名著『「甘え」の構造』において、こう主張した。 「『甘え』という語彙自体は英語に無いが、『甘え』の心理自体は普遍的なものである」 筆者も同意見ではあるが、以下のようにつけ加えたい。 確かに「甘え」という意味を持つ単独の名詞は英語に見られないと思われる。「甘える」という動詞についても同様だ。しかし英語の名詞のいくつかには「甘え」の心理を示すものが存在し、土居の主張通り「英語圏にも『甘え』の心理が存在する」ことの裏づけになると思われるのだ。 例えば以

国内異文化考察:農耕民の流儀と狩猟民の流儀

はじめに 異文化コミュニケーションが喧伝されて久しいが、異文化を持つのは遠い国の人とは限らない。隣人であったりも、自分であったりもする。無用な異文化摩擦を避けるため、そもそもの文化差を原則というかたちで心得ておくことは有用だと思われる。本稿では農耕文化と狩猟採集文化に着目し、両者が起こす軋轢と、今後考えられる融和について考察したい。中井久夫『分裂病と人類』(東京大学出版会)および老松克博『空気を読む人 読まない人』(講談社現代新書)を参考に論をすすめる。 わが国の「農業文

アメリカであれだけ英語が聞き取れず日本語が恋しかったにも拘らず、いま日本にいて子供が自然な英語を話しているのを聞くと妙に心が和む。筆者のインナーチャイルドに響くのだろうか。幼い頃から周囲に溶け込めなかったのは、どこか文化的な違いでもあったせいだろうか?

日本の「寄合」は案外、歩調を合わせるためのものだったかもしれない。だとするとそれは、議論を戦わせる「会議」とは全く質が違う。現代でも「会議のための会議」があるが、歩調を合わせるためのものではないか。それが悪いとは言わないが、いわゆる欧米の会議と異なることは知っていた方が良い。

映画『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』を鑑賞して

はじめに アフリカ系アメリカ人ソウル歌手、ジェームス・ブラウンの伝記映画である、『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』を鑑賞した。少々辛かったが、実に見応えがあった。 「辛かった」というのは、考えさせられたからである。ジェームス・ブラウン(以下、JBとする)の生い立ち、そして性格に筆者自身(とその家族)を思わせる描写が随所にあったからだ。筆者は専門家ではないものの、心理学や精神医学を学んでいる。必然的に本作も、そういう観点から眺めていた。そしてJBと境遇がどこか似てい