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読売ジャイアンツ『17』の系譜を追う

1、倉田誠と背番号17

 先日、巨人の投手であった倉田誠氏が亡くなられた。人間はいつか亡くなるとはいえ、またプロ野球の歴史を彩った人物の一人が消えて行ってしまうのは寂しいものである。

 彼と言えば思い出されるのが槙原寛己氏の著書『パーフェクトとKOのあいだ』にて背番号17をつけた著者に対して当時マネージャーであった倉田氏が「俺の17を引き継いだから頑張れ」とエールを送ってもらった、というエピソードが印象的で、そこから自分の知らない時代の、知らない投手がいたことを知った。高校の頃の思い出だ。

 そこで今日は倉田氏が背負った背番号17番を文章でまとめてみることにした。

2,戦前、戦後編。大物のつけた背番号

 東京野球倶楽部が東京巨人軍になったのは1935年。米国遠征のためプロ野球としてのシーズン参加になるにはもう少し待たねばならない。早稲田の名捕手で一次監督を務めていた市岡忠男、慶應義塾や東京倶楽部で捕手をしていた三宅大輔が総監督としてアメリカに赴いたシーズン、ここで初めて背番号17が登場する。

 かのベーブ・ルース来日の時、草薙球場で伝説の一戦を繰り広げられた投手、スクール・ボーイ沢村栄治がこの年のみ17を担いでいる。沢村栄治と言えば永久欠番でもある14を連想するが、この背番号を担ぐのは翌年。事の時14を背負っていたのは江口行雄。翌年名古屋金鯱軍への移籍に伴い沢村にお鉢が回ってきている。歴史の偶然とは恐ろしいものだ。ともすればこの17が背番号4と共に最初の永久欠番になっていた可能性があるわけだ。この江口選手も面白い選手で、プロ野球史上唯一雅号を持っている文化人である。彼は立命館を中退させられている事から、当時の大学における教養の度合いを改めて考えさせられる。

 1936年、かの藤本定義が監督となり、沢村が背番号を変えるに伴い17を背負ったのは亡命してきたロシア人、ヴィクトル・スタルヒンだ。沢村と共に語る必要のない大投手である。1940年には日米での戦争の兼ね合いから須田博という名に変えている。巨人の大投手という意味だけでなく、当時の世相から見える肌の色の問題が首をもたげてくる事を色濃く表す人物の一人だ。彼は戦前のプロ野球が機能不全を起こしていく1943年までこの背番号をつけている。なお、44年は背番号の使用が禁じられているため記録はない。

 戦後、1946年一軍出場がなかった丸木迪(のちの重信)がつけているが、背番号がこの一年のうちに20→21と変化している。明確な情報がないため、これ以上語ることが出来ないが、戦後間もない中、復員などで選手の在り方がコロコロ変わっている事も踏まえて調査出来るような特殊性を孕んでいる。1946年途中に44年、西鉄軍の移籍組であった近藤貞雄がつけている。42試合登板し23勝、完投は実に24、うち6試合が完封とすさまじい活躍をしている。1948年に故郷の球団中日に移籍している。

 1948年から56年と長く背番号を担ぐのは藤本英雄である。「トンボがすっと曲がるような」変化球、スライダーを駆使した戦前戦後の大投手。球団不信が原因で1947年、一年だけ中日で投げたが監督三原修の頼みでまた巨人に戻る。35(1942,43)、23(1946)と渡り歩いているからいよいよもって、という感じだろうか。それとも沢村、スタルヒン、近藤といった力のある投手がつけた背番号というイメージがこの時点で出来上がっていたのかもしれない。1950年にはプロ野球初の完全試合を達成したのは言うまでもない。

 1956年に四日市高校出身の高橋正勝がつけるが途中で32に変更されている。もし彼がこの背番号をつけたまま活躍すれば沢村栄治以来の三重県出身者の投手がつけたことになるがそうならないのが面白いところか。この年の途中からつけることになったのは倉敷工業高校出身の安原達佳。55年、56年に活躍してるところからエースとして期待されての変更であろうが57年は鳴かず飛ばず。58、59年に復活するものの60年には12試合の登板で投手としては引退。野手として61年から63年までいる。その際は背番号をもともとの32に戻っている。

3,1960~70年代の17

 1961年から62年まで、法政大学のエースだった山崎正之が背負っている。61年は40試合に登板して9勝と大車輪の活躍(うち先発13試合。完投1回は完封)。62年、イースタンリーグで完全試合を達成しており巨人のノーヒッターになにかと縁のある背番号でもあることを再認識できる。安原と共に打撃もうまく63年から外野手として起用されている。時代が時代なら二刀流のような評価だってありえたかもしれない、そんな歴史のIFを感じさせる選手だ。

 63年からは62年の都市対抗ベスト8投手、益田昭雄が67年まで背負う。67年までの85試合で先発は13試合。中継ぎで活躍したがキャリアハイは68年の西鉄に行ってから。しかし黒い霧事件に関与し永久追放されている。

 68年に東映フライヤーズから移籍してきた嵯峨健四郎がつけているが一年で退団。日本鉱業日立のエースにして64年の21勝投手も巨人では5試合登板にして2勝と寂しい結果になった。しかしそのうち一試合のみ完封をしている辺りは残り香を感じさせる。

 そして69年。ついに倉田誠が17を背負う事になる。中継ぎを中心に行っているが73年には中継ぎ中心ながら18勝。時には先発もこなし49試合中11試合を先発登板、2試合完封をしている。彼はヤクルトに移籍する76年まで17を、これまでの選手でも最長の9年背負い続けている。

 1960年代になると山崎、益田、倉田というような中継ぎの背番号として17が輝いている。勿論これは結果論ではあるが、当時は中継ぎでも先発完投がある時代。花形とまではいかなくとも投手陣を下支えしている投手がつける、いわばエースとは違った意味での巨人にとって重要な投手の背番号でもある事が読み取れる。嵯峨に17を渡した背景にも、先発中継ぎと大車輪の働きを期待した結果ではなかろうか。

 それは1976年、倉田とのトレードでヤクルトから来た浅野啓司にも全く同じことが言える。彼もまた中継ぎを中心にしながら基本的に一年に何度も先発を行っており、引退する84年まで基本は20試合以上登板、うち先発1回以上、という活躍をしている。

 影のエースとは言い過ぎにしても、巨人投手陣の屋台骨の一つに17という背番号があったようにみてもいい。

4,そして槙原、以降へ

 85年、86年には久しぶりに肌の色が違う選手によって背負われる。キース・カムストックはヴィクトル・スタルヒンとは違い、文字通りの助っ人外国人。二年と短いが、87年にサンフランシスコ・ジャイアンツにわたる。

 そして87年、遂に槙原寛己が背負う事になる。斎藤雅樹、桑田真澄がいるためにエースとは決して言われないにせよ、チームの看板と言われても問題ない投手が藤本英雄以来、おおよそ30年ぶりに背負う事になる。その伝説にこたえるかのように94年に福岡ドームで完全試合。基本毎年10勝をする投手が背負って159勝。17を背負ってからは128勝と圧巻の成績を残し、2001年までと最長の14年担ぎ続けた。

 02年からは東芝のエースで巨人の左腕エースであった高橋尚成が06年まで背負い続ける。07年からは21番をつけるため、17は台湾から来たジャン・チェンミンが08年までつけている。09年からはドラフト7位から一時エースまで上り詰めた東野俊が。つけて3年で29勝とブレイクを果たしている。

 東野がトレードされた翌年13年。東芝のエースにして近鉄、オリックスでは中継ぎで活躍した香月良太が背負っている。翌年FAで広島から入団してきた大竹寛に譲ったため、一年だけではあるが、2014年にはブレイクし直すなど、存在感を放った。

 そして14年からは広島カープからFAで移籍してきた大竹が背負う事になる。8年つけ続けて28勝と物足りない数字ではあるが2014年優勝での貢献、2019年サムライジャパンプレミア12の追加選手など、存在感が全くなかったわけではなかろう。

 そして、今日に至る。

5,まとめにかえて

 ここまで追ってきたが、どうだったであろうか。

 投手の背番号でありながら、時には大投手の、時には屋台骨としての、基本は巨人の投手として重要なポジションにいる選手ばかりであった。なんなら内野手として一瞬だけつけていた丸木が逆に印象深いほど投手の背番号であった。

 その背番号も今年の大竹引退に伴って空席に。

 どんな投手がつけ、どんな彩りを添えていくのだろうか。槙原や高橋尚成のようにエースの系譜を踏んでいくのか。倉田や益田のように中継ぎとしてチームを支えていくのか。または安原、嵯峨のように一瞬だけ輝くのか。

 2022年の背番号は、黙って球界を見つめている。

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