名門・JX-ENEOS野球部

1,JX-ENEOS野球部との出会い

私が神奈川に来てかなり最初に観た野球チームの一つがJX-ENEOSだったから記憶に深い。

確かMHPS(現三菱重工east)との試合だった記憶がある。MHPSの先発は現ソフトバンクホークスの奥村政稔投手。永遠のドラフト候補と呼ばれていた頃だ。
一方JX-ENEOSの先発はドラフト候補と呼ばれていた柏原史陽投手。本当は斎藤俊介投手(元DeNA)の投球を観たかったのだが、それでも存在の大きな投手。ドラフト候補を見やすくなった関東だから観てやろうと思ってみたものだった。

保土ヶ谷球場での試合だった。
蝉が鳴きわめていて、私は額から噴き出る汗を拭いながら中央ベンチに腰を下ろしていた。

平日の真昼間。それも別段全国大会とはほぼ関係ない定期大会だったから観客もまばら。
当時JX-ENEOSにいた左澤優投手(元オリックス)の追っかけカメコがカメラを回していたり、いつ仕事をやっているのか分からない中年の男性と、ほとんど誰もいない中で試合を見ていたものだった。

今でもそのレベルの高さに衝撃を覚えている。
奥村投手のストレートは速いが細い、という感じでENEOS打線が食らいつく。一方でストレートに芯はあるがコントロールに変化球と粗さの目立つ柏原投手をMHPS打線は見逃してくれるはずもなく。

一点を取っては取られて、というような試合だった記憶がある。

「こんな試合をただで見ちゃっていいんだろうか」
「こんなレベルの試合を無料でオッケーとしている社会人野球の意図が分からん」

そう思いながら見ていたものだった。
この頃からずっと「社会人野球は金をとるべきだ」「金をとる事が社会人野球の価値を証明し、選手たちのプライドになる」と言い続けている。もう五年近く前の話だ。

私の社会人野球に対する根底は「JX-ENEOS野球部たち神奈川の社会人野球を安く見られたくない」から始まっている。

2,JX-ENEOS野球部解散の危機

解散の危機、と言って別に身内でもなんでもないから内部事情を知っているわけじゃない。
ただ、今でも記憶に覚えている試合がある。

2018年だったか。都市対抗野球大会二次予選だ。
同じくMHPSとの試合だった。名門と呼ばれたJX-ENEOSがMHPSにいいようにやられて大敗を喫した試合であった。

確か奥村が先発をしていたはずだ。確かに手を付けられないピッチングをしていた記憶がある。JX-ENEOSは大場だった記憶がある。間違っているかもしれない。

JX-ENEOS野球部というよりは神奈川の野球が好きなのでMHPSの大勝は面白いと言えば面白かった。
勿論三菱重工の兼ね合いで三菱連合軍となっていたMHPSに対して神奈川神奈川した球団だったかと言われたら複雑な気持ちがなかったとは言わないが、明豊の選手で甲子園で応援した記憶もある河野選手がいたりと他人事のチームではなかったので嫌いにはなれなかった。(春の選抜で高校時代彼だったか誰だったかに必殺仕事人のソロを吹いたのは私である。でも彼ではなかったような)

MHPSの大勝に対して今でも記憶に残っている姿がある。
JX-ENEOS応援席の白けた雰囲気が、あまりにも強く残っていた。

「こんなに負けるならやめちまえ」

そんなヤジが聞こえてくる。
選手はうつむいたままだった。

「選手はこんなに頑張っているのに」

一瞬そうも思った。
だが一方で私も社会人。ヤジを飛ばした彼らの事もふと考えてしまうのだ。

社会人野球の企業チームが運営している背景には誰かが稼いできた利益を基に運営されている。つまり応援席にいる彼らの汗が選手たちの糧となって今日もチームが存続できているのだ。
言い換えたら「社会人野球に興味があろうがなかろうが、自分の稼いできた金から一部を拝借されている」ともいえる。

その彼らが毎年勝てないのではそれはこうも言いたくなるだろう。
プロ野球のチケットがごとく、こちらが支払いたくて支払っているわけではない。会社の意向で勝手に自分たちの稼いできた利益から抜かれて運営されているのだ。
そう考えると怒りや呆れが生まれるのは無理もなかろう。

その頃から
「勝敗以外でも社会人野球が存在しうる利益にならなければならない」
「街のために、企業のために企業チームは存在しうるのか」
「企業チームの存在意義とは?」
そう考えるようになった。

私はいつもJX-ENEOS野球部から何かを学び、成長していったのだ。

3,嗚呼、柏原史陽 ~都市対抗野球大会優勝と共に~

そんな彼らが都市対抗野球大会で優勝をした。
実に9年ぶりという。
正直優勝したことなどどうでもいい。こればかりは時の運も絡むのだから。

ただ、強いJX-ENEOSが帰ってきた、という報に私は安堵を覚えた。

承知の通り、JX-ENEOS野球部はその血脈を現在もクラブチームで活動している横浜金港俱楽部に持つ。
横浜金港倶楽部に所属していた多くの選手を当時の日本石油カルテックス社員、吉村英次郎が尽力して創部、多くの選手を引き取ったという経緯で現在のJX-ENEOS野球部があるのだ。
横浜金港倶楽部の元たる横浜蚕糸倶楽部から数えたら横浜ベイスターズよりも歴史を持つ。

つまりJX-ENEOS野球部は神奈川の野球としても古く長い血を持っている。
JX-ENEOSは神奈川野球の生き字引的存在の一つであるのだ。

その彼らが休部の危機を乗り越え、都市対抗野球大会に出場し、一勝以上を上げてくる。
それだけで古豪の雰囲気すら漂わせていたJX-ENEOSの強さを確認できただけでどれだけ安心しただろうか。
戦力的には東芝には敵わないかもしれない。それでも
「神奈川の社会人野球は健在だぞ」「社会人野球の難関地域は未だに西関東だぞ」
と凱歌と共に歌ってくれる事のどれほどありがたい事か。

黒獅子を持って帰る事も嬉しいが、強いJX-ENEOSをもう一度全国の舞台で見せつけた。それだけでも神奈川野球を愛する一人としては嬉しいものなのだ。

そして今年の活躍には柏原の存在があった。

柏原史陽という男は本当に不遇の男であった。

ドラフト候補と呼ばれながら目の前で斎藤、若林(現巨人)、塩見(現ヤクルト)が去っていくのを指を咥えながら見送るしか出来なかった。
同じくドラフト候補と騒がれた谷田はそうそうに姿を消した。
そして彼がエースと言われている頃にはJX-ENEOSは弱いと言われ続けた。
エースもいつの間にか大場や関根に明け渡してしまった。

そんな彼が、今年の都市対抗野球大会で躍動した。
五試合全てに登板。2勝3セーブ、13.2回 無失点。
橋戸賞こそ渡会に譲ったものの、彼の活躍を喜んだJX-ENEOS野球部生粋のファンは多かったはずだ。

そんな橋戸賞を得られなかった彼が、優勝を決定するマウンドにいた。
よもや惨めだったとは言うまい。だが、名門日石のエースと言われて何度も辛酸をなめさせられてきたはずだ。

その彼によって黒獅子の旗は手に入れた。
最後の最後で、彼が黒獅子の決めてになったのだ。

私は球場に行けなかったが、マウンドの最後が柏原だったと聞き
「報われたな」
と思った。

それは彼が、ではない。
彼を何年も見続けてきた私が報われたのだ。

彼は結果を手にしただけだ。
運がよかったから報われたのではなく、今日に至るまでその栄光を手に入れるための努力を惜しんでこなかったからこその今だったのだ。
黒獅子決定のマウンドにいたのは運でもなんでもない。彼の実力だ。

だが、その背中をじっと見続けていた私にも物語というものがある。
彼と私の人生が交差する事はなくても、彼のマウンドでもがき苦しむ姿を何度も観て、私は私なりの「柏原史陽」という男の物語を見てきたつもりだ。

それが報われたのだ。
優勝決定のマウンドにいた、という事実によって。

私が神奈川に流れ着いた時、JX-ENEOSの看板投手として見てきたのが彼であった。

彼は私の神奈川での青春なのだ。

だからこそ、橋戸賞は彼に渡したかったとも思った。
しかしそれを決めるのはJABAの役員だ。私がどうこう言う事でもなかろう。

そんな彼らを見ながら、私は、勝利の喜びよりも安堵が先に出た。
人生は、どんなに困難があっても、努力を怠っていなければ風向き一つで報われる日が絶対来るのだ、と。

横浜の風に揺れる黒獅子の旗を想いながら、そう考えるのだ。

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