貴方の見た推しの安打は何本目?
長野久義(巨人)1500安打に中村奨吾(ロッテ)1000本安打。
更に森下暢仁(広島)が完封ながら猛打賞と安打の文字が躍る一日となった。
ヒット。
元々野球が生まれる過程で最も大切にされたものがヒットであった。それはピッチャーが下から投げて打たせることを主体にしたものからもわかる。
上手投げを許した1870年代以降、投球が見直され20世紀に入るとジョン・マグロ―率いるニューヨーク・ジャイアンツがクリスティ・マシューソン、ロジャー・ブレスナハムを中心とした投と守りの野球、いわゆるスモールボールの開発をしていったように野球の歴史はまず打撃から始まり、そして投手、守備へと進化していったのである。
ホームランというものが野球にとって本格的に意味を持ち始めたのは木造建ての球場から鉄筋コンクリートが増えていき、ボールの質が格段に上がっていった1920年代以降。それこそアメリカの経済と共にベーブ・ルースがアメリカンスポーツの帝王となった時代に象徴されるのがホームランだ。これより以前のいわゆるデッドボール時代になると野球とは専らヒットをどこまで伸ばせるか、二塁打、三塁打と伸ばせるかのスポーツとしての要素があった。現在までタイ・カッブやサム・クロフォードといったデトロイト・タイガースの面々が名を残しているのはそこにもある。
ヒットがあるから野球があったのだ、とは過言ではないだろう。
ボールを打つことが野球のいでたちであり、投球も守備もその進化する野球の一端である。
アマチュアでも未だに選手殊勲賞の次に出てくるのが首位打者である。未だに優先されるところからもその大会でヒットをいくつ打てるか、というのは野球では大きな基準だ。
野球史を追っているとしばしば通算成績の話題が上がる。
今だと野球を観ない層ですら大谷翔平(現ロサンゼルス・ドジャース)のヒットやホームランは気にされているであろうし、その際にアメリカへ渡ったイチローや松井秀喜といった選手の打撃数が思い出され、常に比較されている。記録によって選手は生き続けているいい例だ。特に大谷翔平やアーロン・ジャッジ(ニューヨーク・ヤンキース)によってベーブ・ルースが何度も掘り起こされ、ジャッジがア・リーグのシーズン本塁打記録を塗り替えた時には悲劇とも言われたロジャー・マリスの記録を癒した。
膨大な野球記録によって日本やメジャーといったプロリーグの野球は支えられていることを改めて実感する。
安打記録があるから早稲田の天才打者榎本喜八は思い出され、北川博敏の代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打は一試合一安打四打点で片づけられる。あの時代の一安打と今の時代の一安打はどれだけ価値が違うか多くの指標を表して説明し合うファンがいれば、それこそ無意味だとファンが言う。
この無常さこそ記録の魅力であり、楽しさでもある。
私も野球史を風下ながら追いかけている人間なのでもちろん通算記録というのには目を通す。シーズン成績や通算成績ではその選手の人となりなどは見えてこないがそれでもそのチームにとってどう期待され、どう答えたかの簡単な指標にはなる。大雑把ながら選手の特徴や時代、リーグの特徴を把握できたりするのだ。
ブーマーと呼ばれたグレッグ・ウェルズがマイナー時代から三振の極端に少ないバッターであったり、ウォーレン・クロマティが来日時点ですでに1000本近い安打数を誇っている一方で本塁打は極端に少なかったりするのは記録から見える意外性である。
しかし一方で気になる事もある。
特に私たち野球史に関わる人間というのは通算成績だけで選手を扱いすぎる傾向にある。
例えば前述の榎本喜八などはその安打数と特異な性格のせいで天才と狂気の狭間に揺れた選手として記憶することが多い。
しかしそれは果たして正しい見方なのか、と思う瞬間がある。
人間だれしも大人になれば多少なり生き方の理屈のようなものを得るはずである。それが見えてこない。我々の頭の中で勝手にストーリーをつなぎ合わせて妄想しているのではないか、と思う瞬間がある。
これが実際見た事ある選手ならまだしも、見た事ない選手などまさにこういうように陥りやすい。勝手に妄想して勝手にストーリーを作り上げてしまう。すでに亡くなられている人だと「死人に口なし」といわんばかりに文章を展開してしまう。
小人閑居にして不善を成す。そうならないように気を付けている一方でやはりそのような文面を多く残している私だってそれからは逃げられない。他人に素晴らしさを描かせるほどではないと我々文章を書く側というのはどうしても小人にしかなれないようだ。
関東に来て野球を観る回数がかなり増えたのだが、その際にそういうことを思う機会が非常に増えてきたのだ。
というのも成績というのは言い換えたら積み重ねてきたものでしかなく、一試合一試合の姿を明確に表すものではない。どんな決勝打でも一安打〇打点になってしまい、その試合に表れた姿を伺いしれないのである。
更に言えば試合になると安打にならずとも「おっ」となる打撃もある。安打にこそならなかったもののその一打が相手投手や守備に影響を与えてそのまま打ち崩す呼び水となっていく。そんな勝利を何度も観たし、それに泣いた投手を何人も観てきた。
特にアマチュア、それも大学や社会人となると選手生命としての就活、終活が絡んでくる。だから一打の重みが数字の1で終わらせられるほど軽いものではない。その一安打に笑い、その打席に泣く。そういう姿を見てきた。
たった一安打が次のキャリアを呼び寄せたり、一方でその一安打が全てを崩壊させる序章であったり。
これは通算成績では表せない要素なのだ。
一安打がその選手の生命を分ける、と思った際に改めて野球史を追っている私がふと過去を振り返った時、自分にとって思い入れの深い一安打はどこにあるのか、と思案にふける事が増えてきた。
私たちはいつのまにか重ねる選手ばかりに目を取られ、一試合を決めるたった一安打や、その一安打でもド派手な結果を求めるものばかり大切にしていないか、と思うようになってきたのだ。
過去巨人でエースの一角として投げていた槇原寛己が著書「パーフェクトとKOの間」で阪神のバース、掛布、岡田に打たれたバックスクリーン三連発やその前後事情を書いていたことを思い出す。
阪神戦にはめっぽう強い彼がここぞで毎回試合を落としていたり、バースにはどういう配球で攻め、掛布、岡田にどういう心境のまま投げていたかを事細かく書かれていた。それどころかその後の佐野仙好の代打満塁本塁打の話まで続くなど、結構打たれる側の心情を書き連ねているのが面白いのである。
この書籍を手にしたのは二十年以上前だが投手がどのような考えでそのボールを放り、相手がどこまで読んでそのボールを叩いたのか、というのが書かれているのはなかなか成績には表れてこない。
この時どういう軌跡を描いてその結果に行きついたのか。これを通算成績には見受けることはできないのである。バックスクリーン三連発もバースが一安打三打点(一本塁打)であるし、掛布、岡田も一安打一打点(一本塁打)である。佐野のホームランも一安打四打点(一本塁打)でしかない。
成績では試合の風景を吹き込めないのである。
だからこそこういう文章を書くときに、あくまで自分の話を書こうとするようにしている。
通算成績だけを見て知った気になるのは非常に間違った文章を書くのではないか、という不安が横切るからである。私が観ていなければ当人に取材もしていないものに対して思い込みだけで文章をまとめるのは下手をした間違えたものを人に植え付けてしまうという危険性があると思ってしまうからである。
逆に今非常に大切にしているのは自分が観たその一打をどうとらえるのか、と思う事である。
長野久義が1500本安打を打ったという事は当然ながら1500本の安打を多くの人が見てきたわけである。当然ながら。しかしその選手の1本目から1500本に至るまでのすべてを見てきた人は基本的にいないであろう。いるにしてもそれは関係者か、または幸運に恵まれた人だ。
彼が入団したのは2010年。二度の指名拒否で物議をかもした選手であったことを知らない世代がプロ野球のファンになる時代に入ってきた。
巨人のいい選手だった、という知識は知っていても実際のプレーは広島カープの印象を持つファンだっているだろう。14年という時間は計り知れないほど我々の見てきたものを容赦なく記憶にする。
だからこそ思うのである。
自分の好きな選手の打ったあのヒットは通算何安打目だったのか、と。
通算記録を追う事も大切なのだが、自分が観たその試合でその安打から何を感じたのか、何がきっかけで好きになったのか。こちらの方が重要な意味を持つと思うのだ。
例えばヒットを打った時のちょっとしたしぐさやガッツポーズ、その一安打がホームランで飄々とダイヤモンドを回る姿。周りの大騒ぎに「とんでもないことをしたんだ」と思わされて流されるように惚れたかもしれない。
その自分の記憶する一打が記録ではどこなのか、が記録の成せる重要な一要素であると思うのである。
我々がふと好きになったあの選手の一打はどこのいつだったのか。これを知るだけでも自分の思い出が更に深くなるのである。
我々はつい目の前の数字に踊らされる。
映画field of dreamsで出てくるアーチー"ムーンライト"グラハムのような無安打の選手とタイ・カッブを比べてしまう。100本安打しか打てなかった選手と1000本安打打てた選手を比べて漠然と1000本安打打てた選手を持て囃してしまう。
勿論それは悪い話ではない。1000本安打を打ったという事はその1000本分ファンは心を躍らせた証拠でもあり、その選手の姿に心惹かれた事は紛れもない事実なのだから。
だが、それは何千という試合の中で出た安打の積み重ねでしかない。その中では打ったけど印象になかったものもあれば、ヒーローとなった一打もある。それは100本安打の選手にもその100本の中で必ずあるものなのだ。
そこがどこのどういう試合だったか。
それこそ野球史の記録をまとめる一端でもあると思うのだ。
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